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『悲しみの果て』に秘められている力

エレカシとの出会いのきっかけを追想して

2011年3月11日、その2日前に中学校の卒業式を終え、間もなく高校生活が始まろうとしていた頃、東日本大震災が起こった。東北でも日本海側に住んでいたため、幸いなことに被害は最小限であったが、高校生活が始まるまでの独特の高揚感、言うなれば大切な人に会うまでの幸福感に満ち溢れた甘美な時間のようなものは一切取り払われてしまった。連日連夜放映される震災関連のニュース。自分と同じくらいの歳の人たちが亡くなった、親を亡くした、母校が流された、自宅が倒壊した―。これは決して他人事ではなく、非常に心が痛んだ。そんな浮かない気持ちでいた矢先、某テレビ局でチャリティー音楽番組が放映されていた。何気なくその番組を観ていると、どのアーティストも被災者を励まそうと、「頑張ろう東北」のようなキャッチコピーで明るく振る舞っている。そんな最中、他の出演者とは明らかに異なった強烈な悲壮感を醸し出している長髪の男が画面に映しだされた。そしてその男は画面越しに何やらぼそぼそと話している。

「俺たちの、希望の歌だと思って歌ってる歌です。悲しみの果て、聴いてください―。」

彼のカウントですぐさま曲が始まった。悲壮感を帯びた表情とは裏腹に彼の歌声は優しく、力強かった。これまで自分の中にあった「負の感情」が払拭されたような気がした。そればかりか、何かに殴られたような衝撃のようなものをも感じた。それが自分にとってエレファントカシマシというバンドに初めて面と向き合った瞬間である。今まで様々な音楽に触れてきたが、そのような感覚を覚えたのは彼らが初めてであったように思える。これを機に彼らの曲を聴き漁るようになり、いつの間にか彼らが奏でる音楽の虜になっていた―。

それから何年が経っただろうか。自分は大人になった。あの頃の自分は確かにエレファントカシマシというバンドに衝撃を受けていた。『悲しみの果て』という曲もまた然りである。そんな自分の心を揺り動かしたあの時の『悲しみの果て』が持っていた力とは何だったのか、当時を追想しながら綴っていきたいと思う。

「悲しみの果てに 何があるかなんて 俺は知らない 見たこともない ただ あなたの顔が 浮かんで消えるだろう」

「悲しみの果て」というのは何だろうか。「果て」という言葉は「ある物事の終わり」を指す。「悲しみの果て」とは「悲しみ」が終わりの状態になるということである。では、これ以上に悲しみがない状態に直面した時、人間はどのような行動を起こすだろうか。最悪の場合、首を吊る人が出てくるだろう、屋上から飛び降りる人も出てくるだろう。そもそも悲しみの頂点というのは存在するのか。死んでしまえば結果としてのそこが悲しみの頂点であるといえるだろう。ただ、その感情というのは、あくまで主観的な判断に身を委ねているにすぎず、客観的に俯瞰してみれば、案外その悲しみというのはちっぽけなものなのかもしれない。悲しみの果てに何があるのか俺は知らないし見たこともない、と宮本は言う。こうして地に足をつけ生きている限りは、恐らくそれは誰も知り得ないことだろう。極限状態になったときや死に直面するとき、走馬灯のように今までの思い出が蘇るというが、悲しみの頂点に達した時も同じようにあなたの顔が浮かんでは消えるのか。はたまた、あなたの顔を考える以外に救いの道がないのか。推測的に「だろう」としていることからもやはり宮本自身もその境地に至ったことはないのであろう。「悲しい」気持ちに陥った時には、音楽であれ、友達であれ、何かにすがりたいという気持ちが湧き上がってくる。それは藁をも掴む思いで、自分に関係のあるものだったらどんなものでもすがろうとしてしまう程である。「あなたの顔が浮かんで消える」というのは一刻も早く悲しみの状態から脱却するための人間の至って普遍的な心理なのかもしれない。

「涙のあとには 笑いがあるはずさ 誰かが言ってた 本当なんだろう」

涙を流した後に笑ってしまう。涙の後というのは直後であるかある程度の時間が経っているのかによって笑いの意味が変わってくる。ここはただ単純に笑うというよりも、何か楽しいことがあるはずだという解釈ができないだろうか。ここの部分で気になるのが「本当なんだろう」とした部分だ。本来ならば「本当なのだろう」の方が文法的には正しいが「本当なんだろう」としている。実際に歌ってみれば分かるが、開かれた口で発音される「の」の後に「だろう」と言うと、どこか一本調子な印象を受けるばかりか、その部分がさらっと流されるような感覚がする。一方で「なんだろう」は「ん」の部分で一旦口を閉じ(宮本の発音の場合)、「だろう」の部分で口が開き、それが一気に解放される(宮本は「だろう」を”darou”ではなく”daroh”のように発音している)。声の「大きさ」だけではなく、「鬱屈」と「解放」という発音の「構造上の強弱」を付けることによって、より「本当なんだろう」という言葉に絞り出すような切実さが表されているように思える。

「いつもの俺を 笑っちまうんだろう」

ここでは悲しみに陥った人間が、これまでの自分を顧みて「笑っちまう」と吐き捨てるように言う。ふと、この曲の価値観と遠藤周作の『沈黙』に登場する主人公である宣教師ロドリゴの心情が重なった。キリスト教に対する禁教令が強化された江戸時代の日本で布教していたロドリゴが、度重なる拷問の際もイエスの顔を思い浮かべ、すがり続ける。そして、その苦しみの後にパライゾ(天国)が待っていると信じ、日本で布教していたあの頃の自分自身を笑ってしまう―。

「部屋を飾ろう コーヒーを飲もう 花を飾ってくれよ いつもの部屋に」

ここで先ほどの悲しみの情景を表した歌詞とは対極の表現がなされた現実的な情景へと移り変わる。ここでいう部屋を飾るというのは、部屋をきらびやかに「装飾する」という意味ではなく、悲しみによって生じた「負」の感情を払拭するために部屋を「綺麗にする」という意味であろう(語源的にも「飾」という字は「拭」と似た意味を持つ、いわば家族漢字である)。コーヒーを飲み、いつもの部屋に花を飾ることは悲しみによる非日常から普遍的な日常への回帰を試みているのだろう。

「悲しみの果てに 何があるかなんて… oh yeah 悲しみの果ては 素晴らしい日々を 送っていこうぜ Oh baby Ah… 悲しみの果ては 素晴らしい日々を 送っていこうぜ」

「悲しみの果てに 何があるかなんて…」ここで言葉が詰まり、その言葉にできない思いを「Oh yeah」という叫びという形で表現している。なぜなら悲しみの果てに何があるかなんて誰も知らないのだから―。「素晴らしい日々を 送っていこうぜ」という言葉が繰り返される。これはそこにしか悲しみからの脱却を見出せない末で出た言葉を自分に言い聞かせるように2度繰り返しているように感じとれる。それは妥協の末の諦めにも近いが、物事の道理を悟った末の諦めのような、ある種「諦念」の方に近い意味合いを持つものであるように思える。この「諦念」をもってして、素晴らしい日々を送ることを目指すことにしか救いがない、この一点で宮本はこの曲を締めくくっているのである。

エレファントカシマシの代表曲には「頑張ろう」「胸を張って生きていこう」というような歌が沢山ある。だが、彼らはあの時の震災特番ではそうした曲ではなく『悲しみの果て』を演奏した。そして宮本は『悲しみの果て』を自分たちの「希望の歌」だと思って歌っていると言った。当時の自分は「悲しみの果て」に堕ちて、絶望したとき、果たして「希望」なんて見出せるのだろうかと思った。だが、当時の自分を含め震災で被害に遭った人々の境遇を踏まえてみると、『悲しみの果て』という曲が「あの時」に伝えたかったことが分かってくるように思える。「悲しみ」の対義語というのは「嬉しさ」であって、「悲しさ」から脱却したところで「幸せさ」や「豊かさ」に直結することはない。少なくともこの曲においては、いつものとおり、いつもの風景の下で普遍的な生活を送ることこそが「素晴らしい日々」なのであり、それは悲しみの対極に位置している。そして、そんな「素晴らしい日々」を目指していくことが「希望」でもあり、そこには「生気」が満ち溢れている。「あの時」の『悲しみの果て』には「頑張ろう」と言って後押しをするような力ではなく、自分に寄り添い、包み込むようにして、「希望」を見出させてくれるような力があったのである。

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