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2017年3月10日

ふじもん (22歳)

Base Ball Bear「二十九歳」と「普通」の正体

彼の呪いが僕にとってのお呪いになった瞬間

 「普通」という言葉がある。実に便利な言葉だと思う。そして卑怯な言葉だとも思う。全く同じ顔や形をした人間がいないのと同じように、人は誰しも違う感情や考えのもとに何かを話し、行動する。それなのに、「普通」という言葉で一括りにされ、また「普通」を盾に感情や考え・言動を外部から制限されてしまうこともある。「普通」の絶対的な規定や条件は存在しないし、「普通」について具体的に示された書物も存在しない。世界中どこを探しても、「普通」はどこにも提示されていない。小さなコミュニティのなかで作られた「価値観」という曖昧なものに僕たちは翻弄され続けている。

 僕の学生時代は今振り返ってもとてもじゃないが充実とは程遠い場所にあった。小学生の頃は本当に死を選ぼうと思ったことが幾度となくあった。学校の窓から飛び降りようと何度もした。その原因は自分の考え方や言動、体の成長や趣味嗜好、何もかもが他の同級生と違い、それ故に起きてしまう「いじめのような何か」だった。自分とは違う人=「普通」じゃない人、だから排除しようする動きがどこかで発生する、という図式は何も小学校という小さな社会の中だけの話ではなく、あれから10年以上が経過した今でも痛いほどに感じているモノだ。中学時代もその名残は途絶えず、高校時代は周りと必死に合わせながら生きていた。音楽も、考え方も、趣味も、「本当の自分」の全てを抑えつけながら必死に日々を過ごしていた。だから、とは言わないが高校時代はそれまで程苦になることなく卒業できた。でも、日常のどこかに確実に存在していた違和感は3年間ずっと拭い切れなかった。やはりその違和感の根底にあるものは「普通」だった。僕は周りにとって「普通」じゃなかったからずっと生きにくかった。教師も、友達も、両親も、誰もこの違和感の正体は教えてくれなかった。

 高校時代、Base Ball Bearというバンドの存在を知った。「青春」についてよく歌っているバンドだな、というのが最初の印象だった。「BREEEEZE GIRL」や「short hair」という曲群を聞いて確かに感じた甘酸っぱさや爽やかさに、僕は僕自身の当時進行形で報われていなかった青春を、地獄とすら形容したくなるような青春を、彼らの音楽で取り戻せる気がした。彼らの音楽を聴きながら見る17歳の夏の青空は、いつもよりも青かった。

<風に乗りたくて 見上げてる俺を 連れてって 巻き込んで いま、涼風ガール>「BREEEEZE GIRL」

 2014年、僕が大学に進学して1年が経った頃、Base Ball Bearはアルバム「二十九歳」をリリースした。そこに込められていたのは僕が小学生時代からずっと感じていた違和感の正体、そしてその違和感を打ち消すためのアンサーだった。
 
<空き箱を開けて閉めて 何もないってわかってるけどまだ知りたい 知りたいよ>

 「二十九歳」の1曲目「何才」の歌いだしだ。爽やかなベボベらしいギターサウンドに乗っかる歌詞は、夏でも、転校生でも、青春でもなく、「諦め」と「望み」という、相反する感情だった。その様は、青春時代を地獄のようだと諦めて、でも、それでも何処かに何かがあるんじゃないかと必死になっていた僕に似ていた。

 「アンビバレントダンサー」では相反する感情という矛盾した「普通」を歌い、「ファンファーレがきこえる」では「夢」と「現実」の「極端なモノ」の狭間でもがく青年を歌っていた。「Ghost Town」は現実に引き込また「みんな」とそこから逃げ出す「僕」を描いた。「そんなに好きじゃなかった」では1番で甘すぎるほど惚れ込む愛を描き、2番でその愛が一方通行であったことを知る男をコメディ風に描いた。どれもこれも「極端なモノの間」だ。改めて僕は「極端なモノの間」とはやはり「普通」であることを再認識する。

 「The Cut -feat. RHYMESTER-」そして「ERAい人」では「”僕ら”」「”僕たち”」という単語を意図的に利用して「普通」という同調圧力を表している。曲の位置もこのアルバムのド真ん中=「普通」ということだろう。

 ここでアルバムの雰囲気は一転し、「方舟」では、自分と自分以外の人たちを船に喩え、「僕以外が間違いなのか」「僕が間違いなのか」を気にし、「The End」では日常という名の戦いが終わることがないことを示唆する。「スクランブル」では自分が抱いているイメージで他人の「普通」を決めることの愚かさ、そして「相反する」事象が「表裏一体」であることを示す。

<HighとLowと 現実と夢と 絶望と希望が 乱舞る>「スクランブル」

 作品はいよいよ佳境に入る。「UNDER THE STAR LIGHT」と「PERFECT BLUE」は2曲で表裏一体となった歌だ。一見するとロックバンドらしい激しさを纏った「UNDER THE STAR LIGHT」、Base Ball Bearらしい夏ソングの「PERFECT BLUE」。だが良く歌詞を読めばこの2曲が地続きに繋がった世界観であることが分かる。「UNDER THE STAR LIGHT」では心中を図る男女を、「PERFECT BLUE」では一人だけ取り残された男の子を描いている。前述した通り、僕自身も「死」を選ぼうとしたことがある。誰も知らない、誰の目も声も届かないセカイへと踏み込もうとした。だからこそこの2曲は強く痛く心に刺さる。

 「光蘚」で小出祐介は幾度となく「這いつくばって」と繰り返す。例えどん底に落ちきってしまって、床に這うほど惨めな思いをしたとしても、輝ける、光る事ができることを小出祐介は僕たちに訴えている。それは彼自身が学生時代にどん底の体験をしているからだろう。学年中から友達がいなくなり、沢山の嫌がらせを受け、いないことにされていたことを彼は各メディアで語っている。その小出が「這いつくばって輝くしかない」と歌っている。彼自身が今までずっと感じてきたドス黒い感情を、永遠に続くような虚無感を、報われたいと祈る気持ちを、全て純度100%のままで僕たちに音楽を通して語りかけてくれている。それだけで僕は救われた気分になった。誰かが創り出した「普通」なんて枠に囚われずに自分丘の上に立てればそれでいいのだ。僕らしく輝くことができればそれでいいのだ。まるでこの曲がお呪い(おまじない)だったかのように生まれて初めてそう思えるようになった。

 <いないことにされてた 僕の呪いが 君の傷を癒す お呪いになりますように>「魔王」

 そして最後の曲「カナリア」で、人生はまだまだ続くことを彼らは語りかけてくれる。

 <あっという間の日々はつづく>「カナリア」

 「極端なモノの間」こそが「普通」なのに人は「普通」になりたがろうとする。両極端も、少しの偏りも、真ん中も。全てがあってこその「普通」。それにも関わらず皆が皆「普通」であろうとし、また他者にも「普通」を求めている=「普通」という名の同調圧力をかけられ続けられなければならない現状。それこそ僕がずっと抱いていた違和感の正体だった。そしてその違和感を打ち消すためには、「自分らしく輝く」こととBase Ball Bearは「二十九歳」を通して僕に語りかけてくれた。誰かを喰らってでも、自分らしく輝け。虚構じゃない、リアルな体験と祈りがあったからこそ彼らが発信できるメッセージだ。

 「二十九歳」を聴く前、そして聴いた後で何かが劇的に変化したかと問われると、正直に言って答えはNoかもしれない。でもこのアルバムを聞いた時、何かが変わる気がしたし、僕にとってはそれこそが何よりの救いだった。これからも、幾度となくこの作品に、彼らの音楽に、救われたい。

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