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私はBUMP OF CHICKENが怖い

鎧が剥がれる音がする

BUMP OF CHICKENが怖い。
かつての私にとって救いそのものであり、生きていく指針と定めた彼らの曲が今の私には怖くてたまらない。

高校生の頃、BUMP OF CHICKENに出会った。彼らに出会って人生が変わったという人がきっと世の中には大勢いるはずで、かくいう私もその中の一人なのだと思う。
暗く長い高校時代に、彼らの曲を毎日聴いた。
彼らの曲を通して己と対話し、彼らの曲を通して世の中の理に思いを馳せた。その頃、私は何もかもに怒っていた。
自分が自分として生まれたことに怒り、冴えない人格であることに怒り、色味のない毎日に苛立ち、もはや自分が毎日息をしていることにも怒っていた。とにかく嫌で、何が嫌なのかもわからなかった。
そんな私を彼らの曲は容赦なく現実に引き上げた。

―汚れたって受け止めろ 世界は自分のモンだ―
―構わないから その姿で 生きるべきなんだよ―
―それも全て 気が狂う程 まともな日常―

目を開かされた気がした。とっくに自分として生きてしまっているのに嫌だ嫌だと嘆いて、現実を受け入れる覚悟がなかっただけだと頭を弾かれた気がしたのだ。
彼らの曲はどんなに私がうずくまっても、逃げても、隠れても、必ず私を見つけ出した。どんな隙間にも入り込んで、扉のないはずの壁さえ優しくノックして、必ず私を見つけた。
“そこにいることに気づいてるよ”と言わんばかりにどれだけ逃げても私の手を取り、何度も何度も現実という名の日常に私を救い上げた。
彼らに救い上げられて初めて、私は自分自身を見つめることができた。目の前に広がる現実を受け止めることができた。
その頃はただ世界の端っこの端っこで小さく息をしている私に気がついてもらえるだけで良かった。その存在に気づいているよと、彼らの曲に言ってもらえるだけで良かった。それだけで日常に光が差した。

それから何年経ったのか。ふいに私は、彼らの曲に強烈な畏怖を抱いていることに気が付く。
BUMP OF CHICKENが怖い。彼らの曲が怖い。
彼らの曲は「私」を曲の中に呼び込む。それが例えどんな「私」であろうとも。
いつだって彼らの曲は鏡だ。聴く者の心の情景を映し出す。彼らの曲を前に嘘は付けない。
彼らが歌うのは全ての命への賛美や畏怖であり、あるいは日常というものの愛おしさと厳しさであり、当たり前に繰り返されるこの世界の真実であり、他人と共にいる自分という存在についてである。彼らが歌うのはこの世界の誰もが背負い続ける真実なのだと思う。
だから、彼らの曲の前では立場や年齢や肩書なんてものは全て意味がない。そこにあるのは誰もがいとおしいたった一人であるという、ただ一つの真実だけなのだ。彼らの曲の前ではそれぞれの命は紛れもなく平等であり、そして等しく祝福されるべき唯一無二の存在である。
結局、彼らの曲の前ではまっさらな自分でしかいられないのだ。彼らの曲を聴くとまっさらな自分にならざるを得ない。必死の形相で装備品を数え上げていたって、彼らの曲の前では誰もが「ただ一人の人間」に戻ってしまう。なぜなら、彼らの曲の前では「ただ一人の人間」であるだけでもう全てが許されていて、祝福されていて、そして現実ってものからはどんな人だって逃げられやしないということを否応なしに噛みしめるしかないのだ。だから 彼らの曲を前にしてしまえば、どんな装備も必要ない。

それが怖いのだ。彼らの曲に現実へ救い上げてもらって以来、時が経って私は大人になった。ただ生きているだけでは飽き足らなくなって、何者かになろうとしている。
必死にかき集めた自信や覚悟や経験、知識を積み上げて自分の身体を鎧のように覆う。何者かになるために。あるいは既に何者かであるふりをするために。
それなのにBUMP OF CHICKENの曲を前にすると、あっという間にかき集めた鎧が剥がれ落ちる。どれだけ取り繕っても、どれだけ鎧をまとっても、彼らの曲を前にするとあっけなく「まっさらな自分自身」に戻ってしまう。
現実から逃げ隠れする弱気な自分。ただ世の中の片隅で息をするだけで精一杯な自分。そういった普段は押し込めた自分自身の本性が露わになってしまうのだ。

-誰にも聞こえない悲鳴が 内側で響く-
-ため息 胸に手を当てさせたのは 誰だろう-
-明日生まれ変わったって 結局は自分の生まれ変わり-
-全部嫌いなままで 愛されたがった 量産型-
-この心 自分のもの 世界をどうにでも作り変える-
-どういじればどうなるか 本当は ちゃんと 知っている ずっと-

何者かのふりをしていても、ちっとも特別ではないこと。何にも選ばれないこと。本当は愛されたいこと。それを必死に隠して見ないふりをしてきたこと。彼らには何もかも見透かされてしまう。
彼らの曲はいつだってそうだ。いっそ暴力的だったらいいのに、こちらが抑え込んだ感情の蓋を無理やりこじ開けるような野蛮なことは決してないのだ。
ほら、そこにあるよ。その感情もあなたの一部だよ。そんなふうに、まるで優しくささやくように彼らの曲は押し込めた感情を閉じ込めたその箱をそっと指さす。
誰にも見つかるはずのないその箱を指さされたショックで私は思わず押さえ込んでいたその蓋を開けてしまう。そうしてひた隠しにしてきた自分の感情と向き合わざるを得なくなる。だから私は彼らの曲が怖い。彼らの曲の前では一切の隠し事もできないのだから。

きっと、時間が経てば彼らの曲はまた別の意味を持って私に迫るだろう。きっとそうに違いない。
それはきっと全ての人にとってそうだ。
何者であろうとも、何者でもなくても、彼らの歌は全ての「私」に寄り添い、その傍らを照らす。
BUMP OF CHICKENの曲はいつだって聴き手を諦めない。
「私」が「私」としてこの世に存在する限り、その存在に気付いている時も気づいていない時も絶えず「私」の側で鳴っている。
私は彼らの曲に自分を見る。何者かであるふりをする自分を。それでいて結局は決して何者でもない自分自身を。
BUMP OF CHICKENに出会ってしまった人は最早覚悟するしかないのだと思う。彼らの曲はどんな「私」もあまりに諦めないから、私も私と向き合うことを諦めるわけにはいかなくなるのだ。
向き合うことは怖くない。彼らの曲が側にあるから。
暴かれることは怖い。彼らの曲は優しくも容赦がないから。
そうやって見つめ続けているうちにこの恐怖がおぞましいのか、いとおしいのか、最早わからなくなってくる。

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