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「神様」と「絶望」と「希望」

神様、僕は気づいてしまったの世界観

初めて私が「神様、僕は気づいてしまった」(以下、神僕)に出会った時、私は途轍もない衝撃を受けた。いや、圧倒されたと言う方が正しいだろうか。

クランチサウンドを中心とした鋭いギターリフ、うねるようなベースライン、迫力のあるドラミング、覆面の下から放たれるハイトーンボイス、メリハリの利いた曲構成。それらは私を魅了するのに既に十分な程の材料であった。
しかし何より私が魅せられたのは彼らの世界観、つまりは絶望、嫌悪、怒り、後悔といった私達の心の最奥部に揺蕩っているあらゆる負の感情がぶちまけられたような彼らの歌詞そのものだった。

彼らはあるインタビューで、彼らが覆面を付けてパフォーマンスをするのは、曲のメッセージがアーティスト側から一方的に与えられるものでは無く、聞く者自身の事として伝わるようにする為である、と語っていた。そのインタビューを読んだのは神僕に出会って少し後のことだが、それを読んで私は「まんまとしてやられた」と思ってしまった。
私が彼らの音楽を聴いたとき、彼らのメッセージは自分の心の叫びではないか、ディスプレイに映る覆面の下にはもしや自分が居るのではないか。私はまさしくそう思ったからだ。歌詞の一言一句がまるでジグソーパズルのピースを当てはめていくかの如く、私の中のグチャグチャな心情に一つずつ符合して行くかのように感じられたのだった。
大げさかもしれないがその時、私は神僕の曲に他でもない「救い」を感じていた。

では、いったい何が私にそうまで思わせたのだろうか。彼らの活動を貫くメッセージとは何なのだろうか。それを読み解いていきたい。
 

彼らの曲にまず存在するのは、「世界への絶望」である。神僕の曲の主人公は自分と世界のズレに悩み、生きづらさを感じ続けている。

《絶望 此処に未来なんて物はない
塞ぎ込んでいく
明日は昨日よりずっと冷たい

一生孤独なピエロで
震え怯えていくのだろう
これは宣戦布告だ 
もう何もいらない》(「宣戦布告」)

主人公は自分を苦しめる世界を恨んだ末、「此処に未来なんてない」とまで言い切り、徹底的に否定していく。
巷に溢れる「辛いこともあるけど楽しくいこうぜ」「頑張ればなんとかなるよ」というような、安易な楽観主義。神僕の曲は、そこで歌われる「夢」、「成功」、「希望」、「幸せ」といった価値観へのアンチテーゼでもある。
「神様、僕は気づいてしまった」というバンド名の「神様」とは、第一にはそのような世間の薄っぺらい価値観のことである。大勢の人々が信仰するそのような価値観は、所詮誰かが作った偶像、つまりまがい物に過ぎない。その事に主人公はとうとう「気づいてしまった」のである。

《希望と2つ3つ叶いやしない理想を想像して
両手を合わせて祈っている
誰かの描いた 誰かの都合いい造形

貴方の名前は何

壊してしまえ
夢の見間違えに未来などないのだ》(「天罰有れかしと願う」)

ここまでを見ると、神僕の曲は社会の既成道徳へと反抗するプロテスト・ソングのように見える。勿論その側面も神僕の曲には存在するのだが、彼らの真骨頂は実はここからにある。

繰り返しになるが、主人公は世界を否定し、世間に流布する価値観を受け入れて適合する事を拒み、独り社会に背を向けて生きる道を選んだ。それは世間の価値観が偽物の「神様」に過ぎないことに気づいたからだった。彼は世界のすべてに絶望したつもりだった。

しかし彼は、自分自身が世間の人々と実は同類であるということに気づいてしまう。

もしも「希望」や「幸せ」が偶像に過ぎないのならば、その逆の、自分が縋り続けてきた「絶望」や「不幸」もただの偶像に過ぎないのではないか。
正しい道に気づいたつもりだったが、自分は信仰の対象を「希望」から「絶望」に変えただけではなかったか。
結局は自分も、何かの偶像に縋らずには生きていけない無力で弱い人間の一人に過ぎないのではないか。

2つ目の「神様」とは、第一の「神様」である「安易な楽観主義」に対置される「安易な悲観主義」のこと、つまりすべてに絶望したふりをして不幸を求め、安易に救われようとすることである。それすらも偶像でしかないことに彼は気づいてしまったのだ。

《夢も 希望も 不幸自慢も
大抵は鼻につく味で 飽きてしまったよ》(「宣戦布告」)

「希望」が偶像に過ぎないことにだけ気づいて満足し、「絶望」も同じく偶像に過ぎないことに気づけなかった彼は、もはや「絶望すること」にも絶望している。二進も三進もいかなくなり、彼の矛先は過去の自分自身に向かってしまうこととなる。
そんな自己嫌悪から綴られる歌詞は、悲痛さの色を濃くしていく。

《世界なんて一生愛せやしないと恨んでた
疑うことで自分の命が救えると思っていた》(「メルシー」)

《犯人は一体どうしていつまでそうして傷を抉っているんだ
敗北を美徳のように歌うミュージシャン
人生は救えないようなストーリーばっか描いていたいようだ
さらば、道徳 ヒヨってしまえば堕ちる
なあどうだい東京 僕を 消し去ってくれやしないか》(「だから僕は不幸に縋っていました」)

《失望 独り善がって セカイ系なシング
ソングライティングとも言えない
粗末他力本願なリリック
一生孤独なピエロで
何を求めていたのだろう
これは宣戦布告だ
もう雨は止まない》(「宣戦布告」)

安易な救いの道を何回も払いのけ、幾重ものの絶望を味わった末には一体何があるのだろうか。そこには絶望しかないのか、あるいは未だ見えぬ新たな希望が見えてくるのか。それには彼らは言及していない。
そもそも彼らが描くストーリーは、ハッピーエンドが約束されたような物語には程遠い。しかし、ただひたすらに悲惨な結末が待ち受けている物語なのかと問われれば、それも違うであろう。
同様に、私達の人生も映画のようなハッピーエンドで終わるものとは限らない。彼らの代表曲と言っても良い「CQCQ」で歌われたように、私達は良い方向に向かっているのか悪い方向に向かっているのかも分からず、完璧な人生など歩めないままに、ただできることは目の前のことをひたすらこなし続ける事だけである。
あまりにも単純すぎる推論だが、神僕の曲は私達の人生そのものを描いていると言える。そうであるからこそ、彼らの曲は私たちの心の奥底に訴えかけてくるのではないだろうか。

己の心に真正面から向き合い、自分の中に存在する負の感情を誤魔化さずに見つめること。そして命を賭けて絶望の淵に立つこと。それこそが神僕のメッセージである。
そうすれば希望が見えてくるという保証はどこにもない。しかしただ一つ言えるのは、もしそうしなければ真の希望なんて物は到底見つけられる筈がないという事だ。

絶望を歌った曲だからこそ、希望を求められる。
覆面を被ったバンドだからこそ、真の自分と向き合える。
神僕は、そんな逆説的な救いの力を持つバンドだと思う。

私は彼らの曲ができるだけたくさんの人に届いて欲しいと思っている。誰もが本当の自分から目を逸らし、他人の顔色を窺いながら生きるこの時代の中で、一人でも多くの人が自らの真の実存を取り戻すことができるように。

彼らの曲は私たちへの最後の、そして唯一の処方箋である。

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