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超スローモーションで進行するカタストロフィー

母とデヴィッド・ボウイとキース・エマーソンとプリンスとカレン・カーペンターと私たちをつなぐもの

一昨年(2016年)のはじめに母が亡くなった。
80だったから大往生と言ってもいいのではないか。
2010年のはじめに道路をショートカットしようとして自動車とぶつかった際に腰周辺を骨折してからの母の体力はひたすら消耗の一途をたどり、2014年のなかば頃には食べ物を噛み砕いて飲み込むという、いわゆる咀嚼と嚥下の動作すら困難となり、もはやオートミールやヨーグルトの様な状態にしないと食物を摂取できなくなった。私は母が亡くなった時よりも、そのような状態に陥った母の姿を目にした時のほうが、はるかにショックだった。
怪我の程度は同じだったとしても50代か60代での出来事だったのならば、母の体力がそこまで急速に衰えるということにはならなかったのかもしれない。
じつは母が亡くなる少し前の前年の暮れごろに、病院で母の主治医をしている先生から、母の生命がそう長くはないのではないかということを妹を通じて聞かされてはいた。
この時期に母は永らく会っていなかった友人や親戚と言った人たちの度重なる訪問を受けていて、主治医の言葉は母のそうした近況を踏まえたうえで、人生の幕引きを迎えようとしている病人の様子を数多く目にしてきたという経験則から発せられたものであったのだと思える。
つまりこの時期の母の身体は、通常は人が健康な心身を保つ上で有益になる楽しい、嬉しいと感じられるような体験から受ける身体的影響ですらもが著しく死期を早めてしまう作用にしかならないほど弱くなってしまっていた、ということだったのだろう。

1970年代以降のカルチャー・シーンに多大な影響を与えてきたデヴィッド・ボウイが亡くなったというニュースが伝わってきたのは母が亡くなる5日ほど前のことだった。
ボウイの死の知らせは私には、なんだか母が亡くなる予兆のように感じられたものだ。
ボウイが私だけではなく母も好きなアーティストの一人だったからだ。
決して大げさな表現ではなく、その音楽には多大な影響を受けてきた。
アルバム[スペース・オディティ]はスタンリー・キューブリックの映画[2001年宇宙の旅]への考察を深みのあるものにしてくれたし、[ダイアモンドの犬]によって私はもう一度[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]を体験させられた。同時にこのアルバムは、ジョン・レノンの[ジョンの魂]、マイルス・デイビスの[ビッチェズ・ブリュー]、マーヴィン・ゲイの[ホワッツ・ゴーイン・オン]ととも私の涙アルバム(音楽のあまりの展開の素晴らしさに泣いてしまった)の一枚でもある。[スケアリー・モンスターズ]にはド肝も抜かれたし、シングルの[レッツ・ダンス]は未だに一度は演奏してみたいと思っているポップ・ナンバーだ。
全てのアルバムがベルリンで録音されたことから{ベルリン3部作}とも呼ばれる連作に取り掛かる前の一時期に麻薬中毒に陥っていたこともあり、また奇抜なファッション・スタイルも含め、その才能の発露における最大の手段だった音楽での創造と破壊を特定のパートナーをともなわずに行なってきたことから受けてきた負荷の総量には彼の生命を消耗させるには十分なものがあったにちがいない。
だからボウイの場合、その事実には衝撃を受けつつも、彼が辿ってきた経緯を考えると、もっと早い時期に死を迎えていてもおかしくなかったのではないかと納得できてしまう感情もある。
しかし母とボウイの死を立て続けに迎えてしまってから、それほど月日を経ないうちに伝えられたもう一人の世界的ミュージシャンの死の知らせは尋常ならざる動揺を受けざるをえないものだった。

ロック・ミュージック・シーンから輩出した類まれな鍵盤奏者だったキース・エマーソン。
彼が才能を開花させたナイスから、その名声を不動のものにしたエマーソン・レイク&パーマー(以下EL&P)での活動を通じて発信された音楽に、私は思春期のころから大いに想像力を掻き立てられてきた。その音楽に触れることで生み出されるイメージはまさに驚異に満ちた世界だった。もしも物心つくころから始まった、私にとっての音楽の旅路を彩る風景のなかから彼の音楽を取り去ってしまったら、その風景はかなり味気ないものとなってしまうに違いない。
キースが亡くなったのは3月10日のことで、死因はピストルで自らの頭を撃ち抜いたことによるもの。つまりは自殺で、長年にわたり神に憑依されたのかと思えるほどの超絶的なキーボード演奏を繰り広げて世界中のリスナーを圧倒し魅了してきたミュージシャンの華々しい姿からは、およそ想像の及びようがない命の結末だった。
晩年の数年間、彼は演奏家に多いと言われる{フォーカル・ジストニア(局所性ジストニアともいう)}という神経系疾患に悩まされていたという。医学に関するインターネットのサイトの説明によれば、その症状は「不随意で持続的な筋肉収縮を引き起こし、一定期間内に指を繰り返し動かすことによる」とあり、さらに発症の大きな要因として「正確な運動を繰り返し行うことと、精神的なストレスや性格」の二つがあげられている。
亡くなった直後には、たとえ就寝中であろうとも時間を問わずに激しい動悸や手の痙攣といった症状に襲われるといった、彼が見舞われていた状態とともに、そうした症状をなんとか抑える手段はないものかと病院で医師に相談しても、恒常性を持たないという病の性格から、症状が一時的に治まっている状態で検査などを受けても医学的見地からは身体には何ら異常は認められないという診断を下されてしまうというところが神経性疾患のもつ厄介な特徴であるということも説明されていたと記憶している。亡くなる直前のキースは満足に睡眠をとることも望めない状況に追い込まれていたのかもしれない。

キースが陥った病の解説の中で、とても気がかりなことがある。
それは発症の要因として精神的なストレスがあげられていることだ。
クラシック・ピアノの技術とセオリーを最大限に活かしつつ、ジャズやラグタイムから培ったダイナミズムを加えながらも、ロックやポップ・ミュージックに特徴的であるキッチュな要素を展開させるキースのキーボード・プレイこそがロック・トリオEL&Pの最大の魅力だった。
その音楽の虜になっただろう人たちの誰もがEL&Pの代表作として認める作品といえば、やはり[悪の教典#9]、[タルカス]、それにロシアの作曲家ムソルグスキーの楽曲をアレンジした[展覧会の絵]といったところだろうか。
なかでも「悪の教典#9」に顕著だが、これらの曲に共通しているのは、これもEL&Pの音楽に魅せられた人たちの彼らの演奏に対する期待の内容を最大公約数のように表しているキースの曲芸まがいのキーボード・プレイが存分に堪能できる点だろう。最盛期のEL&Pは無論、後のリーダー・バンドでも、キースの超絶的なキーボード・プレイと、これもまたハイ・テクニックな共演者たちの演奏によって繰り広げられるアンサンブルのスペクタキュラが、スタジオ録音においても、ライブ・パフォーマンスにおいても最大の要であったことは論を俟たない。
もしもキースが自らの音楽の演奏で顕現されることを望んだもの、そしてそれを聴こうと、また観ようとする人々が求めていただろうものを同時に端的に言い表すとするなら、それはまさに{壮大なる音楽のサーカス}とでも呼ぶべきものだっただろう。
亡くなる直前に来日公演を控えていたというキースが、自らの陥っている危機的状況を省みることよりも、日本のファンの期待に応えるために音楽のサーカスを完璧にパフォーマンスしなければならないという義務感をほうを優先させるほど誠実な性格だったのだとすれば、彼の身体に厄介な神経性疾患を引き起こす要因となった精神的ストレスの発生源とは、長年培ってきた性格から生じるプレッシャーであったのと同時に、自らが創造した音楽を再現しつづけるために必要だった手段から受けてきた神経的な圧迫の蓄積であったのかもしれない。
キースを襲った病の経緯を踏まえたうえで、改めて「悪の教典#9」や「タルカス」を聴いてみた。すると、これらの曲を70代を迎えた老人が演奏し続けるということは、かつて華々しく活躍して目覚ましい記録を残したスポーツ選手が老年期を迎えているにもかかわらず尚も記録の更新に挑戦し続けようとするのに等しい無謀な行為だったのではないかと思えてくるのだ。

あらゆるジャンルにまたがる音楽の要素を包括したジャックポットのようなサウンド・クリエイトで1980年代のポップ・ミュージック・シーンをリードしたプリンスの死の知らせが届いたのは、キース・エマーソンの死から受けたショックも冷めやらない4月21日のことだった。
1960年代の文化が醸し出していた空気を見事に再現した[アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ]から[パレード]、そして2枚組の大作[サイン・オブ・ザ・タイムス]に至る音楽の変遷を聴いていくことには、かつてビートルズやピンク・フロイド、イエスやキング・クリムゾンのアルバムを聴いていく過程で味わったのと同様のスリルとサスペンスがあった。
当初の報道では不明とされていた死因だったが、一ヶ月ほどのちの6月の初めになって、フェンタニルという鎮痛剤を過剰摂取したことによるものであったことを彼の最後の地となったミネソタ州の検視当局が発表した。さらに2年近くが経った先日、彼の命を奪うこととなった鎮痛剤と彼との関係が、晩年に彼を苦しめていた腰痛によって生み出されたものであった、という報道もされている。

自分にとって、その音楽芸術に触れる事だけではなく、人生の戦略をデザインするうえにおいても少なからず影響を受けたと思えるミュージシャンたちの悲報に、こうまでも立て続けに接してしまうと、どうしても1980年代の前半にあった、とても類まれな才能を示したシンガーの死を思い出さずにはいられなかった。

カレン・カーペンターが拒食症を極度に進行させてしまったことで亡くなったのは1983年2月4日のことだった。
テレビのニュース報道でこのことを知らされた時、私はとっさに次のような物語を思い描いていた。

・・きっとカレンはカーペンターズのレコードの売り上げが以前のような華々しいものではなくなり、完成させながらも仕上がりへの懸念からリリースを断念せざるをえなくなったソロ・アルバムなど音楽活動での試みの多くが袋小路にはまってしまったことからくるプレッシャーに晒されたことで精神のバランスを失し患うことになった拒食症を悪化させてしまって命を落とすことになったのだろう・・と。

ところが後年になってカーペンターズに関するドキュメント綴った書籍やテレビで放送されたドキュメンタリー番組に接したことで形成された事実のイメージによって、私の作り上げた物語が事実に対する認識のともなわない勝ってな思い込みから生じたものであったことを思い知らされた。テレビのドキュメンタリー番組のなかで兄のリチャードが語っているところによれば、そもそもカレンに拒食症の兆候が現れた時期は彼女がまだティーンエイジャーだった頃にまで遡ることができ、さらにその進行の様相が、たとえばレストランでの食事の最中にトイレに立ったまま長時間戻ってこないというような、周囲の人間の目に奇行として映るようになったのは、カーペンターズのシングル曲が軒並みヒットとなり、コンサートをやれば世界中のどこの都市でも大盛況となっていた、まさに彼らの全盛期でのことだったという。

カーペンターズという稀有なポップ・デュオが押しも押されぬスターダムに上りつめていた、まさにそのころ、中学生だった私が彼らに抱いていたイメージとはどういうものだったろう。

素晴らしい音楽的才能に恵まれ、誰もが羨むような成功を手に入れ、ぬけるような青空を眺めるときのような爽快感と喜びに満ちた未来のイリュージョンしか思い描くことのないような明るいポップ・ナンバーを次々に届けてくれる美しい兄と妹といったところだろうか。

しかし、かつて彼らに抱いていた真夏の陽光のごとく美しくも眩ゆい想念が、その後にメディアがもたらす情報に触れたことで事実を知るに及び、ネガティブなイメージをまとってしまったことも事実である。そうした情報の一つは、たとえばカレンが自分たちの音楽をパフォーマンスする際に採った完全主義的な方法から生み出されたことがらである。
あるコンサート終了後のバック・ミュージシャンを伴った食事会の席上、演奏中にレコードの演奏にはないアドリブのソロを展開したギタリストに対し、カレンは「なんであんなソロを演ったの? 今度ああいう演奏をするようならバンドをやめてもらうわ」とまるで見せしめのように言い放ったのだという。
どうもカレンには、コンサートというのはリスナーにレコードというマテリアルで届けられている音源を寸分違わず再現する場であるべきで、そうすることがリスナーに対する最大の誠意の表現となるなのだという確信があったらしい。
またリチャードは同じテレビのドキュメンタリー番組のなかで、当時のコンサート・ツアーの様子について触れて、自分たちはプロモーターが立てる過密スケジュールから多大なプレッシャーを被った犠牲者であったかのように語っているのだが、はたしてそうなのだろうか。
むしろカレンの完全主義を実現するために必要なオーケストラの団員を引き連れてのコンサート・ツアーをマネージメントしなければならなかったプロモーターのほうこそが犠牲者だったのではないだろうか。結果的にアーティストにとって過密すぎると思えるようなスケジュールでも組まなければ採算の合うものにはならなかっただろう。
そう思えてしまうのは、EL&Pが1977年の北米ツアーでそれと同様のことをやって破産状態に陥ったという史実があるからだ。

私はプリンスが亡くなった時と同じ57だが、膝や腕の特定箇所が何かのきっかけで激しく痛むようになったのは50代を迎えた頃だった。痛みが発生する場所は、かつて仕事中の怪我で激しい打撲を受けたことがあるところばかりで、本職であった建築現場での肉体労働に加え、特に脚部に生じる痛みに関して言えるのだが、趣味でやっていたランニングやサイクリングで受ける負荷から疲労の蓄積が表面化した結果と思われる。30代の前半に仕事中の怪我で負った複雑骨折を治すために受けた手術のために今でも入ったままになっているボルトのせいか時折激しく痛むことある左手首にに加え、30代の後半にアーチェリーに入れ込んでいたせいなのだろう、同じ左手の肘も激しく痛むことがある。弦を引っ張るだけの右手に対し、左手には弓を前に押す力と弦を引っ張る右手の力とが相乗的に加えられるからだ。
行動的な性分に加えて凝り性でもある私は周囲の人間が驚くほど練習に明け暮れていた。左手の肘の故障はその時期にすでに発生していたものが若さで保たれていた身体の対応力や柔軟性が失われてくる50代になって表面化してきたものだと思われる。
プリンスに多量の鎮痛剤を飲ませることになった腰痛に悩まれせされることになってからも、すでに久しい。肉体労働による長年の酷使に加え、利き腕の使用から引き起こされる骨格の歪みも痛みに拍車をかけている。マッサージをしてもらっていた整骨院の先生から、ミュージシャンには腰痛が多いので利き腕とは逆使用の楽器で練習すると痛みの緩和にはなる、という話しを聞いたので、それなら自分も左利き用のベースで練習をすればいいのかと思ったのだが、考えてみれば自分の腰痛の原因が楽器の演奏のみによるものとは思えないし、だいたいそれだけの理由で腰痛が生じるほど演奏量をこなしているわけでもないと思い、やめた。

病は気から、という言葉がある。
そこには気分や気の持ちようとともに性格や性分も病を呼び寄せることがある、という意味が込められているようだ。

病とともに生きる、という言葉がある。
心が離れつつあった家族が、家族の一人が病にかかったことをきっかけに再び心を通わせられるようになったという話しも聞く。

病上手の死に下手、という言葉もある。
私も身体に起こった様々な故障から生じる痛みを緩和させようとしてきたことで、自分の身体のことや社会のあり方について学べたことが多い。

「なんということだ。この街はまるで超スローモーションで進行するカタストロフィーのようではないか!」

フランスの建築家で、オブジェなどを制作するアーティストとしても有名だったル・コルビュジエが、アメリカに渡航し、はじめて超高層ビルの林立するニューヨークの街並みを目の当たりにした時に思わず発したとされている言葉である。
今目にしている限り何も不都合なことは生じていないように思えても、そのあり様のなかには将来とんでもない災厄を引き起こすかもしれない要素が確実に事象を進行させつつ内包されている、という予感のようなものが言い表された言葉だったのだろう。

キースが自己の音楽芸術を成就させることに没頭していたとき、自分が現在おこなっている行為のなかに、将来自分を破滅に追いやることになるかもしれない契機が生まれているという可能性に思い及ぶことなど、なかっただろう。

母の身に、デヴィッド・ボウイの身に、キース・エマーソンの身に、プリンスの身に、カレン・カーペンターの身に起こっていただろう、超スローモーションで進行するカタストロフィー。それは紛れもなく、天珠のまっとうに向けて歩む私たちの物語でもあるのかもしれない。

最近では30代の頃までは視力検査で2,0近かった視力も衰える一方だ。

でも、まだまだやりたいことはたくさんある。

行ってみたいところも、聴いてみたい音楽も、読んでみたい本も、観たい映画も、話してみたいことも、なくなることはないだろう。

先はながい。

おそれることはないのだ。

でも、時々は後ろを振り返ってみよう。
カタストロフィーにならないように。

そして、みんな、お大事に。

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