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2017年4月20日

前川あずさ (20歳)

だから私は彼女を愛す

関取花 「ひがみ」の連続した果てにあるもの

 高校生の頃、何かあったのかと聞かれると何もなかったけれど、何となく何かが息苦しくて仕方がなかった。
 友達はいた。勉強も、ぼちぼちやっていた。お気に入りのシュシュで髪を結って、教室では大体笑っていた。人前に出れば笑えてしまっていた、だから苦しかった。
 そんなときに、関取花というシンガーソングライターを知った。どんな言葉で調べたのかも覚えていない、Youtubeの関連動画でたまたま巡り会ったかどうだったか。ふわりとした出会いだった。
 初めて聴いた彼女の曲は、神戸女子大学のCMソング“むすめ”だった。

<もてたい 痩せたい 恋をしてみたい/少しちやほやされてみたい>

 柔らかいギターの音、記憶に見当たらないような唯一無二の力強い歌声、そして媚びや見栄を取り払ったまっすぐな詞たち。白の鍵盤だけで弾けそうなメロディは不思議と初めて聴くような気がしなくて、でもそれは既視感とは違う、ノスタルジックな感情を呼び起こした。こんなにきれいな旋律、こんなにきれいな言葉、顔も名前も忘れた幼馴染に久方ぶりに出会ったような、心穏やかな気持ちになった。確かに世界はこうだった、そんなことを考えた。
 他の曲も聴きたい、聴いてみたい。調べてみると、ミニアルバム「いざ行かん」がリリースされたばかりだと分かった。すぐにCDショップへ行った。高校生でアルバイトをしていなかったので、母親に次の月のお小遣いを前借りして、買った。
 全6曲入りのミニアルバムは私を虜にした。心に隠し持っている冷たく尖った感情をつららに重ねた“つらら”から始まり、シェイカーの音に乗る爽やかな歌詞が心地よい“はつ恋”、一人旅の頼りない道程を淡々と歌う“一人旅”、曲名とは裏腹にアイリッシュなサウンドとユーモラスな歌詞が癖になる“私の葬式”と続き、自分へのラブソングである“だからベイビー!”、そして最後は、“むすめ”に続いて神戸女子大学のCMソングになった“最後の青”で締めくくられる。寒色系のひんやりとした曲もあれば、暖色系のぽかぽかとした曲もあり、全体を概観すればその彩りの豊かさに、ひとつひとつを拾い上げればその飾らない美しさに、心を奪われた。iPhoneのプレイリストはやがて彼女の曲でいっぱいになった。
 やがて私は高校3年生になり、大学受験を見据えて日々を過ごさなければいけなくなった。大学で学びたいことはいくつかあったけれど、学校の先生や両親の「それを勉強して将来何になるの?」に答えられないまま、だらだらと時間だけが過ぎて行った。大人を納得させられる目標や正当な動機を見つけられず、大学に進学するということすらその意味が分からなくなり、それでもとりあえず夏休みのあいだだけ、予備校の夏期講習を受けた。嬉々として机に向かう同い年が集った、少し狂気じみた空気が耐えられなくて、休み時間はいつも校舎を出て駅前のハンバーガーショップで時間をつぶした。窓の外を行き交う人々を眺めながら、いつもイヤホンで聴いていたのは関取花の“めんどくさいのうた”だった。

<俺は好きな本読んで/好きな音楽聴いて/好きな人と愛し合って それでいいんだ/めんどくさい>

 「将来この職業に就きたいからこの学校へ行って勉強する」、大人が求めていた模範解答を持ち合わせていなかった私に、この曲だけはそっと、寄り添ってくれた。
 
 
 
 常に溺れかけのように息苦しかった高校時代、自分を取り巻く環境は呼吸を不可能にする「水」で、関取花の音楽はいわば「空気」だった。目には見えないけれどこれがあれば生きていけると直感的に思える存在。その存在を近くに感じるからこそ苦しくても水を掻く、そんな関係だった。
 当時の私は、なぜ彼女にこんなにも惹かれるのかということを考えなかった。ただひたすらに、好きだから好きだった。しかし、最近ふと、なぜ彼女だったんだろうと思った。
 たとえば、十代の息苦しさを歌った歌はたくさんあったはずだ。励ましの歌や、それこそ受験生の応援ソングなんかも、世の中には溢れかえっていた。そういう音楽もいいなとは思った、でもやっぱり私は、関取花が良かった。
 「そういう音楽」は少し、私には眩しかった。負けないで、諦めないで、夢はいつか叶うから。涙を拭いて、前を向いて、その先にゴールがあるから。舞台照明用のスポットライトを突然目の前で点けられたかのような、強烈で入り込む余地がなくて、手元のものを見るどころか目が眩んで何も見えなくなる、そんな感覚だった。でも彼女の音楽は違った。曇天の日に雲の裏にうっすらと光る太陽と、よく似ていた。ああ、あそこに太陽があるんだなあ、その事実をただ静かに教えてくれた。程よく明るい、だからこそ手元が良く見える。程よく遠い、だからこそ近づいてみたくなる。「光」を歌うのは同じでも、その示し方は彼女に独特で、唯一のものだった。たとえば“むすめ”の最後のフレーズがまさにそれだ。

<泣いて怒ってそして笑って 過ごしたこの家の日々のこと/そっと心の奥に隠して 私は学ぶのよ/夢を見つけるのよ>

 複雑に入り混じったものを胸に潜ませながら、<学ぶ>。きっと単なる「勉強」のことだけを指しているのではなくて、生きていくうえで悟っていく「学び」のことを歌っているのだと思う。そうしていつかは夢を<見つける>、「叶える」ではないところが何となく、ほっとする。必要最低限の荷物だけを背負って旅に出るときのような、身軽であっさりとした「光」だ。
 
 

 ちょうど2年前の春、私は大学生になった。大学受験は、「失敗した」というより、「欠場した」という感じだった。結局何の志もないまま手の届いたところへ行った。何ひとつ晴れやかではない春だった。晴れやかではないまま春が終わり、夏が来て、学期が終わるころには大学を辞めたいとさえ思い始めていた。
 鬱々とした季節の巡りを夏までで止めてくれたのが、初めて行った関取花のライブだった。2015年の9月2日にリリースされたアルバム「黄金の海であの子に逢えたなら」のリリースワンマンツアー、新宿プーク人形劇場で行われたツアーファイナルへ行った。
 緞帳の下がったステージの前で、息を詰めて開演を待った。ずっとイヤホン越しだった彼女の歌声を生で聴ける、楽しみを通り越して緊張や畏れさえ感じながらそこにいた。そうしてついに開演のブザーが鳴って緞帳が上がり、両の手を空に大きく広げた笑顔のその人を見た瞬間、目頭が熱くなって涙がこぼれた。
 歌を聴く前に、泣いた。
 憧れであり尊敬する人であり、あんなふうに笑えるようになりたいという目標の人でもあり、人が人に対してこんなにも深い思い入れを抱いては罪深いのではないかと思うくらい好きなアーティストと同じ空間にいることが、私の胸を震わせた。
 そのまま“すずらん行進曲”を歌い出したあの瞬間を今でも、一連の映像として鮮明に思い出せる。

<小さな思い出 くだらぬ言い訳 この手で丸く包んで/大事にかばんにつめこんだのなら いざさらばひとりよがり/天気は良好 窓を開けましょう これからどうしましょう/空さえ飛べそうたしかに行けそう 手のなるほうへ>
 
 紙飛行機をしゅっと手から放した瞬間のような、軽やかでいて力強い彼女の声、それを支えるフィドルやバウロンのアコースティックな華やかさ。心臓に直接私は大丈夫、何だってできる。何の根拠も保証もないけれど確かな力が湧き上がってくるような、そんな体験だった。もう少し頑張ってみよう、素直にそう思えた。
 
 

 今年の2月14日、バレタインデーで浮足立つ人々を横目に、チョコレートではなく1枚のCDを買い求めた。関取花のニューアルバム「君によく似た人がいる」だ。シングル曲“君の住む町”や、「ひがみソング」としてテレビでも話題を呼んだ“べつに”、ハマ・オカモト(OKAMOTO’S)やReiもレコーディングに参加した“もしも僕に”、“平凡な毎日”など全11曲が収録されている。前作からさらに色彩豊かになった、聴き終わって真っ先にそう思った。思わずため息が漏れるほど素敵なアルバムだ。
 そして、今このアルバム聴いてようやく、私が高校生のときに感じた彼女の「程よい明るさ」がそもそもなぜ「程よく明るい」のか、腑に落ちたような気がした。
 彼女がたびたび「ひがみソングの女王」というキャッチフレーズを冠して紹介されるとおり、関取花の音楽に多く共通して在るのは「ひがみ」だ。ただそれは、たとえば“べつに”に歌われるようないちゃつくカップルへの苛立ちなど狭義の「ひがみ」ではなくて、生きてゆくことのままならなさや、その中で感じずにはいられなかった周りと自分の差異など広義な捉え方での「ひがみ」である。この「ひがみ」が雲となり、光が過剰になるのを抑える役目を果たしていた。また、「ひがみ」はほかの似たような感情――悲しさや悔しさ、憎らしさなど――と違って、自分の中だけでしか共感されない、何よりも孤独な感情だ。それが、ひとりのアーティストに、旋律と詞でもって歌われるということそのものに、大きな意味があった。誰にも打ち明けられず自分の中でさえも置き去りになっていた部分を、白く飛ばした光によってうやむやにするのではなく、その部分を明らかにすることだけに専念するという、その企てのなさが、私を魅了してやまなかったのだ。
 さらに、今回のアルバムでその「ひがみ」は今までと異なる姿を見せたように思う。それが顕著な曲が、アルバムの終盤に収録されている“平凡な毎日”だ。

<そんな自分が特別に見えていた/人知れず泣く悲劇のヒロインに見えていた/でもそれは 実はよくある話>

<平凡な僕らの 少しだけゆがんだ毎日/みんな何かあんだって 少しずつ気づくのさ/いつの日か>

 自分だけがつらい、自分だけは苦しい、「ひがみ」の含む閉じた感情のひとつだが、それは実は<よくある話>であること。みんな何かある、それに気づくこと。「ひがむ」の意味を辞書で引いてみると「自分が不利なようにゆがめて考える」という一文が出てくるが、その考え方とは正反対なことが、まさにこの曲の中で歌われている。しかし決して、ひとりよがりだった自分自身を卑下したり厳しく戒めたりすることに徹するのではなく、このあとは<笑い話にしようぜ>と続けていくところが、彼女の企てのなさの真骨頂である。
 ねじれの構造それ自体がまっすぐさを成すツイストパンのように、「ひがみ」をつないだ果てにできあがった「みんな何かある」という気づき。「ひがみソングの女王」である彼女の心髄には、途方もない「まっすぐさ」が据えられている気がする。
 
 

<努力は大抵報われない/願いはそんなに叶わない/それでもどうか腐らずに/でかい夢見て歩いて行くんだよ>

 「君によく似た人がいる」のリード曲でもある“もしも僕に”の歌詞だ。ミュージックビデオが公開されて初めてこの曲を聴いたとき、直球すぎる言葉に思わず笑って、それなのになぜか涙も一緒に零れ出た。自分でも知らずにいた心の穴を吹き抜けていく音楽、吹き抜けることでそこに穴が開いていたことを静かに知る、そんな優しくて力強い音楽だと思った。この春から大学3年生になり、毎日この曲を聴きながら通学電車に揺られていると、何となく「もう少し生きてみよう」と切実に感じる。高校生だったあの頃とは悩みも願いも違うけれど、彼女の音楽から受け取る力は変わらずにいる。だから、彼女がリスナーに与える力は、痛みの程度や希望の種類を超越した、普遍的で確かなところにあるのだと思う。あの頃も今も、そしてこれからも、彼女の音楽と共に生きたいし、ひとりでも多くの人とこの喜びを分かち合いたいと、願ってやまない。

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