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2017年4月20日

山下リン (23歳)

歌になった感情

エレファントカシマシ“悲しみの果て”について

 ある感情を歌うのではなく、歌が感情そのものである、感情をあらわしている、そんな歌こそ、聴き手の心に深く伝わる。
 恋のよろこびをまっすぐ歌わなくても、音や言葉のすきまから浮き足立った気分がこぼれているような、具体的なモチーフには託されていなくても、最後まで聴けば現実の重みがのしかかってくるような、歌がある。ある感情をなめつくした人間にしか生み出せない、境地の表現だ。
 そういう歌は実際に聴いても、それが感情そのものであるとは、なかなかわからない。作った人間ですら、その歌がむきだしの感情であることに気づいていない場合もある。
 ひとりの人間が、ひとつのグループが、今、過去、未来、社会、恋愛、しがらみ、競争、希望や絶望、何でもいい、個でも集合でも、何かと徹底的に向き合い、味わい、闘い、勝ちを収めたと思ったら負け、殴り倒したつもりが打ちのめされ、また立ち上がり、みずからの皮膚をつねっても肉を絞ってもその感情しか出てこない、いや、出ないくらい体に溶けこんでいる極限の状態にのみ、感情が、そのまま歌に変わる。歌がそのまま感情になる。
 そして、その中でも、感情の膜のようなものを突き破った歌だけが、聴き手の持つ、同じ感情にふれる。鳴りあう。
 だから伝わるか伝わらないかは紙一重だ。伝わらなければ、作った人間が疲れただけで、終わる。いまいち具体性に欠ける歌だった、と、やりすごされるかもしれない。
 悲しいと思うだろうか。感情が伝わらない悲しみなんて、この世に、ありえるだろうか。ぬるいよ。届かない悲しみなんて、本当の悲しみではない。そう言いたくなるような、歌がある。

“悲しみの果て”――デビュー30周年を迎えたバンド、エレファントカシマシの一曲だ。

 メディアにおいて、“悲しみの果て”は、事務所との契約を打ち切られたエレファントカシマシの移籍後初シングルで、のちのヒット路線につながる起死回生の一曲、というような紹介をされることがときどきある。彼らのおかれた当時の状況を象徴するのが“悲しみの果て”というタイトルで、そこから這いあがるドラマのはじまりを告げる歌だ、そう認識している聴き手も多いと思う。
 そのとおりだ。エレファントカシマシのバイオグラフィーの中で見れば、位置づけとしてはそうなのだが、“悲しみの果て”は、そんなに単純な歌ではない。

 この歌は、悲しみそのものだ。悲しみを歌った歌ではなく、悲しみという感情なのだ。
 
 “悲しみの果て”は、3分に満たない長さが、サビ→間奏→Aメロ→サビで構成されている。沈むことのない、後半のシャウトをのぞけば盛り上がりすぎることもない、声と演奏とメロディーが続く。
 そして、難しい言葉がひとつも使われていない。どこかぼんやりした歌詞が並んでいる。とてつもない苦労が描かれたり、何かを失ったエピソードが重ねられたりするわけではない。ほんの少し先の未来である“悲しみの果て”について歌っているだけなのに、この歌は、悲しみを的確にあらわしている。

 それはなぜか。

 まず、この歌は、今まさしく“悲しみの果て”にいる人間の歌ではない。最初のサビの歌詞にある。
《悲しみの果てに/何があるかなんて/俺は知らない/見たこともない/ただ あなたの顔が/浮かんで消えるだろう》
《涙のあとには/笑いがあるはずさ/誰かが言ってた/本当なんだろう/いつもの俺を/笑っちまうんだろう》
 “悲しみの果て”を、思い浮かべる歌だ。
 ジェットコースターでいちばん恐怖を感じるのが傾斜を昇っていく時間であるように、悲しみのてっぺんに向かって進んでいる今だからこそ、近づく過程にあるからこそ、悲しい。しかも、そこにスリルはない。果てを越えてからの、楽しみも、希望もない。愛する人の顔がまたたくだけだ。
 そして、笑う。うれしくて笑うわけではない。やっぱり何も変わってねえな、いつもの俺だな、と思って笑うのだ。
 ひとしきり泣いたあと、すっきりしたからではなく、自分が情けなくて笑ったことが一度でもあるだろうか。悲しみのどん底ではそんなふうに笑うのだとわかっていて、そんなものだろうとあきらめて待った経験が、誰にでもあるだろうか。あったとして、それをひとつの歌にする気力が、“悲しみの果て”を過ぎても残っているだろうか。
 宮本浩次には、残っていた。エレファントカシマシは、世に出した。
 実際に“悲しみの果て”を迎えてから、それを待っているときがもっとも悲しいのだと気づき、力をふりしぼって歌にしたに違いない。ひとつの感情の渦の中で激しく揺さぶられたからこそ、あらゆるものを削ぎ落としたこの曲にたどりついた、そう思うと、より深みが増すだろう。

 余計なものがない。丸裸であることもまた、悲しみを強めている。
 エレファントカシマシのファンなら、彼らがどれだけひねくれたことをやれるか、宮本浩次がいかに文学的素養に満ちているか、知っているだろう。同じ感情を歌うにしても、あてもなく歩き回ってみたり、酒を飲んでみたりして、世間に悪態をつきながら、自分を痛めつけながら、聴き手の耳を裂き、ひりつかせることが可能だ。男らしさの、無頼派の、極北に連れていくこともできる。
 しかし、“悲しみの果て”は、複雑なアレンジに頼っていない。言葉も簡単で最小限だ。これは、できないからではない。かといって、意図的に、あえてシンプルにしたわけでもない。
 当時のエレファントカシマシの状況が、そうさせたのだ。“悲しみの果て”で、もまれ、気力が尽き果て、それでも何か作らねばというとき、この曲を差し出すしかなかったのだ。
 自分の感情を歌うのではなく、その感情に食いつぶされてからっぽの状態のまま歌えば、どんな内容であっても、切実さをもって響く。
 “悲しみの果て”の場合は、その感情が、悲しみだった。いくらでもずぶとい言葉を紡げるはずの宮本浩次が、《悲しみの果ては/素晴らしい日々を/送っていこうぜ》しか言えなかった。一切の思考を奪われるほど、悲しみに呪われていたのだろう。

 宮本浩次という人間がにじみ出ている。それが、“悲しみの果て”の、いちばん悲しいところだ。
 この歌が生まれたきっかけとして、事務所の契約打ち切りや、なかなか売れないという苦悩などは、確かに挙げられるだろう。しかし、そんな理由だけで、宮本浩次は“悲しみの果て”にいたのだろうか。悲しみをごろっと投げ出すような歌を作り、歌ったのだろうか。
 そうではない。この歌は、宮本浩次の人生の悲しみなのだ。
 大げさに言えば、産まれてからそれまでのすべての悲しみを、宮本浩次はなぎ倒して歩いてきた。だから今、生きている。それでも、なぎ倒した痛みは記憶として残っていて、歌に、動きに、少なからず影響を与えている。痛みもまた、悲しみとなる。壊しても再生する感情だ。
 それが積もり積もってあふれそうで、早くどうにかしたいと思っているときに、契約打ち切りという、現実的な悲しい場面がおとずれたのではないか。やぶれかぶれのロックンロールに変えて投げやりに対処していた感情と、真剣に向き合わざるをえなくなった。復活の一曲を、別のバンドかと思うような美しい歌に仕上げるくらい、音楽を、冷静に考えなくてはならなかった。
 ひとりの人間が、今までの自分を見つめ、決別する瞬間には、どうしようもない悲しみがある。さらに、自分につきまとう悲しみを受け入れ、今は見えない未来へ歩いていこうというひたむきな決心も、あわれみに近い悲しみを誘う。
 どこを切っても悲しみが血しぶきのように吹き出す“悲しみの果て”は、宮本浩次の人生と照らし合わせることができるから、胸に迫るのだ。

 そして、聴き手の悲しみも、震える。誰しも抱えている悲しみが、なびく。その奥深くでは拒絶しながら、もっと刺すように痛めつけてほしいと、願っている。なぜなら、固まってしまった悲しみは、二度と動かせないからだ。一生、つぶすことのできないままだ。
 
 アニバーサリーイヤーのエレファントカシマシは、ベスト盤を発表し、バンド史上初の47都道府県ツアー、テレビ・ラジオ出演、ライブ映像配信など、30年目とは思えないほど、精力的に活動している。
 “悲しみの果て”を待っている人、抜けている途中の人、もう通りすぎた人が、歌ってくれるのを待っている。悲しみに温度をあたえてほしいと思っている。
 次は、いつ、どこで、歌われるだろうか。幸か不幸か、私たちは島国の生まれで、狭い土地に敷きつめられた無数の《いつもの部屋》で、うずく感情をもてあましている。

《部屋を飾ろう/コーヒーを飲もう》(“悲しみの果て”)
 生活を、繰り返しながら。

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