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cero『POLY LIFE MULTI SOUL』

境界線で床踏みならしステップを

2018年5月16日にリリースされたceroの4thアルバム「POLY LIFE MULTI SOUL」を延々と聴いている。デビューから一貫した流れるようなストーリーテリングを完成させ、海の向こうへの研ぎ澄まされた嗅覚でこの国のポップミュージックの先端を射貫いた前作「Obscure Ride」すら霞むくらいの大傑作の誕生だ。こんなに突き抜けた凄みのある作品を送り出してくるとは!

最初にこちらも大傑作、前作「Obscure Ride」の話をちょっとしておく。「Obscure Ride」は日本で2015年に発表されるポップミュージックアルバムとしてこの上ない作品であった。D’AngeloやRobert Glasperなどジャズ、ソウル、ヒップホップの潮流をいち早く押さえた「今のビート感」(後のインタビューで「とにかく早く発表したかった」と語っていたのが印象的だ)を取り入れつつも、その歌はウェットで歌謡的な面も多分にあり、また髙城晶平のボーカルもブラックミュージックど真ん中とは言い難い。それを彼らは「Eclectic」、「Replica」というワードでもって何処まで行っても本当のブラックミュージックはできない(しない)ことに面白さを見いだした。また1st アルバム以降一貫して描き続けたストーリーテリングの美しさもこのアルバムのサウンドと並ぶポイントであった。ラストを飾る「FALLIN’」のこれまでの彼らの軌跡全てをひっくるめて受け止める力強さよ!ブックレットに記載さえされない、か細いファルセットによって放たれる「忘れるわけないだろう」こそシャウトなんだよなー、全てなんだよなー。

という具合に前作も気持ち悪いくらい好きなんですが、今作にはそれすら霞むくらいに熱中している。このアルバムをリズム、拍、コードであったり楽理なしで語るのは非常に難しいように思われる。「魚の骨 鳥の羽根」であれば「三連の4/4拍子と6/8拍子のクロスリズム」と解析してみれば、ああすごいのか、複雑なのかという説得力が出てくる(し、実際文章書くのも楽であろう)。しかし、このアルバムは拍やコードといった理論への知識が皆無な僕も関係なく魅了するポップアルバム、ポップソング集なのだ。これほど好きなのだから何とか糸口を探ってこのアルバムについてちょっとでも分かった気になりたい。だから書く。足りないところは教えてください。
 
 

そんなわけで最初のキーワードは「分からないこと」だ。一定以上音楽(に限らずカルチャー方面の趣味)が好きならば、分からないものを背伸してでも何でも聴くという、何とも言い表せないあの体験はつきものであろう。僕の話をすると、例えばRadiohead「Kid A」なんて当然のように訳が分からなかったし、Kendrick Lamarを初めて聴いたときすら「これが音楽?」という感想が記憶に残っているが、そこには同時に未知のポップミュージックにへ触れる事への何にも代えがたい興奮があった。しかし良くも悪くもそれなりの視聴体験を積んだ今では、大半のポップミュージックは、その中で良い悪い、好き嫌いという評価軸こそあれど、どういうジャンルの掛け合わせで、何と同じフォルダに入れておけばよくてといった具合で、「分からなさ」を感じる機会は大分減少した。それが日本の歌モノ、ポップアルバムならば尚更である。最近は、まだまだ歌モノ、ポップミュージックにこそ自分は最も興味があって楽しいものだと思う自分に対して、再生産され、繰り返されるその楽曲構造、リズムと歌メロ、フロウの絡み合いに「どうせ全部一緒じゃん」と無意識に飽き飽きする自分という葛藤のようなものを抱えている最中だった。

それが「POLY LIFE MULTI SOUL」はどうだ。1周聴いて真っ先に挙がった感想は「半分も分かった気がしない」。その日中に自分は相当にこれが好きであると確信し、何十回と聴き進めるが、とてもじゃないが「分かった」と自信をもっては言えない。そもそも完璧に「分かる」ためのコードを僕はまだ持ち合わせていないのだから、それはむしろ当然のことであろう。このアルバムを起点として、出会うべきタイミングで新しい音楽に出会うのだ。日本語の歌モノ、ポップスの範疇から軸足そのままに、オリコンデイリー1位を獲得するほどのポピュラリティーを得てもなお、そんな体験を提供してくれるポップミュージシャンが他に日本にどれだけいるだろうか。
 
 

今作での僕にとって一番の聴き所はリズムと、その上を実に巧みに泳ぐ髙城晶平の日本語のフロウだ。白眉は7曲目「Buzzle Bee Ride」と10曲目「Waters」か。リズムセクションのタメ、ヨレ、揺らぎや、アクセントに正確に寄り添い、絡み合うように音符を置くそのフロウの美しさよ!まさにリズムのための歌なのだ。このアルバムのフロウは、歌詞カードでワードを読み込みながら追ってもなかなか頭に入ってこないし、仮にアコギで弾きかたろうものなら実体などつかめないはずだ。そんなリズムとは切っても切り離せず、相乗効果を生み出し引き立て合うような歌が、日本語で完成されたことに僕は強い喜びを感じている。

そもそも日本のポップスらしくないリズムに滑らかに日本語のフロウを乗せることは、以前からのceroが挑戦してきたことであると同時に得意技であり、髙城晶平がいかにボーカリストとしてユニークであるかが最も顕著に分かるポイントであった。「exotic penguin night」、「マイ・ロスト・シティー」、「Yellow Magus」、「Wayang Park Banquet」などの楽曲群はその挑戦の軌跡であり、今作でアルバム全体としてその試みが真に結実したのではないか。
 
 

「分からなく」て、「フロウの実体も掴みにくい」この作品がどうしようもなくポップに響くその理由は何だろう。僕はこのアルバムがダンスミュージックであるということに答えがあると思う。このアルバムの楽曲群のビートは得てして日本のポップミュージックのそれとはかけ離れていて複雑だ。しかし、それと同時にどうしようもなく肉体的ではないか。最後をまとめ上げるトラックとして、荒内佑が唯一リリックまで書き上げた「Poly Life Multi Soul」がポップミュージックのダンス代表格であろう4つ打ちハウス的なビートであるのがとても示唆的だ。他にも「薄闇の花」、「レテの子」その他の楽曲も速めのBPMと練られたリズムセクションに思わず体が動き出す。アフロポップやブラジル音楽など、異国の馴染みない香りがする音楽の影響がふんだんに盛り込まれたこの作品は、それらの音楽がすべからくプリミティブなダンスに結びついていることを実に滑らかに僕たちに伝えてくれるのだ。
 
 

歌詞についても触れないわけにはいかない。今回のアルバム発表に際した公式ホームページのインタビューで語られたように、生から死へと漸近していく「Obscure Ride」に対して、今作では死から生へと強い逆向きの矢印でもって、向かってくるものの存在が随所に描かれる。鮭は夜になると川を出て(越えて)街にやってくるし、今にも生まれゆく子供は川の境界線で実にご機嫌なリズムではしゃぐ。この「境界線」や「侵入」の感覚に強く結びつく作品として、僕は2016年から配信されているNetflixオリジナルドラマ「ストレンジャー・シングス」を挙げたい。ツタに覆われたピンク色の柔らかい膜みたいなものを境界として、あちらの世界から怪物「デモゴルゴン」はやってくるし、あちらの世界の自宅物置小屋の位置で憔悴するウィルは「ここにいるよ」と電話や蛍光灯など光、電気によってSOSを送る。「Waters」の1ライン「同じ場所にいながら 異層に生きるものたち」なんてまさにそのものじゃないか!ちなみに公式ホームページのインタビューでは、「遡行」のリリックにおける「少年性」というキーワードのモチーフとして「ストレンジャー・シングス」というワードが高城晶平の口から発せられる。これにはかなり芯を捉えたことへの悦と同時に、その意図せぬ切り口に大変驚いた。
 

ときに生と死は案外緩やかな、「ストレンジャー・シングス」のツタに覆われたピンク色の柔らかい膜みたいなものや、鮭の泳ぐ川みたいな境界線でもって繋がっているのかもしれない。最後に今作におけるキーフレーズを振り返ってみよう。「かわわかれわだれ」。「川が枯れ」ることは本当の意味で「誰かが別れ」ることになる。

街を沈め、たくさんの生命を「影がない」側へと誘った大洪水、しかしそこに川が(水が)脈々と流れ続ける限り、きっと僕たちは「思い出せる」し、「忘れるわけない」のだ。

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