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日本マドンナの『ファックフォーエバー』を聴いてやり直せ

ここはロック村の、生ぬるい馴れ合いの言語空間ではない

 日本マドンナは、高貴なバンドである。再結成後にリリースされた新作『ファックフォーエバー』は、比類なきまでに高貴な日本マドンナの、高貴この上ない作品である。彼女たちが高貴であるのは、マドンナ(聖母)だからではない。ロック/ラップが混在する音楽シーンにあって、固有の表現スタイルを模索するその姿が、原理主義的で孤高なものだからである。 

 日本マドンナが2013年の解散前にリリースした3rdアルバム『バンドやめろ』は、主題曲をはじめ、徹底した批判精神と怒りに貫かれていた。
 それは、ロックバンドがロックバンドを批判するという、ロックシーンの構造的な問題を背景とした表現であった。自堕落なバンドが前提としている、生ぬるい送り手/聴き手の関係が、彼女たちの批判の矛先となっていた。(PVでは、他のバンドから「君たち、そんな音楽やっていて、親に申し訳ないと思わないの?」と言われた屈辱的なエピソードが再現されている。)
 「ロキノン的」と揶揄されそうな表現で気恥ずかしいが、ロックとは、現代を生きる個人による、生と背中合わせの、一切妥協のない純粋な表現形態ではなかったのか。作品とは、親や友人や共同体の全てから疎外されてでも、表現しなくてはならない衝動のことではなかったのか。
 彼女たちのもっている高貴さとは、2人の高校生と1人の中学生として活動を始めた時点から、そうした原理主義的なものであり、実際に、彼女たちの音楽は、そうした原理が剥き出しになった痛々しいものであり、そこには一瞬の緩みさえなかった。
 『バンドやめろ』の翌年、日本マドンナはあっさりと解散した。「バンドやめろ」と歌ったバンド自体が解散するということには、何らの矛盾もなかった。バンドの継続などという些事は、彼女たちの原理とは無縁のものだったはずである。

 それから5年後に再結成してリリースされた、4thアルバム『ファックフォーエバー』は、ベイビー・シャンブルズの同名の曲に似た、パンクあるいはグランジ的な世界観を漂わせてはいる。しかし、この作品にあるのは、ロック/ラップが混在する音楽シーンにあって、闘争的で煽動的な声と音とで、固有の表現スタイルを模索する、またしても原理主義的な姿である。
 このアルバムの中で、聴き手を最も戦慄させる曲は『三浦綾子の塩狩峠を読んでやり直せ』である。

 まず、この曲では、ボーカルの杏奈の話法が、ロック/ラップの紋切型から程遠い地点にたどり着いている。「ほらほら約束指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲ます」「そもそも信ずるものってなんだ そんなの一体私にあるか」と、「ほらほら」「そもそも」という言葉から歌いだされるボーカルの杏奈の太く、ドスの利いた声は、いにしえの左翼運動でのアジを喚起せずにはおかない。また、ラップのフロウとは異なり、韻をあまり踏むことがなく、生煮えの言葉が性急に吐き出されている。聴き手は、あたかも、直に胸ぐらを捕まられたような錯覚に陥る。
 杏奈のこうした独自のボーカリゼーションは、1stや2ndアルバムでも『ラップ』と題されて、継続して試みられてきたものである。3rdでの、遠藤ミチロウ(「Michiro, Get the Help!」名義)の『オデッセイ・1985・SEX』のカバーも、その延長線上にあった。
 その他の4th収録曲『社会の奴隷』では、唐突に「ですます」体の超早口のフロウが挿入される。また、『田舎に暮らしてる』では、私小説的な内容が、伴奏なしの語りから始まり、時にポエトリーリーディング風に、時にフォーキーに、時に肯定的なシャウトで、荒唐無稽な起承転結で語られる。
 概して、杏奈の声は、あまりに生々しいがゆえに、駄々っ子の発する未熟で稚拙な叫び声として受け取られることもあるだろう。あるいは、ルサンチマンのこもった呪詛のようなものとして。しかし、杏奈の生々しさは、そのような、ロックの、紋切型の話法とは無縁であり、杏奈のパーソナリティが等身大で露呈された、《声即人格》とでも言うべき、稀有の生々しさを獲得している。その意味で、遠藤ミチロウや宮本浩次の系譜にあると言える。

 更に、この曲では、「三浦綾子の塩狩峠」という単語が、極めて非ロック的な異物として、聴き手を揺さぶる。その異様な固有名詞は、圧倒的な異物として、ロックの送り手/聴き手の言語空間に「ぶち込まれる」。
 中学生レベルの平易な日本語や和製英語ばかりが横行する、日本のロックの言語空間にあって、「三浦綾子」「塩狩峠」が、極めて非ロック的な異様な単語であることは、言うまでもないだろう。
 予め断っておくが、筆者は、三浦綾子の『塩狩峠』という日本文学の「名作」が、20代の若者たちによって、「熱いメッセージソング」のモチーフされていることを、吹聴してまわり、教養主義的に称揚したいわけではない。事態は、そんなに単純なものではない。
 固有名詞は、概して、分からない人には全く意味が通じない、極めて非効率的なコミュニケーションツールである。「塩狩峠」という単語を初めて耳にする者は多いだろうし、そのうちの一部だけがネットで検索して、個々に何らかの了解に辿りつくのみだろう。
 しかし、彼女たちの中には、「三浦綾子の塩狩峠」という言葉でしか表現出来ない何物かが存在しており、彼女たちは敢えてその固有名詞を選択する。それは「大江健三郎のセヴンティーン」でも「中上健次の枯木灘」でもない、代替不可能な何物かなのだ。伝わるか伝わらないか分からないが、一種の賭けであるかのように、「三浦綾子の塩狩峠」は歌詞として選択されている。
 「三浦綾子の塩狩峠」で彼女たちが表現したかったことが何であったかについて、語ることは、ここでは差し控えたいが、その小説がキリスト教信仰者による献身的な死を扱ったものであり、彼女たちの原理主義的な高貴さと共鳴するものであることは指摘しておく。
(余談だが、時を同じくして、米国のR&BアーティストのSZAの新作には、『ドリュー・バリモア』という、女優の固有名詞を冠した曲が収録されている。SZAは、ドリュー・バリモアについて歌詞では一切言及せず、タイトルにのみ唐突に用いる。この固有名詞もまた、SZAにとっては、必然性をもった、代替不可能な何物かなのである。)
 杏奈の生々しいフロウに続き、圧倒的な異物である固有名詞が、一種の賭けのように、やぶれかぶれにシャウトされるときに、聴き手は戦慄を覚えずにはいられないだろう。もう、ここはロック村の、生ぬるい馴れ合いの言語空間ではないのだと。

 こうした表現スタイルの必死な模索は、ここ数十年間、内外を問わず、ロックミュージシャンたちにとっての最大の課題である。すなわち、ロック/ラップが混在する音楽シーンにあって、いかにしてラップ(ヒップホップ)の圧倒的な直接性に対峙するのか、である。
 ただし、ここで急いで付け加えたいのは、直接性とは、ライブにおける聴衆との祝祭的な一体感や高揚感のことではない。直接性とは、共通理解の基盤を一切前提としない送り手/聴き手の緊張関係上で、送り手が、等身大の言葉と音を用いて、何ものかを聴き手に送り届けるという状態を指す。(そのために、送り手は、メディアを通じて、等身大の自分を対象化することが必要であり、ロックが、レコードというメディアとともに誕生したというのは、その意味においてである。しかし、ここでロック史をおさらいしている紙幅はない。)
 こうした直接性は、2018年の世界のミュージックシーンにあっても、ロックではなく、ケンドリック・ラマーやカーディ・Bらのような米国のヒップホップ/R&Bにおいて、圧倒的な優位性をもって実現されている。(ところで、あなたは、4月14日のコーチュラでのビヨンセの歴史的なパフォーマンスを観たか?)
 そうした直接性をもった表現スタイルを、極東の島国では、日本マドンナが原理主義的に模索している。闘争的で煽動的な声と音とで、ロック/ラップが混在する音楽シーンに孤高に挑む、日本マドンナの高貴さを擁護したい。

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