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本当のこと、まで

尊き時をくれた小沢健二

「もう小沢健二は、音楽活動って、しないんじゃないかな」
長いことそう思っていたから、活動休止後のライヴは、もしかしてこれは気まぐれ。二度とこんなこと、ないかも。
そう思って、手に汗握った。
ステージの上の小沢健二から、まっさきに伝わってくるのは真剣さと必死の緊張だった。
その必死に、私はのみこまれてしまった。

《そして微かな恐れもなく
僅かな疑いも持たず
甘き力が我らと往くこと
それを知ってる 》

一人称に初めて小沢健二が「我」を使った『時間軸を曲げて』に、私はおののいた。
同じライブを見た仲間と感想を述べ合って、気持ちを、わかちあうはずだった。
なのに、声はささくれだって、耳に引っかかって、自分のなかで響かない。
私の言葉は、口にしたそばから、自分の思っているのとずれてく。

イエーイ、なんて言って盛り上がった、はずだった。
新曲、すごかったね、なんていって、うなずき合って。
泣いちゃった、なんて、と照れ笑いして。ドアノックついていけない、と愚痴り合って。
でも、そういうひとつひとつが、言葉になっていくと――

違った。

こんなことを語り合いたいんじゃなくて。
私の感じたのは、もっとすごくて、もっとたくさんで、もっと複雑で。
でも、言葉にしようとすると、のどがつまる。
何を口にしてみても、軽薄になる。知ったかぶる。どうでもいいことばかり言ってる。

どれもこれも違う気がする。

私の気持ちは、こんなじゃない。
私だって、嘘をついてるわけじゃないのに。
もっと他に、思ってることがあるはず。
だけど、すべてを口にすることができない。
口にするのが怖い。自分の見たライブから、どんどん離れてしまいそうで。

みんな、私みたいに、怖かったりするんだろうか。

とれなかったチケットを譲ってもらい、「東京の街が奏でる」は、ひとりで見た。
たまたまそうなったけれど、これが幸運だった。
タイトル曲『東京の街が奏でる』を聞いて、思った。

《その誓いを 今覚えていると
新しい歌を聞く 街で考えている》

小沢健二はずっと、抱えてきたのだ。
逃げないで、背負っているのだ。

《いつか優雅さは 惨めさの手をとり
空へ昇る高熱 放つ 炎に変わる 》

臆病で惨めな私は、空へ手を引かれるような気持ちで聞いていた。

終わった後、誰も彼もいなくなったオペラシティの前で、ひたすら、じんとなってた。
見あげると、月がつやつや綺麗に光って、見てると、ぽろぽろ涙が出た。
ああ、よかった。
小沢健二を信じていてよかった。
すうっとした気持ちで、涙を流しながら、天に向かって笑った。

こんなバカな泣き顔、誰かといたら私、胡麻化すだろうな。
心ごと封印して、胡麻化してたんだろうな。
一人でよかった。
オペラシティを後にしながら、そう思った。

「魔法的」は、一緒に見た人と、喧嘩をしてしまった。
その人が口にしたライブの感想――あんなふうには、はしゃげない。
というのを聞いて――許せない。
そう、思ってしまったせいだ。

私だって同じことを思ったというのに。なぜだろう。

不安になって、ライブを見たほかの人たちに、感想を求める。
あの素敵な体験を語り合うはずが、話はすぐ、ゴシップやら、蘊蓄やらに流れていく。
盛り上がるのは、つまらない事実、下卑た言葉。
分断を避ける知恵、なのかもしれない。
細かく感想を言い合うのは危ない、そう思ってのことかもしれない。

人は誰かとまったく同じように、生きられるわけがないし、感じられるわけがない。
当たり前だ。
だけど、
「子どもができたから自分にはわかる/そうでないからわからない」
「アメリカに住んでたからわかる/そうでないからわからない」
「あれを知ってるからわかる/そうでないからわからない」
そんな、ちょっとしたことで、たやすく揺らぎ、気持ちにひびが入る。

些細なことから、自分にはあの人より、あの人は自分より、
小沢健二の歌がわからない、わかっていないのかもしれない、
と考え始めて、止まらなくなって、そんなことで落ち込んで。

思ってもみなかった言葉を耳にして、考え抜いた挙句、小沢健二は遠い、と思う。
誰かに自分の思いをさらけ出してしまうのも、耳にするのもつらくなる。
小沢健二を誰かと語り合うのが、怖くなってしまった。

自分の見たものに、もう誰も介入させたくない。
言葉に加工して、自分の見た、自分の感じた小沢健二が違うものになっていくのは、たくさん。
笑いや涙をこらえたり、ちょっと違うと思いながらうなずき合うのはもううんざり。

そんなだったから、フジロックの小沢健二は、またしてもひとりで見る。
これも正解。といえなくもなかった。
小沢健二の前、コーネリアス。雨。
誰かと来ていたら、コーネリアスをいつまで見て、どこで小沢健二のステージに移動するかとか、どうすれば雨に濡れないかとか、そういうことばかりが気になってしまっただろう。
きっと、まっすぐな気持ちで楽しめなかっただろう。
でも、ちょっと、寂しかった。

《大丈夫かな これでいいのかな 半信半疑》
『飛行する君と僕のために』を聞きながら、寂しくても、迷ってもいいんじゃないか、なんて思っていた。

泣き出した乳飲み子を抱えて客席から離れる母親の姿を、「かわいそうに」「面倒だろうな」と思いながら、私は朗読を、ライブを、完全に満喫できる自分がうれしかった。うれしい半面、それでいいのかという気持ちもあって、そんな中で雨が、ショーを盛り上げるスパイスみたいに降って、私はスーパーヒーローになりたくてもなれない自分が少し哀しかった。

一人だと、気持に嘘をつかなくて済む、というのは、よくわかった。

「春の空気に虹をかけ」も、誘いを断り、一人を選んでしまった。
一人だから、三階席がいい。遠くでいい。どうせ小沢健二は遠いんだ。
ちょっとやけっぱちで取ったチケット片手に会場へ入った。

開演。
会場が闇と化したとたん、ひとりぼっちだったはずの私は、
色とりどりの星が瞬く夜空を、会場の全員から、差し出されたように思った。
ツアーグッズの、魔法的電子回路が、観客たちの手元で色とりどりに光って、それはそれは夢のようで。
光のすべてが、私に与えられているように思えた。
もちろん魔法的電子回路を持っていない、私のような観客もたくさんいる。
そのせいで、光が完全な列をなしていない。
闇があって、ばらばらな動きをしていて。
そう、闇。
その黒い空間が、さらに光の美しさを引きたてている。

趣向を考えたのは小沢健二かどうかわからない。
そうだったとしても、そうでなかったとしても、どっちでもいい。
とにかく私は、感じてた。
この光景は、会場にいるすべての人からのプレゼントだ、と。
見知らぬ私たちはみんな、気づかぬままに、プレゼントしたりされたりし合ってるのだと。
そういう感覚が、ライブのあいだじゅう、ずっと続くのだということに、その時は気づいていなかった。

《「小沢くん、インタビューとかでは 何も本当のこと言ってないじゃない」》

いきなりコールを求められて、みんな叫ぶ。
いや、みんなじゃないな。面食らってもごもごやってる人の方が多かった。
私も面食らいながら、小声でつぶやく。つぶやいてみて、気づく。

そうか。
小沢健二も、いつだって本当のことを言えるわけじゃないんだ。
私だけじゃない。
きっと、ここにいるみんなだって。

この曲『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』が発表されたとき、ああ、来たか。と、なんだかやけに腑に落ちた気がしたのだ。
小沢健二は向き合うことにしたのだ。

《僕の彼女は君を嫌う》と始まるラップで、ゴシップの類に堕してしまいかねないリスクの高い内容を扱い、小沢健二を茶化し、揶揄する人を手招きするような歌詞を、目をそらすことなく、書き上げたのだ。
自分の痛いところをさらけ出して。
普通であれば触れられたくないところと真正面に対峙して。

胸を撃たれる。
単純で、低俗な言説は、真摯な姿勢に、力を失う。

《この頃の僕は弱いから 手を握って 友よ 強く》
《この頃は 目が見えないから 手を握って 友よ 優しく》

そうか、こんなことを書くようになったのか。
そういうことに、ほっとしていた。肩の力が抜けていった。
小沢健二はまた、これまでと違う一歩を踏み出したのだと思った。

私は小沢健二の手を強く強く握りしめたくなるのだった。
映画の主題歌ということもあり、何層にも重なる光景と心理描写。
 

《君と僕の心を愛す人がいる》
《君と僕の言葉を愛す人がいる》

小沢健二が歌う瞬間、「友」だとか「君」だとかをどうしたって、自分のことのように感じてしまう。
考えてみれば、ずっとずっとこうだった。
小沢健二の歌はみんな私に向けて、私のことを歌っているようにに聞こえてしかたがないのだ。

みんなそうなのか? 私だけ? そして、今度のは、特に。

君、というのは岡崎京子のことだ。そうだそれならつじつまが合う。
そう言い聞かせてみて落ち着こうとして、しかしこれは自分に発せられた歌なのだ、そうとしか思えない自分がいる。

小沢健二から遠い私の席は、右も左も子ども連れの母親。
ライブ中も、思いがけない雑談。予測できない動き。
だけど、うるさいとか、邪魔だとか、びっくりするくらい思えない。
こら、と叱る母親の姿も、舞台装置の一コマみたいで、視界の隅で楽しい。

遠目にも目立つのは満島ひかり。
オチとか深い意味とかがすごくあるのか、あんまりないのか、よく分からない趣向の数々。
ぴったりとは揃っていない、どころかバラバラな、自由すぎるステージ上のダンス。
夢のような、というのはいつものことだけれど、その、夢の中がやけにおちゃめで、つい笑ってしまう。

観客の愉快なヤジ。「ひかり」コール。
ヤジを飛ばす人の気持ちがわかる。
私もなんだか、小沢健二と、満島ひかりと、すぐに会話できちゃいそうな気がしている。
ステージの上の人たちが、これまでよりずっと遠いはずなのに、なぜだか、すぐそばに感じられる。

武道館の日の丸を茶化す、やや不謹慎で、出まかせな(そんなはずはないと思うけど)調子のトーク。
小沢健二が近くに思える。
何を言っても受けとめてくれそうな気がする。

そして、空間を共にする、どんな観客の気持ちも、自分と今、通じるような気がする。
どの人ともきっと、わかり合えそうな気がしている。
みんな、本当の心をもっている。
私はここにいるすべての人から、与えられている。

《本当だろうか?幻想だろうか?》!

今回のライブは、完璧、という印象ではない。
突っ込みどころが満載で、御機嫌で、痛快で。
そしてなんだか、ひどく自由にぶっ飛んでいて。

見てる最中から、こんなだった、あんなだったって、今すぐに誰かと話したくってたまらない。
このはしゃいだ気分を、思い切り誰かと分かち合いたい。

現実へのカウントダウンの後、『フクロウの声が聞こえる』。
そうだ、現実というのは、小沢健二とお別れする時間じゃなかった。
私にとっては少なくとも時々は、小沢健二の曲を聞きながら過ごす、小沢健二を思い浮かべながら過ごす、小沢健二を思い出しながら過ごす現実なのだった。

それは、《本当と虚構が一緒にある世界》であり、《混沌と秩序が一緒にある世界》であり、《直感と推論が一緒にある世界》であり、《ベーコンといちごジャムが一緒にある世界》であり、《孤高と共働が一緒にある世界》であり、《絶望と希望が一緒にある世界》なのだ。

そんな現実へ向かおうとする帰り際。
子ども連れの夫婦の間で、一人客がちらほらと目立つ。
見知らぬ女の人が退出の列を待ちながら、ぽろぽろ泣いていた。
泣きながら、でも、微笑むその人が、一人で来ているということに、よく観察しているうち、わかった。
仲間だ。と思った。私以上に私みたいだ。

声はかけなかった。
けれど「あなたのこと、何もかもわかる気がします」、そういって、肩を叩いて、彼女の手を握りしめたかった。
彼女のほっぺたのうえで流れていたキラキラ。
あのキラキラこそが、本当だ。
私は小沢健二とも、会場の一人一人とも、みんな、本当のことで、つながっているのだと思った。

終わった後に話題になるのは、満島ひかりを「ディスった」ってことらしい。

現実なんて、しょせん、そんなものかもしれない。

《間違いに気がつくことがなかったのなら?》、と小沢健二は歌った。
間違いに気づいても、そのままにしておいたほうがラク、なんて見過ごしてしまえば、本当のことまで、たどり着けない。

目をそらすものか。
思い切って自分も、私自身に、この世界に、立ち向かわなければ。
だって私は小沢健二のライブを見たんだから。あの歌を聞いたんだから。

素敵だったライブを、自慢げに語りながら、私は願い続ける。
届きますように。本当の心に。闇を照らす光に。

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