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私とGRAPEVINEと西原誠

西原誠というロックスター

喧騒が遠くに聞こえる。
 

1999年8月。生まれ育った東京を離れ、福島県で新婚生活を送っていた時のこと。スピッツのファンクラブ経由で知り合った大阪の友人が、一通のメールを私に送ってくれた。そこには、歌の歌詞らしきものだけが書かれていた。それがGRAPEVINEの「羽根」だった。
 

繰返す誇らしい心で
また何かを忘れても
舞上げる片道の羽根で
世界をそっと見下ろす
(羽根)
 

当時私はGRAPEVINEの名前を知ってはいたものの、まだ曲を聴いたことはなかった。すぐにシングル「羽根」を買って聴いた。「羽根」という楽曲の持つ張り裂けそうな痛み、重くて暗くてカッコいい感じは、私の心にぴったりきた。カップリングの「JIVE」もカッコよくて痺れた。カセットテープ(!)のA面いっぱいに「羽根」、B面に「JIVE」のみを繰り返し入れ、延々と聴き続けた。
 

続いて私は、当時の最新アルバム『Lifetime』を買ったのだと思う。「SUN」と「白日」が特に気に入った。育ってきた場所を離れてうだるような暑さの真夏のアパートで聴いたGRAPEVINEは、私の人生に鮮烈な印象を残した。
 

翌2000年に3枚目のアルバム『Here』が発売になると、すぐに聴いた。
高村光太郎によれば、智恵子は東京には空がないと言ったそうだ。育ってきた東京の街を離れ、智恵子の見ていた青い空の下で聴いた『Here』、それは当時の私の心そのものだった。
 

さんざん親を憎んできた。何も出来ないくせにプライドだけは高く、繰り返し仕事を失ってきた。実家から東京から逃げたくて何もかも捨てたくて結婚して福島に来たのかもしれなかった。
そんな私の心模様に『Here』はドンピシャだった。
 

君や家族を
傍にいる彼等を
あの夏を そういう街を
愛せる事に 今更気付いて
(here)
 

田中和将の歌詞が心の奥までしみ込んだ。優しかった。

カセットテープに『Here』をダビングし、カラーコピーで手製の歌詞カードまで作り、福島で仲良くなった友達に無理矢理おすすめして貸した。
 
 

程なくして、私は妊娠をした。最初の子は、心拍を確認できたもののすぐに流れて星になってしまったので、夫もそれはそれは喜んだ。
妊娠出産は個人差が大きい。私の妊娠中は、ホルモンの影響だと思うが、それまでの人生で経験したことのない多幸感でいっぱいだった。つわりもなく、毎日がやさしくて、うれしいたのしい大好き、だった。
 

妊娠。それは私の中で大きな変化だった。感性が変わってしまった。ちょうどスピッツの『ハヤブサ』が発売になり聴いたのだが、ダメだった、ロック色の強いものやダークなものを身体が受け付けないという感じになってしまっていた。
妊娠生活は順調そのものだった。マタニティビクスをやっていたおかげで体重もトータルで5キロしか増えず、産院で友達もできた。私は幸せだった。
 

この年だったと記憶している。
GRAPEVINEのベーシストでリーダーの西原誠がジストニアという病気のため休養、という記事を音楽雑誌で読み、ショックを受けた。
(正確な時期は違っているのかもしれないが、手元に当時の雑誌もなく、確認できない。
ウェブ上に残されている記録によれば、西原は2001年4月から休業。)
 

2001年1月24日。息子が生まれた。福島は雪の多い年だったが、息子が生まれた日だけ、なぜかよく晴れていた。GRAPEVINEの「Our Song」は1週間後の1月31日に発売になっているが、初めての出産育児という大事業に取り組んでいた私は、そのことを知らずに生きていた。もう音楽雑誌も読んでいなかった。
 

妊娠・出産・育児という自身の大きな変化の中で、感性も生活もすっかり変わってしまった。
 

GRAPEVINEは2001年にアルバム『Circulator』を出している。CDを買って聴いたが、ダークな感じのするこのアルバムは、当時の私の感性にしっくり来なかった。が、CDに封入されていたツアーのスケジュール一覧に、手書きのメモが残っていた。チケットを取ろうとした形跡があった。チケットを取ろうとしたけど手に入らなかったのか、子どもを預ける人が居なくて諦めたのか、今となっては定かでないが、私の中では、「チケットが取れなかった」ということになっている。
 

2002年発売の『another sky』は、CDショップの店頭で偶然見かけて、「ああ、バイン、新譜出したんだな。買っておこう。」という感覚で手に入れた。このアルバムも、曇り空みたいで、しっくり来なかった。
 

『イデアの水槽』の発売は、音楽雑誌ではない雑誌のレビューで知った。子育ての合間に行った美容室かどこかで読んだのだろう。気になった。買おうかどうか、迷った。けれど、購入することはなく、それから私はGRAPEVINEから離れてしまったのだった。
 

2006年、私は福島から再び東京へ戻った。しかし、GRAPEVINEに戻ってくるまでには、まだ長い年月が必要だった。
『イデアの水槽』以降のGRAPEVINEの物語を、長い間、知らずに過ごした。
それでも、毎年のように、8月の声を聞くと、GRAPEVINEを思い出した。真夏の小さなアパートの一室で聴いた「羽根」「白日」「SUN」。それは、あの日、あの時、確かに私は生きていた、という記憶でもあった。
 
 

子育てにどっぷり浸かって、音楽からもGRAPEVINEからも離れてしまっていた私に変化が訪れたのは、2016年後半のことだった。
新しい職場に、音楽好きで、自ら曲を作る男性がいたのだ。彼の影響で、私は、少しづつ、私自身を思い出していったのだろう。
しまい込んでいたGRAPEVINEのアルバムを、引っ張り出して聴き直すようになっていた。
私はGRAPEVINEを忘れ去ってはいなかったのだ。ベーシストでありリーダーである西原がジストニアを発症、脱退。という痛みを抱えたバンドであるということを忘れられなかったのも一因だと思う。
 

2017年1月のある日。私は職場の先輩である音楽好きな彼に相談をした。
「GRAPEVINEって知ってますか?」
「新しいアルバムから聴くのと、古いものから遡って聴くのと、どっちがいいと思いますか?」
彼の答えはこうだった。
「もちろん知ってますよ。〝光について〟とか。最近の作品もいいっていう文章、どこかで読みましたよ。」

『イデアの水槽』がずっと気になっていた。が、私は、当時の最新アルバムであった『BABEL, BABEL』を購入した。今のGRAPEVINEの方により興味があったのだろう。
素直によいと感じられる作品で、嬉しかった。特に「Scarlet A」が気に入って、歌詞に影響を与えたのであろうと推測される映画「俺たちに明日はない」も観たくらいだ。
こうして私は、GRAPEVINEに戻ってきたのだった。
 

すぐにライブに行きたいと思ったが、GRAPEVINEの東京公演のチケットは、ことごとく惨敗した。今も昔もチケットの取れない高嶺の花のバンドであることを思い知らされた。

ようやく12月1日の国際フォーラムのチケットが取れた。それが私にとって初めてのGRAPEVINEのライブであった。

ライブに行って思った。GRAPEVINEはライブがいいバンドだ。
細胞の隅々まで満たされる感覚があった。
何かを強制されない自由な雰囲気も心地よく、安心して演奏に聴き入った。
「CORE」では、宇宙空間に身体ごと投げ出されたような感覚に陥った。
ちなみに、もうチケットが取れなくて悲しい思いをするのはこりごりだったので、会場でファンクラブBALLGAGに入会した。
 
 

ようやくGRAPEVINEのライブに行くことができた私は、
「次は西原誠のライブに行く番だ。」
と思った。

ジストニアという病気によりベースが弾けなくなってしまった彼は、音楽生命を絶たれてしまったのだと、ずっと思っていた。だから、私が再びGRAPEVINEに戻ってきて、彼が今も音楽活動を続けていることを知り、驚き、嬉しかったのを覚えている。
 

2018年に入って、3回、西原誠が出演するライブを観に行った。4月13日JIVES、Zher the ZOO代々木。5月25日JIVES、吉祥寺Planet K。5月27日ライターイチキューゼロイー、吉祥寺WARP。
 

生まれた時から歩けるのは
この道だけだったのか
(アナザーワールド)
 

西原誠を見ていると、「そうだよ。」と思う。彼は心から音楽を愛しているのだと思う。ライブハウスにいる彼を見ていると、伝わってくるのだ。
 

西原誠。GRAPEVINEを立ち上げたのは、彼だ。1997年メジャーデビュー。愛称「リーダー」。バンドのベーシストであり、まとめ役であり、また、ムードメーカーでもあったという。
 

最近になって、やっと、ROCKIN’ON JAPAN 2002年12月25日号を手に入れた。西原誠脱退時のインタビューを読むために。

衝撃を受けた。

記事によれば、西原が万全な状態でベースを弾けていたフルアルバムは『退屈の花』だけ。「スロウ」のレコーディング後には、もうおかしくなり始めていたという。

(補足:ROCK’IN ON JAPAN 1999年3月号掲載『頼むぜ、バイン’98!』ツアーレポートのうち、12月24日(木)分に以下の記述あり。
「会場の梅田ヒートビートに入ると、まず西原とすれ違う。お、今時珍しい七分袖のシャツを着て、と思ったら、腱鞘炎にかかり腕全体に包帯をまいていたのだった。実は西原はツアー前からスランプに陥ってしまい、それを克服するためにかなり練習を続けていたらしいのだが、それが腕にダメージを与えたらしい。」
「終演後『今日は辛そうやったな』と西川に言われると、『明日から〝through time〟を外してくれへん?』と西原。ピッチの速い曲では指が上手く動かないのだという。」)

彼は、思うように動かせない手と腕で、闘いながら、ベースを弾き続けた。字もまともに書けないほどで、精神的にもボロボロになり、心療内科にも通っていたという。自律神経がボロボロになり、歩けないほどになったこともあったそうだ。そんな状態でツアーをもこなしていたのだろうか… 時系列がはっきりしない部分もあるが、壮絶だ。それでもなお「ベース弾きたかったしね。」という彼の熱量に、愛に、驚くほかない。同時に、「楽器触りたくなかったしね。弾きたいけど。怖いから、凄く。」と心の葛藤があったことも告白しており、胸が痛くなった。

(ジストニアになった原因は、不明とのこと。)

休業して治療に専念。神経内科の領域では治らず、2度にわたって脳外科で開頭手術までしたそうだ。半身不随になってしまう可能性もあったが、それを覚悟で手術に臨んだ。それほどまでに、彼はベースを弾けるようになりたいと願った。

復帰を果たすも、症状が繰り返し彼を襲った。

本人曰く、復帰後も、ベストなライブは1本もなかった。
「強いて言えば最後のライブかな。」という言葉が、せめてもの救いだ。

(休んで手術をして)ベターにはなったが、ベストな状態には戻らなかった。
焼ける神経はすべて焼いた、これ以上の治療は無理、と医師に告げられていた。
日常生活に支障ないレベルには良くなったが、それ以上のこと、ベースを弾くといった細かい作業については難しいところもある、そう言われていた。

自身のベース弾きとしての限界を感じたのと、「健康なバインを見たい」というバンド愛ゆえに、脱退を決意したのだろう。
(最後のライブとなった)アロハフェスでは、「アナザーワールド」を弾きながら涙がボロボロ出たという。

彼は、苦しみに苦しみを重ねてきた。最後まで闘い抜いた。4年間もの長きにわたる闘いだった。
GRAPEVINEをやり切った。そして、脱退。
 

『ベーシスト西原誠』の終焉。
 

道は断たれ、大きなものを失った。どんなにか辛かったことだろう。どんなに大きな悲しみだっただろう。私には、計り知れない。運命の非情さを思う。
けれど、音楽の神様に、彼は、呼ばれているのだろう。calling。楽器こそベースからギターへ持ち替えたが、音楽の道を歩き続け、バンドマンとしてステージに立ち続けている。
 

そんな西原誠は「存在がロック」、彼の生き様そのものがロックなのだと思う。
 

大物感、存在感。生のダイナミズムを感じさせる西原誠のステージは、とにかく魅せてくれる。華があるのだ。
 

ステージで、彼は、時折野生的に目を輝かせたかと思えば、しっとり聴かせる曲では目を閉じて静かにギターを弾く。そんな姿にも惹きつけられる。
 

彼の人柄も大きな魅力だ。優しくて、温かいのだ。
ARABAKI ROCK FEST.18で観たハリーや布袋寅泰らのステージから感じたように。彼らには、王者の風格があった。同時に、大きくて優しい人だと感じた。彼らと共通するものを西原誠にも感じる。

また、西原誠は、才能あふれる偉大なミュージシャンでありながら、気さくで、「軽音部の2つ上の先輩」といった雰囲気をたたえている素敵な男性でもある。
 
 

今年に入り、また私は仕事を失った。
「Our Song」とほぼ同時に生まれた息子は17歳になったが、子育ては相変わらず前途多難だ。
うまくいかないことだらけ。それでも。
 

ふれてイエーいよう!
全ては大成功!
君が笑った 明日は晴れ
エヴリデイのブルーズ
消えていかねえぞ
(ふれていたい)
 

GRAPEVINEと西原誠に再会し、ライブにも足を運べるようになった今は、幸せなのだと感じる。
土砂降りの雨にまみれていた西原誠の笑顔を見ることが、今の私の幸せだ。
 

これから私は、GRAPEVINEと西原誠から目を離さずに見続けたいと思う。特に、西原誠のライブには、欠かさず足を運びたいと思う。
 

でかい当たりを掴んでしまった
世界を変えてしまうかもしれない
(真昼の子供たち)
 

私の人生におけるでかい当たりとは、西原誠の存在ではないかと思う。

彼のおかげで、世界がどんどん広がっている感覚がある。彼がプロデュースしたライターイチキューゼロイーや、彼と親交の深い太田朝子(ex.DOG HAIR DRESSERS)がボーカルをつとめるザ・マルチーズも聴くようになった。彼が大きな影響を受けたというニール・ヤングもちゃんと聴いてみたい。GRAPEVINE好きで西原誠さん大好きと公言している高野絵舞(えまんもす)がベースボーカルをつとめるダムランドのライブにも行ってみたい。

同時に、すべてが間違いであったように思えたこともある、過去の自分を、肯定することができるようにもなった。
高校生の時、軽音部に所属して、ローリング・ストーンズのコピーバンドでベースを弾いていた。そんな過去の自分がいたからこそ、ベーシストの魂を持つ西原誠と繋がることができたのかもしれないと思う。
 

どこをどうやってきみを永遠にしよう
(SPF)
 

先日、初めて、GRAPEVINEオリジナルメンバー4人でのラストライブの映像を動画配信サイトで見た。2002年11月3日アロハフェスティバル、赤坂BLITZ。スマートフォンの小さな画面で、映像も不鮮明だったが。
泣きながら「アナザーワールド」でベースを弾く西原が痛ましかった。
同時に驚いた。2018年現在のステージ上の彼を彷彿とさせるカッコよさ、色気、存在感があることに。脱退後は楽器をベースからギターに持ち替えてはいるが、2002年の彼から、現在に繋がる彼のエッセンス、天賦の才能、天性のスター性のようなものを感じたのだ。

それからも、何度もこの時の映像を再生して見ている。
ラストライブの最後の曲は「B.D.S.」。ブレーキ・ダウン・シンドローム。
西原誠がGRAPEVINEで最後に演奏した曲。
本当に、めちゃめちゃカッコいいのだ。演奏が始まった途端、目の前が、さーっと一気にひらける。広い広い世界が広がる。4人で鳴らす音が、グルーヴが、私をそんな気持ちのいい世界に連れて行ってくれる。
西原が、身体でリズムを取りながら演奏する様を、弦を弾く指先を、食い入るように見つめる。
切ない気持ちでいっぱいになる。
リーダー、ありがとう。
演奏が終わって、彼がベースをローディーさんに渡す時、ローディーさんの腰のあたりをポンと叩く。そこに彼の温かさを見て、毎回、グッときてしまう。

ベーシスト西原誠は、永遠なのだ。

高校生の時ベースを弾いていた私にとって、西原誠は憧れのバンドマンであり、ミュージシャンであり、永遠のロックスターだ。
 
 

物語は終わりじゃないさ
全てを抱えて行く
(Arma)
 

西原誠の病気による脱退という痛みを抱えながら、GRAPEVINEというバンドの物語は続いていく。
病気により道を断たれながらも、音楽の道を歩み続ける西原誠の物語も。
 

人生はあっという間だからさ
(KOL)
 

残りの人生を、GRAPEVINEと西原誠と共に生きていきたい。心からそう思う。
「望みの彼方」を見ながら。
 

夢みたいな 夢でもない様な日を過ごしてく
(そら)
 

西原誠を見つめながら、彼の作った音楽を聴きながら、夢みたいな夢でもない様な日を過ごしていきたいと思うのだ。
 

10余年の鬱病に苦しみ、死を考えたこともあった。
今、生きていてよかったと思える。
 

めまぐるしく巡る決め事さえ
投出して君を見ていたいよ
(窓)
 

どれだけきみを見ていたって
まだ足りないのさ
(KOL)
 

GRAPEVINE。
西原誠。
音楽活動を続けていてくれて、ありがとう。
次のライブも、楽しみにしている。
 
 

ダンスを・・・・
踊り続けない?
恥ずかしげもなく
ダンスを——
いつか見るその日まで
(JIVE)
 

恥も何もかもさらしながら、
人生という名のJIVEを踊り明かそう。
 
 
 
 
 
 
 
 

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