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能動的巫女のパーフェクトポップミュージック

女王蜂「HALF」に寄せて

 久しぶりに、3分台の完璧なポップミュージックに出会った。女王蜂の「HALF」だ。

 不敵なファンファーレのようなイントロの後、「簡単な英語しかわかんない」と軽快に歌い出すこの曲を聴いて、タイトル「HALF」が表しているのは、「日本において人種・国籍等が異なる両親から生まれた人物」のことなんだろうとまず思う。その次に思い浮かべたのはセクシャルマイノリティだ。この曲は、日本においていわゆる「ハーフ」と呼ばれている人やセクシャルマイノリティである人の、悲しみや怒りや傷に寄り添い、共に立ち上がり、背中を押してくれる曲だと思う。

 『もうカッコつけてくしかないじゃん』
 『半分なんて思ったことないぜ』
 『いじわるなんかじゃ止まんない』
 『それでもいまも誰かが 撃ち放つ かなしみと怒りの H A L F』
 『損をしたり ちょっとつらい そんな日もあるけど いばらの道で花が咲くなら 絶対見逃せない』

 なんて優しくて美しくて力強い言葉たちだろう。国籍も性別も年齢も公表していない女王蜂のメンバーたちがこの曲を鳴らし歌う。それだけでもこの曲は素晴らしい曲だと思う。

 でも、この曲が表現していることは、「ハーフ」と呼ばれている人やセクシャルマイノリティである人だけの問題ではない、と私は思った。
 例えば、「異性愛者の女性」というのは現代日本においてはマジョリティであるといえるかもしれないが、それぞれ微妙に少しずつ違う立場で色々な要素を抱えて生きている。未婚か既婚か、子どもがいるかいないか、フルタイムで働いている、パートタイムで働いている、自営業である、専業主婦である、シングルマザーであるなど、他にも挙げればきりがないくらいたくさんの立場があるだろう。だけど、どの立場の人であっても「半分」だとか「半人前」だなんてことは絶対になくて、それぞれの立場でその人にしか分からない固有の悩みや葛藤を抱えて毎日がんばっている。この曲はそういう人たちの心も支えてくれるものになるだろうし、特に『もうカッコつけてくしかないじゃん』というフレーズは、自分の立場で日々精一杯生きている全ての人の背中を押してくれるキラーフレーズになり得ると思う。

 では、この曲の、全ての人の背中を押してくれそうな強いエネルギーとは一体なんなのだろう。どうしてこんなに完璧で全能感に満ちたポップミュージックが生まれたのだろう。私はこの曲の魅力と謎に取り憑かれ、何度も何度も繰り返し聴いては、毎日そんなことばかり考えていた。

 国籍も性別も年齢も超越した存在であるボーカルのアヴちゃん。アヴちゃんは、男装する時もあるし、女装する時もあるし、ハイトーンボイスで歌うこともあるし、ドスの効いた低い声で歌うこともある。「HALF」のMVでは、モデルさながらの長くて美しい脚で、ミニスカートとハイヒールで妖艶に歩いている。アヴちゃんは、時々架空の存在のようにも見える。そしてそんなアヴちゃんは、歌を歌うと、まるで巫女のようだ。音楽が神と通信したり神に触れたりしていると感じる瞬間は滅多にはないけれど確実にあって、例えばフジロックでMGMTが「Kids」の演奏を始めた瞬間に大雨が降ってきたときなどは、頭ではなく肌でその存在を感じたりした。アヴちゃんが長い手足や様々な音域の声やダンスや仕草を音楽に捧げているのを目の当たりにするときも、同じような感覚になる。そして直感する。これは神を召喚しているに違いない、と。

 女王蜂を知るまでは、「巫女」と言えば、私がまず思い浮かべるのは、相対性理論のやくしまるえつこだった。彼女はライブで、その目線を動かすだけで、曲間でペットボトルの水を飲むだけで、神と通信し、神を召喚することができた。
 彼女はいつでも巫女に徹していた。
 特に2010年前後の相対性理論においては、真部脩一が創る曲と歌詞を巫女として完璧に体現することで、彼女は神と通信することに成功していた。男性が創った世界で男性が描いた巫女像を1mmの誤差なく表現するために、やくしまるえつこはエゴを封印し、それを表に出すことは決してなかった。彼女のプロフィールは謎に包まれていて、私が行ったライブでのMCは「豆乳と豆腐、どっちが強いと思う?」だった。ライブで客席に向かって左から右へ少しずつ視線を動かしながら確実に一人一人の心を仕留めていく彼女は、バンドのボーカルやミュージシャンというよりは、もはや女優のようだった。

 では女王蜂はどうだろうか。アヴちゃんは、自分で作詞作曲して、服もメイクもアクセサリーもMVも自分で考える。自分で創った世界で、自らが巫女になって神を召喚する。それがどういうことかというと、自分が描いた世界を現実のものにして、自分が描いた自分になるということだ。こうして言葉にしてみると、まるで少年ジャンプの世界のようだ。ここまで読んで、「それがどうしたって言うんだ?」「別に自分が描いた自分になればいいんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。でも、「自分が描いた世界や自分を実現すること」すなわち「自主的であること」や「能動的であること」と、「巫女」という存在は、これまで両立させるのがとても難しいものだったのではないかと思う。私も、「巫女」というのはエゴを見せない架空の存在で、エゴを封印した方が神を召喚できるのではないかと、なんとなくずっと思っていた。「自主的」や「能動的」な思考や行動にはどうしたってエゴも付いてくるし、少年ジャンプみたいな熱さや汗臭さや泥臭さが発生する。今まで、そんな巫女を、私は見たことがなかった。
 でも、アヴちゃんはその全てを持っている。能動的なのに、神を召喚できる。そしてエゴや泥臭さや悲しみも封印しないからこそ、優しくて美しくて力強い。次第に「HALF」という言葉は、「架空の存在(巫女)」と「エゴと肉体を持つ存在(人間)」の双方を両立させる者、という意味にも見えてくる。
 私は、このあたりに、この曲に溢れる全能感の正体があるのではないかと思う。矛盾するものが綺麗に成立して、音楽の神も思わず味方した。そんなの無敵に決まっている。

 「HALF」を聴いていると、「アヴちゃんみたいになりたいな」と思う。でも、「巫女」と「能動的」を両立させることが至難の技であるのと同様に、「女性」と「能動的」を両立させることもまた、難しいことだと感じる。既に女性は社会に進出していて社会で活躍しているにも関わらず、この両立は意外と難しい。 
 例えば、女性の会社役員は、「女性ならではの経営」を求められたりする。女性社員は「女性ならではの企画」を、女性店員は「女性ならではの接客」を求められたりする。この「女性ならでは」とはどういうことだろう。これを言語化するのは非常に難しい。そこで「女性ならでは」という言葉が求めているものを想像して、もう少し具体的な表現に変換してみる。「きめ細やかな」というのはどうだろう。それとも「柔らかな」ということだろうか。はたまた「家事の経験や知識を生かした」ということだろうか。しかし、女性でも男性でも「きめ細やかな」人もいれば「おおざっぱな」人もいるし、「柔らかな」印象の人もいれば「固い」印象の人もいるし、家事をたくさんする人もいればほとんどしない人もいる。そんなことを考え始めるともうわけがわからなくなってきて、ぼんやりと求められるこの「女性ならでは」を醸し出すために、女性は「女性」を演じることになる。まるで巫女のように、「女性」を演じることで「女性ならでは」を召喚する。そして、ぼんやり求められる「女性ならでは」に正解はないから、女性たちは「女性像」をクレームが来ないように確実に演じるために、「かわいい」や「綺麗」を正義にして乗り切ってきたのではないかと、私は密かに思っている。
 このような状況下で、「女性」と「能動的」を両立させることは、しんどいし、面倒くさいし、空回ってしまいそうで、一歩踏み出すのは怖いと思ってしまう。

 だけど、アヴちゃんは「HALF」の中で、究極に自主的で能動的であることを証明するかのようにこう歌っていた。

『生まれてみたいから生まれて来ただけ』

 私たちは、本当は、生まれてくることを選べない。生まれてくる国も、生まれてくる時代も、生まれてくる性別も、生まれてくる家も、選べない。それでもアヴちゃんは『生まれてみたいから生まれて来た』と歌う。それはたぶん、私たちは、生まれてくる国も、生まれてくる時代も、生まれてくる性別も、生まれてくる家も選べないけれど、自主的に能動的に生きるということだけは自分の意志でできるはずだ、という強い決意の表れなのではないかと思った。そしてこの強い決意と、能動的に生きている姿そのものが、全ての人の背中を押すことができるエネルギーなのだと気づかされる。

 おそらく、今、日本は様々な面で過渡期にいる。「仕事」の面では、終身雇用が崩壊し、企業神話が終焉に向かい、時間や場所に拘束されない新しい働き方も登場している。「結婚」や「家族」の形や、セクシャリティの問題に関しても、多様性があってもいいと認識されるようになってきた。「HALF」で歌われているように、『あたらしい普通としあわせ』は、きっと『そんなに遠くはない』。

 だから、「かわいい」も「綺麗」も勿論正義だけど、「能動的」が正義になる日も『そんなに遠くはない』のかもしれないし、それならば女王蜂と一緒に「能動的」を正義にしていけたらいいなと思う。ほとんど何も選択できない私たちが「能動的に生きること」だけは自由に選べるのだと女王蜂が気づかせてくれた今、しんどいとか面倒くさいとか言っている場合じゃない。自分が描いた世界で自分が巫女になって、「女性ならでは」じゃなくて「自分にとっての神」を召喚する。そんなアヴちゃんみたいなことができたなら、きっと『いばらの道で花が咲く』だろう。不敵なファンファーレのようなアウトロが鳴る頃には、いつの間にか女王蜂に背中を押されて、そんな風に思っている自分がいた。一歩踏み出すのもそんなに怖くないような気がする。「HALF」という無敵で完璧なポップミュージックは、それを聴く私をも無敵な気持ちにさせてくれていた。

 こんなに完璧な曲をつくってしまった女王蜂はこれからどうなっていくのだろうか。アヴちゃんはどんな世界と自己を描くのだろうか。それは私にはまだ想像もつかないけれど、これだけは分かる。きっと女王蜂はこれからも、いくつもの矛盾を見事に成立させた世界とバンドと自己を創造して、ポップミュージックを更新していくに違いない。そしてその度に、『あたらしい普通としあわせ』を創るための、新しい価値基準や概念を正義にしていくのだろう。そんなの、絶対、見逃せない。

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