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大学の片隅でブラック・サバスを聴く

20歳の女子大生が考える音楽についての雑感

大学の図書室でブラック・サバスのファーストアルバム、『黒い安息日』を借りたら、タイトルナンバーである『Black Sabbath』のカラオケ版がついていた。全く同じ短いリフが微細な音量の変化のみで4分26秒間も繰り返されていて、聴いているうちにだんだん妙な気分になってきた。なんでこれ入れた?なんでーー?

わたしは今年で21になる女子大生で、ブラック・サバスが大好きだ。スマホの待ち受けとパソコンの壁紙はトニー・アイオミだし、目覚ましのベルには『Iron Man』を設定している。目覚めは悪いが気分はいい。

幸いにして音楽系の学校だから、レポートはサバスを熱く語ることで乗り切り、和訳のないサバスの資料を読むために英語力も少し上がった。そんなことをしていたら、お陰様で特待生に選ばれた。もう神様仏様オジー様である。ちなみにサバス語りができるレポート以外の勉強を頑張ったのは「ブライアン・メイみたいにあたまがよくなりたい!」というとても頭の悪い動機からで、サバスはあまり関係ない。
 

2018年の今になっても、1960年代から80年代の音楽を好む青少年は数多い。彼ら、というかわたしたちの耳には、祖父世代の音楽は返って斬新だ。極限とも思えるまで拡大し、拡散した音楽の中で生まれ育った私たちにとって、半世紀前のスーパースターの姿はどこか神話的、かつ絶大なのである。
そして彼らの破天荒にも程がある生き様は、抑圧された社会を生きる若者にとって、ある種の癒しにもなるのだ。憧れはしないけど。だってコウモリ食べたくないし。

しかしその現象について、「昔の音楽のほうが今の音楽より優れているから、若者はもっと昔の音楽を聴くべきなのだ」と言ったり、「歌詞の薄っぺらい今のロックはロックじゃない」と言ったりする、かつての若者たちがいる。
そしてその言動は、古い音楽を好む若者たちの間にも見られる。ちょっと待ってくれとわたしは思う。本当に古い音楽は今の音楽より優れているのだろうか。昔のロックは賢いことを歌っていたのだろうか。
 

まず、『優れた音楽』という曖昧な概念について考えよう。この『優れた音楽』としてよく名が挙がるのは、ビートルズである。サバスのファンはわたしに代表されるように謙虚だから「サバスは他のバンドより優れている」とはなかなか言わないが、特にビートルズのファンというのは、「(ビートルズは)他のバンドより優れている」という言動を取る。というかわたしの身近にそういうひとが多いだけなのだが、ここはひとまずビートルズを例にして置いてみよう。

確かに売り上げという面において、ビートルズに勝るバンドはいない。売り上げはミュージシャンの優秀さを語る上において、最も簡単かつわかりやすい指標であるから、この点においては諸手を挙げて賞賛されるべきだ。しかし、演奏能力や歌唱力でビートルズに勝るバンドはいくらでも存在する。ではそのバンドは、ビートルズより『優れている』のか。この例はビートルズに限らずとも良い。イングヴェイ・マルムスティーンの指はジミ・ヘンドリックスよりも速く動くだろう。だが、どちらが上手いかと問われると答えに困る。

また、ビートルズの活動していた時代と今とでは存在する音楽の数が違う。ヘヴィメタルとその付属ジャンル、テクノ、EDMやハードコアなどというジャンルは、ロックンロールとは別系統の影響を強く受けて発生した音楽だ。また、アイドルというのも日本で独特に発達した音楽の一形態である。
それらの音楽に深く共感し、のめり込む人間にとって、ビートルズは優れた音楽なのだろうか。たとえばAKB48とビートルズを比較して、ビートルズは何が優れているのだろうか。少なくともダンスはAKBのほうが上手い。しかしそんな比較に意味などあるのか。たとえるならば「カレーとラーメンってどっちが美味しいの?」くらい奇妙な比較だ。どっちも美味しいし、ついでに言えばカレーラーメンも美味い。
 

さて、優れた音楽とはなんだろう。そんなものは幻想だとわたしは思う。
どの音楽が優れているかなど、自分の価値観を基準にした主観でしかない。売り上げで比較しようにも、爆発的に売れるミュージシャンはミュージシャン単体の力に加え、プロデューサーやマネージャー、エンジニア、そしてメディアなどから強力なサポートを受けている場合が多く、更に時代も考慮せねば正確な比較はできない。

音楽性で比較すると余計に厄介である。『メロディ力』『総合力』や『グルーヴ感』などというどう測ればいいかわからない概念を捨て、使われているコードの凝り具合や楽典的なこと、演奏の正確性などで探ったとき、算出される『最も優れたミュージシャン』は、万人が納得する者になるのだろうか。

また、片腕のドラマーや指が欠損したギタリストなど、身体に障害を負うミュージシャンは、五体満足の者と比較すると、叩けるパターンであったり押さえられるコードであったりが少なくなる。だがこれを『劣っている』と言えるだろうか。
その他にも、その時代においては先駆者であったが、後続の者たちの活躍によって、相対的に評価が下がったミュージシャンが数多く存在している。彼らの優れたところは「先駆的であった」という点が最も強く、技巧面での評価は後年の者と比較すると下がってしまう場合が多い。
コージー・パウエルなどはまさにこの例で、彼の評価には『当時としては』という冠詞が付きまとう。その他にも時代背景や同時期の音楽業界の様子、ジャンル自体の評価など考慮すべき要素は様々にあり、こうなってくると、優れたミュージシャンを論理的に証明することは困難だ。
 

さて改めて、優れた音楽とはなんだろう。端的に言って、個々の価値観において『優れている』と判断される音楽こそが、そのひとにとっての優れた音楽だ。その個人の価値観においてビートルズが最高ならばそれで良いし、ブラック・サバスが最高ならばそれで良い。それだけなのだ。
だがそれを誰かに押し付けるとなると話は別だ。「この音楽こそ優れた音楽だ」と自らの価値観を押し付ける人間は、押し付けられた人間がその音楽と全く共感しなかった際、「わかってない」と批判的になりがちである。わかっていないのではない、合わなかったのだ。白米が嫌いな日本人も、フライドチキンが苦手なアメリカ人もいるのだから、それを批判しないでやってほしい。70億人が70億人揃って好む音楽なんて、無いに決まっているではないか。

次に、『最近のロックバンドは歌詞が薄っぺらい』という論調について。これは実に不思議な思い込みだが、現実世界においてもSNSにおいてもよく見かける。
まあ確かに、歌詞の傾向は変化した。特にラブソングの形態は変化が大きい。男性視点の、ともすれば女性蔑視的なラブソング(というかセックスソング)はヒットチャートから軒並み姿を消したと言っていいだろう。

だがこれは単に、世相の変化や人権意識の高まりが反映されているだけなのではないだろうか。たとえばローリング・ストーンズの『Brown Sugar』。曲中に登場する「ブラウン・シュガー」とは黒人女性のことだが、現在の若年層は「同人種同士でもなければ、肌の色を何かに例えたり話題に出したりすることはタブー」と教えられている者が多い。そしてそのタブーに反抗したところで、賞賛してくれる者はごく一部に限られるだろう。
レッド・ツェッペリンの名曲『胸いっぱいの愛を』にしても、現代ならば女性蔑視的であると言われかねない。これらに限らず、半世紀前後の時代が開けば、古い名曲は受け入れ難いものとなって行って仕方がないのだ。
 

また、『ロックは本来左翼的なものだから、政治を歌うべき』という主張もある。だが、ロックが史上最も政治的だったのは70年代後期のパンクブームのときで、それ以外の時期は大概、愛とセックスとドラッグ、愚痴や主張に、あとは諸々。声高に反原発や自然破壊反対、現政権への不満を歌うバンドなど、昔から極一部に過ぎないのである。

にもかかわらずこの思い込みはけっこう根強い。それは日本において『ロック』という言葉が『反抗的』であったり『反社会的』であったり『波乱万丈』という意味で用いられているからかもしれない。しかしそもそも『ロック』とは『ジャズやブルースから発展した音楽の形態』のことであり、その語源は乱痴騒ぎや性交、あるいは混ぜこぜといった意味のスラングだ。
確かにジャズやブルースは差別の苦しみから生まれた音楽だが、そこから飛び出したロックンロールは、厳しい現実を忘れて踊り騒ぐことこそが本質である。そうなると、わたしが考えるに、ロックの歌詞とはむしろ薄っぺらくあってこそ源流に近いのかもしれない。

新しい音楽を創造し、消費する層の価値観が変化すれば、音楽の内容は変化する。それは至極当たり前のことで、その変化の方向性がどう進もうが、それは需要と供給のバランスでしか無い。
現に今だって、差別的であったり過激であったりするミュージシャンは存在する。しかし彼らはメジャーになっていない。それは、多くの者はそれを望んでいないということに過ぎないのである。これは若者の価値観が幼くなったというわけではない。熱狂の陰に隠れていた少数者の不快感が無視されない社会に成長したということだ。
 

音楽の万人性というのは、予備知識なしに楽しめるところにある。ミュージシャンの名前を知らずとも、ともすれば曲名を知らなくても、音楽は楽しめる。
音楽の娯楽性は、ゲーム機を持っていなければできないテレビゲームや、ルールが全くわからない状態ではよくわからないスポーツ観戦とはわけが違うのだ。音楽は多様かつ包容的な娯楽で、誰も拒まない。音楽を聴くのには楽典の知識も和声の知識も必要ないし、音楽好きを自称する者たちに楽典の知識があるかといえば、大半の者には中途半端な知識しかないだろう。それが当然なのだ。そうあってこそ、音楽はここまでの多様な発展を遂げたのだ。

それなのにわたしたちは、やれ「○○の良さがわからないと☆☆のファンではない」だの「○○は☆☆とは言えない」だの、自分の価値観を押し付けあう。答えも正解もなく、自己の価値観でしか優劣を決められない世界でマウントを取り合うのが虚しいことだと気づけない。形態が複雑化し、排他的になった挙句にブームが去った1950年代のジャズでの失敗を忘れたのか。あのとき、『誰に対しても開かれた音楽』であったからこそ大衆へ受け入れられたロックは、今やあのときのジャズと同じ道を辿っているのではなかろうか。わたしにはそう思えてならない。

ところで先日Twitterを眺めていたら、若い女性ユーザーが「ブラック・サバスが好きって言ったら『渋いね』『かっこいい』って言われた!」と喜びの声を呟いていた。わたしがブラック・サバス好きを表明すると「うおっふ」と笑われるのとは大きな違いだ。なんだその格差。スマホのロック画面で微笑むアイオミを見せたら「狂ってんな!」とまで言われた。ちょっと傷ついた。

確かにブラック・サバス、特に初期のサバスは音楽の癖の強さがパクチー並にある。見た目だってなかなかだ。昔、ザ・フーの4人の容姿を「こんな醜い子たちが売れるわけがないと思った」と言ったひとがいたが、少なくとも彼らは綺麗な服を着ている。バーミンガム出身の金髪のヴォーカリストという点ではロバート・プラントとオジー・オズボーンは共通点があるが、実際の見てくれは方や黄金の神、方や挙動不審な前科持ちである。あとの3人は不気味なヒゲ男。これはミーハー人気が出るわけない。
クイーンの第一次黄金期にはアイオミもなぜか白いヒラヒラを着ていたが、この間サバス公式Twitterが当時の白ヒラヒラ写真をアップロードしたときは、英語圏から「誰?」とか「白いの似合わないね!」とか、終いには「ブライアンメイから借りてきたのかな?」とかいうツッコミが続出していた。アイオミがブライアンメイの衣装なんて着たらボタンが弾け飛ぶ。

それでもわたしはそんなヒゲ男たちが大好きだ。3回聴けば覚えられる曲ばかりだが、1000回聞いても1001回目を聞きたくなる。アイオミのギターの音色はおどろおどろしく凶悪だけれど、何よりも心を癒してくれる。ギーザーの奔放なベースとビルの暴走するドラムが、何よりも安心する。オジーも元気いっぱいだ。わたしの世界でいちばん輝くバンドはブラック・サバス、それは誰に何を言われようと変わらない。

そのひとが何よりも愛する音楽というのは、そのひとの欠けた何かを埋めてくれるものなのだと思う。表現者は往々にしてどこか出っ張ったものを持っていて、その出っ張りが音楽として表現され、聴衆の凹んだ部分を埋めてくれる。多くの人に愛される音楽、たとえばビートルズやクイーンなどは出っ張った部分が多くて、そのどこかが多くの誰かを埋めて満たす。そうして満たされること、それこそが音楽を好きになることだとわたしは思う。

わたしにとってはそれがブラック・サバスだった。わたしの欠けた最後のパーツを、ブラック・サバスが埋めてくれた。わたしは今でも、ブラックサバスを初めて聴いた日のことを思い出すことができる。晩秋の薄暗い図書室で、古いAV機器を使って流した音楽のことを。強烈な音色はわたしが20年間探し求めていた音楽そのもので、瞬く間に世界のすべてが変わった。あの瞬間はたまらなく幸福で、何もかもを忘れて夢中になれた。それはきっと一生忘れない体験で、歳をとってから振り返った自分の生涯の中でも、五本の指に入るほどの鮮やかな記憶になるだろう。

わたしはこの幸せを誰かにも味わってもらいたいから、ミュージックライターを志している。そのアーティストの名を知らなければ、そのアーティストと出会うことはできない。名前を知っていても、出会いが億劫なことだってある。そのアーティストと、そのアーティストを求めているはずの誰かの橋渡しをするために、はじめての出会いを助けるために仕事がしたい。新しい音楽と出会いたいけれど、星の数ほど積み重ねられた音楽の大海原を前にして足を竦ませている、誰かの導きとなれるように。

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