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2017年4月27日

CHIKAKO KANDA (44歳)

音楽が伝える言葉、思いの波紋、今世界に問題を提起する

ー「NO NUKES 2017」に参加してー

「NO NUKES 2017」脱原発のメッセージを掲げて行われている坂本龍一氏を中心に集まったアーティストたちが集い音楽と意思表明と発信を融合させたイベントである。今年は昨年に引き続き豊洲PITで3月17日(金)と18日(土)に開催された。実は私もこのイベントは出来る限り参加している。重い意味を持つメッセージ性の色が濃いイベントであるため、単に音楽を何も考えずに堪能したいという人や政治的な思想や信念などにそぐわない人たちなどは敬遠しがちかもしれないが、出来れば一度見に来てもらいたいものである。この言葉を重々しく感じられるそこに捕らわれてしまう前に、まずは単純に、ただ「知る」「見てみる」ことで今まで見えてなかったことや知らなかったことに気付くことがあると思わされるイベントだと私は思ったからだ。時に先入観や固定概念などというものは、目の前の事実を在りのままに受け止めることを阻害する。意識的であれ、無意識であれ。そのこと自体を敬遠する方もいるとは思うが、それは実に勿体ないことであると思うのだ。目の前で起きている物事を知り、向き合い、考え、そこから自身の解釈や言葉を新たに構築しそれを外へ発信することは「考える葦」である人間に許された唯一の特権であり、それに付随するひとつの重要な使命であるようにも思う。私など無駄に他人より無力さに秀でている自覚はあるけれど、それでも行ってみようと思った。人として与えられた権利と義務の行使。私が思うに、権利だけ主張するのも義務だけ要求するのも卑怯であると思うからだ。見ない、聞かない、話さないのは実に簡単だ。そして実に気が楽なことでもある。問題から逃げることが良くないとかそういうことでは無く(起きている問題によっては時には逃げることも必要だとは思う)、でも残念ながら当たり前にそこには何も生み出されない。何も生まれなければ何かを変えようも動かせようはずもない。たとえば自分が行きたい場所へ向かう道を今歩いていて、途中で行く手を塞ぐ大きな岩があり先に進むことが出来ない事態に陥る、それを動かすには何かの道具と力が必要な状況だとする。そこでただ勝手に岩が動くのを待っている人はきっといないでしょう?まずは岩をどうするか考えて行動するはずだ。そういうことだと思う。そこで別の道を模索するのもひとつの方法だけれど、その前に障害物をどかそうと考えるのではないだろうか。人は川に橋を架けたり、山にトンネルを掘ったりする生き物である。元来、道が無ければ作ろうとする生き物である。方法を考えるのは人間の最大の得意技であるはずだ。だからその思考の邪魔になる、思念にかかる特殊なフィルターがあるのなら、ひとまず一旦そっとそれを外してみて、客観的に目の前の事実のみに対峙して見て欲しい。そうすると、今まで見えていなかったことも見えてくるようになるから不思議である。そして少しでもいいから足を止めて考えてみて欲しい。きっとあなたはあなたしか考えつかないような秘密の答えを持っていると思うから。他の誰もが思いもかけない近道をあなたは知っているかもしれないのだから。前置きが長くなってしまって申し訳ない。それでは本編に入ろう。

私は平日参加が出来ないため行けるのは今回も2日目の土曜日だけだったが、トークセッションから見に行けて良かった。第一部は、後藤正文氏・本橋成一氏・舩橋淳氏・坂本龍一氏。第二部は難波章浩氏・コムアイさん・いとうせいこう氏・坂本龍一氏で、2部途中からTOSHI-LOW氏と細美武士氏が駆け付けた。原発を取り巻く現状と私たちが向き合うべき今後の様々な課題、震災被害地と被災者の方たちの現状、厳しい内容ではあるが整理されたわかりやすく聞きやすいトークであるため重苦しい感じはなく、語り手も聞き手も真摯に落ち着いた思考でそれらに向き合うことが出来たと思う。やはり来てよかった。そしてごく自然な流れでライブゾーンへ。
トップを務めたのは「いとうせいこうwithオータコージ、ZAK」言葉とリズムが生み出す宇宙空間のようなセッション。NO NUKESという言葉とリズムが連鎖して今はまだ遠い未来かもしれない先にある星にも、いつか届くであろう希望を纏う言霊の小さな海の数々がいくつも散りばめられていく空間は不思議な光景だった。
次は「水曜日のカンパネラ」キュートなコムアイさんだが歌もダンスもパフォーマンスも見事だった。大きなシャボン玉のようなビニールの球の中に入ってオーディエンスの上を転がりすべる笑顔で歌う彼女に思わず見惚れてしまった。女性は強くもあり可愛らしくもあり自分を持ち続けることが魅力的であることなのかもしれないと素直に感じた。
続いて「NAMBA69」メンバーがステージに現れると場が一気にロックフェスムードを醸してフロアーに熱気が立ち込めてきた。ライブも圧巻。自分の手で未来を掴めと背中を押すようなMCは先が見えずに途方に暮れている人に顔を上げることを思い出させてくれる言葉で非常に胸打たれた。言葉に力と熱を込められるアーティストは自然に聴く側を動かす。突き動かされたオーディエンスたちが踊る姿がそれを証明していた。
そして「the HIATUS」サウンドチェックから眩く煌く『Silver Birch』を披露してくれて会場は歓喜の渦。火のついた熱気が更に高温の熱気を纏い、まるで空気自体が太陽の灼熱を孕む。会場は嵐だ。『The Flare』も『Radio』も『Insomnia』も『紺碧の夜に』も色が違う曲なのに不思議と全部が希望を指しているような感覚に陥る。明確な根拠はない。けれど大丈夫な気がしてしまう。MCで「俺たちはいつでも数が少ない方弱い方の味方。それに大体そっちの方が正しいんだ」と言っていたのが妙に嬉しかった。本当にそうだと思うけど、それを口に出してはっきり言ってくれる人はなかなかいない。多数派に迎合するのは楽だ。でもそれがイコール「正解」ではない。少数派であることを変わり者扱いして徹底して排除しようとする気風の世の中だが、生きにくくても違うことは違うと声を上げて多数派に逆らうことを辞さない人がいる。そして客観的に見た場合、大抵はそちらの方が、明確に筋道が通っていることが多いように思うのだ。胸を打つどこまでも澄んだ歌声を聞きながら、そんなことを思った。
そして次は「BRAHMAN」ヒートアップした空気はそのままに彼らにバトンが渡る。一瞬も冷めやらず怒涛の音の波。こちらも強風を孕んだ熱波である。新曲『不倶戴天』福島の人たちが映る映像を見つめながら聴く『鼎の問』彼らのライブもいろんな感情を溢れさせる。今抱える不安、先の見えない未来。きっと彼らも少数派だろうなと不意に思って、それが嬉しかった。生きづらい人の味方であろうとする、生きづらさを理解している彼らの味方に自分自身もそうであろうと思ったりした。そんなことを考えている自分も紛うことなき少数派だ。
そしてラストは「ASIAN KUNG-FU GENERATION」不滅のナンバー『リライト』や新曲『荒野を歩け』そしてエンディングに『新世紀のラブソング』まるでどんなことがあっても信じた道を突き進めと言われているようだと思った。前を向くことを難しく思い詰めて考える必要は本当はなくて、実はとても分かりやすくそれを指し示しているのが彼らの鳴らす音楽であるように思う。先が見えなくても明るい明日を信じて踏み出すことに志を持って向き合うことを怖いと思う必要はない。そんなことを感じた。

そしてアンコールでアジカンのメンバーと、坂本龍一氏、いとうせいこう氏、TOSHI-LOW氏、難波章浩氏、細美武士氏が再度ステージに現れ、会場は大歓喜。「エセタイマーズ」のRCサクセションの『サマータイムブルース』セッションに坂本龍一氏(教授と呼ばれて)が演奏に加わり、ヘルメットを贈呈(?)されて装着しながら肩を抱き合って茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべているのが何だか可愛らしかった。心を許し合える志の同じ仲間と集う空間はこんなにも穏やかで優しい。いつかはこの「NO NUKES」というイベントをやらなくて済むように、「NO NUKES」という言葉を使わなくても良いようになるのが一番いいのだと彼らは言う。その口調は本当に穏やかで、声を荒げて恫喝し威圧するようなどこかの誰かの高台からの演説のような類のものとは全く質が異なる。彼らの言葉は決して聞く側に何かを強いようとするものでけっしてない。話の目線も対等だ。大衆を扇動するような思惑や隠した意図があるわけでもない。まっすぐでただ在りのままだ。ただ起きている物事を知って欲しい、見て欲しい、そして一緒に問題を良くしていく方法を考えてくれたら嬉しいとそう語り掛けているだけだ。だからこそ心の奥にすんなりと届く。そいて、その問いかけの答えは私たち自身の中にある。
そう感じさせてくれる「音楽」は素晴らしい。彼らは音楽には人を助ける実になるような力はないと自分たちには非常に手厳しい姿勢で語るが、私は「音楽」は単なる言葉や文字の羅列以上に饒舌に真意を伝える共通言語であると思う。いや、それ以上であると。ただ耳で感じ、脳で理解するという単純な神経伝達のプロセスではない。心に響きわたり、最奥の琴線を震わすものだからだ。それがどんなに強い力をもっていることか。彼らはもしかしたら全く自覚していないのかもしれないなと思った。心を動かす力のあるものはこんなにも尊い思いを伝える力を放つということを。文字を書くことしか出来ない自分には心底羨ましく感じられるほどに。どんなに焦がれても音楽の神に愛された才のある人の元にしか輝かない選ばれた光。それはとてもとても尊い。それに私たちが救われ、時には生きることに躓いて途方に暮れても前を向こうと立ち上がることが出来ていることを、彼らは果たして気付いているだろうか。どんなにかその触れられないのに確かに差し出されている手に助けられているかということに。息が出来ない場所で溺れてもがいている時、呼吸が出来るところまで引っ張り上げてくれる。彼らの差し出す音楽という両手は本当に温かいのだ。そんな彼らの放つ光の一つ一つは、暗闇を穿つ一条の微かな光のようで。いきなり明るい場所に出してくれるような究極魔法ではないけれど。それでも確かにそこを出れば明るい場所があるのだということを証明してくれる光。無限のような真っ暗闇に風穴を開けて「そうではない」と教えてくれる。暗闇の外に出るには自分の力で立ち上がって近付いてこいと、きっと大丈夫だからと、そう声をかけてくれる。そんなことを思った。

その上で、「NO NUKES」という言葉を使わなくても良いようになるのが一番いいのだと言う彼らの言葉を、私は本当にそうだと思う。「NO NUKES」という言葉を言うことも聞くこともない、ただ夜を安心して眠れる世界が一番良いのだと。不安に怯えることなく。私たちのいる世界は、人間が作り出しておきながら後始末の方法もわからないような、扱いを持て余すような存在の異質な不自然なモノが吐き出すものを延々と使い続けている。使えば使うほど自然に還すことも出来ずに積もり積もっていく負の遺産。積み上げた目先の利益の代償はいかばかりか。いつかその代償を誰かが必ず払うことになるのだ。払うのが自分たちでなければそれでいいのだろうか? いや、明らかにそうではないだろう。それに世界は因果応報、カルマ、黄金律で成り立っている。何かをすればその行為の結果は巡り巡って必ず自分に返ってくる。何らかの形で。「自分だけが得をする」「勝ち逃げ」はひと時の勘違いで、最終的には必ずどこかでそのたまったツケを払うことになるのだ。自分たちやもしくはその身代わりになる次世代の子供たちが、それを見過ごしてきた報いを受けることになる。無限に与え続けられるだけの永久的に安全な夢のような恩恵などない。一時の目先の欲求を満たすために繰り返した錬金術の果てに生んだ巨大な破滅の借金の相続。それがただ漠然と許されて流されたままで果たしていいのだろうか。「死に逃げ」は許されない。自分たちの世代が犯した過ちは自分たちの世代で決着をつけるべきではないだろうか? たとえ儚い寿命の限られた私たちには時間的に既に難しいことだとしても、今生きている私たちがそこから目を背けるべきではないと思う。生きている限り、問題が無くならない限り、せめて問題に向き合い、知り、考え、悩み、話し合い、改善していく方法を模索し、悪い方向にばかりに転がろうとしてしまうこの世界を、希望が待つ未来の方へ少しでも軌道修正すべく働きかけ続けていくべきではないだろうか。それが未来に対する贖罪になるとは到底思わないけれど。まだ生きている私たちに余命で出来る最低限のことであるように思う。

未来に何かを遺すのならば、破滅ではなく希望を遺したい。草も生えない渇いたひび割れた大地ではなく、美しい花が連綿と続く花畑を。毒を撒き散らすどす黒い雨と灰の降らないどこまでも澄んで広がる青空を。肺の奥まで吸い込める甘くて清廉な大気と、飲めるほどに透き通った柔らかく清らかな水を。

これから先の世界で生きていく子供たちの未来を育む土にこの破滅の種を植え続けていくことの意味を、今この世界に全霊を込めて声を上げ真摯に問いたい。

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