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季節の狭間で

フジファブリックと夏のうた

  
 

 真夏のピークが去った。
 
 

 今年は毎日が真夏のピークのようで、うだるような暑さにどっと疲れてしまう毎日であった。8月の終わりとほぼ同時にあの記録的猛暑が嘘だったかのように肌寒くなった時もあって(といってもまた暑さがぶり返してきたりしているのだけど)、半そで1枚でも汗でびっしょりになった数日前ですら懐かしく思える。19時を過ぎても明るかった夜はすっかり早くなった。
 
 

 「夏の終わり」と聞いて思い出すものといったら何だろうか。
 

 友達が大げさにモノマネしながらいつも歌っていた森山直太朗の曲だとか、いっぱいのおみやげを抱えて祖母の家から帰るときの、さみしい気持ちだとか、まったく手をつけていない宿題の山を見て呆然するだとか、お祭りの屋台で売れ残ったやきそばのにおい、もう動かなくなった蝉、転がったBB弾、線香花火みたいにぼうっと小さくはじけては落ちて消えていくような、はたまたねずみ花火のようにハイスピードで地面を駆けていくような、そういう記憶を私は思い出す。
 

 少し大人になって、背が伸びて周りの景色がよく見えるようになったのと引き換えに、過ぎゆく季節に前ほど敏感でなくなり、変わるさみしさやよろこびをあまり感じなくなってきたと思う。変わっていく自分の中で変わらないもの、もはやルーティーンと化したフジファブリックのアルバムを再生すること。体に染みついた曲の心地よさに身をゆだねている。
 

 彼らが発表してきた多くの曲のなかでも、とりわけ広く知られている曲に「若者のすべて」がある。

 2007年11月にリリースされたシングルであり、後にアルバム「TEENAGER」(2008)にも収録されるこの曲は、作者・志村正彦が2009年に逝去した後も現在まで、幅広い世代に愛されている曲だ。彼が敬愛していた奥田民生を始め、藤井フミヤ、Bank Band、槇原敬之、柴咲コウなど数多くのアーティストによるカヴァー、最近ではテレビCMに起用されたこと、現メンバー山内・金澤・加藤と関ジャニ∞のメンバー錦戸・大倉がテレビ番組内でセッションしたことも記憶に新しい。また現在でも山内がボーカルを取りこの曲は何度も演奏されている。
 

 Twitterやインスタグラムのタイムライン、特に花火大会の日には

<最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してしまうな>

といった「若者のすべて」の歌詞の引用と共に大輪の花火の写真が投稿されているのを目にすることが多い。

 イントロからはじまる鐘のような和音が、心の奥にしまっていた感情を呼び起こす風を感じて首元がくすぐったい。そこにアルバム「TEENAGER」の他収録曲とは温度の異なった、深海みたいなボーカルが乗る。「真夏のピークが去った」のは「天気予報士がテレビで言ってた」からであって、自分ではまだピークが去った気がしていない様子。

 だいたい40~50分おきのチャイムに囚われることのなくなったいまは、毎日決まった時間、夕方5時の防災無線だけが自分をリセットしてくれる。
 

<「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて>いた「僕」は

<最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してしまうな>
<ないかな ないよな きっとね いないよな/会ったら言えるかな/まぶた閉じて浮かべているよ>

 期待しつつも「いないよな」と半ば諦め状態で想像するだけでいた。
世界の約束を知って、それなりになってもなお諦めかけている。

 しかし最後にはサビに向かう扉が開けていくようなドラマチックな音階と
<ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな/話すことに迷うな>
という歌詞が、「僕」はきっと報われたのだと教えてくれる。
 

 このあとも続く歌詞について解釈することはたくさんあるけれどとりあえずはここまでにしたいが、「僕」が想像する相手、対象が明確に示されていない曲だからこそ「僕」は誰にでもなることができ、それが何通りもの共感を生んでいく。いくつもの正解がある曲だ。なんとなくこの相手は好意を寄せる相手だろうな、「言えるかな」と思っていたことは実際に目の前にすると言葉が出なくなっちゃうのだなと考えられるけれど、ひさしぶりに会うような友達だとか、もっと他の人たちにも該当するかもしれない。曲中に出てくる「花火」は志村の出身地・山梨県にある河口湖の花火のことだそうだが、その記述もなく、打上げ花火でも手持ち花火でも違和感なく当てはめられる。

 あれはとても暑い日だっただろうか。土手で線香花火を垂らしながらふと空を見上げた時の、別に星なんて全然見えないのに、曇がかっていたのにああ綺麗だな、と感じた、忘れかけてきっと思い出すこともなかっただろう記憶がよみがえる。

 こうして自身の経験を描いただろう歌詞も、曲中ではその色が濃くでることはなく、あくまで風景の一部として存在しているだけだと思う。過ごした環境が違っても万人の心に突き刺さるのが、広く支持される理由なのかもしれない。花火大会とこの曲をシェアする彼らの、いわゆる青春の真ん中に「若者のすべて」が描く夏があった。「若者のすべて」が彩りを与えた。この曲のすべてが私たちの夏そのものを表しているかのようで、自分のための曲だと思う。その夏がいつかの未来に「何年経っても思い出して”しまう”」ものになるのだろうか。そんな曲のタイトルが「若者のすべて」なのもなんだかニクイ。
 

 フジファブリックは、「若者のすべて」だけではない。
私はいつの間にかこの曲ばかりが評価されて独り歩きしている気がしていた。実際は気づいていないだけで、そうじゃなかったのかもしれないけれど、テレビで流れるたび、カヴァーされるたび、話題になるたびにそう思った。長い時間をかけて成長してきた評価されるべき名曲なのは確かだし、私自身本当に大好きな曲であることは頭ではわかっていても、なぜだか距離を感じていた。そしてついにはこの曲のことをうまく愛せなくなった。
 

 連日続いた地域のお祭りも終わりかけた頃、「真夏のピークが去った」と天気予報士が言えば「若者のすべて」の一節だと話題になる。この前そのことを書いたツイートを何万人もの人がリツイートしたり、「いいね」したりしていて、全員ライブに来たらいいのに、とすこし拗ねる。

 フェスで「若者のすべて」が演奏されるとイントロから大きな歓声が湧き、会場いっぱいに手拍子が響き渡る。中には演者に合わせ一緒に歌う人もいる。この曲が出た当時はライブに行けなかったので状況は分からないが、最近のワンマンではじっと見守るように、祈るように耳を傾ける人が多い印象を持っていて、フェスの時のようなものはなかなか見られない光景なのでいつもふしぎな気持ちになる。

 あの曲の演奏後には、周りからため息が漏れる。そのため息は悪いものではなくて、言葉が出ないときの感情があふれ出しているような。私もそうだ。あの曲を聞くといつも無意識のうちに「はーー」と声を漏らしてしまう。
そして花火大会の日のように「若者のすべて、いい歌だな」「懐かしい」「エモかった」「やっぱ若者のすべてだよ」など数々の感想がタイムラインを占めていく。
自分の中にある違和感はまだあっても、大好きなバンドが周りからいい評価を得ていると自分のことのようにうれしい。そうやって文字で目にすることで、すばらしい曲なのだなと改めて実感する。
 

 しかし時折見かける「志村じゃないと」「志村がいい」という声にもやもやする。
今こうして目の前で歌っていたのになんでそういうことが言えるのだろう。
確かに、現在その曲を歌っているのは曲を作った本人ではない。
このバンドのことをずっと追いかけているからそう思うのかもしれない。
何もわかっていないのかもしれない。彼らのことをわかったつもりでいるわけでもないけれど。ただ、今も続けて音楽を届けてくれる人に対して向ける言葉ではないだろうと感じた。
 

 あるフェスでは「亡くなった人がいるバンドでも、再生ボタンで蘇る」と「若者のすべて」がかかったことがあった。先ほども述べた通りフジファブリックはまだその歩みを止めることなく未来へ進んでいる。再生ボタンを押さなくても、いま、目の前で演奏していたのに。また悔しい気持ちでいっぱいになった。
 

 現Vo.山内は以前「もし誰かに『志村くんの歌を聴きたい』って言われても『俺も志村くんの歌を聴きたいよ、でもこの身ひとつしかないし』って思う」と発言していた。
私も未だに声が聞きたくてたまらなくなる日がある。どうしようもないことだ。
 

「それでも聴いてくださってるんやなって。それだけでうれしいんですよね」

 忘れていいわけじゃない。今までも、これからもずっとメンバーの一人としてステージに立っている。でも、いなくなってしまった人に代わって、相当な覚悟を持ってステージで歌っていることを否定してほしくない。身勝手な考えだけれど、今の形も受け容れてほしいと思う。
 

 現在進行形でたくさんの曲を発表しているバンドが、ある枠を超えた向こう側では「若者のすべて」で止まってしまっているような気がしていたのだろうか。

 私にだって「懐かしい」と思う曲はたくさんある。具体例は示さないが、なかには現在も活躍しているアーティストも多い。その曲たちはいつでも「あのころ」に呼び戻してくれるタイムマシンのようだ。フジファブリックも、「若者のすべて」もきっと、だれかのタイムマシンになっている。

 結局「若者のすべて」を愛せなかった理由ははっきりとしなくて、一種のやきもちのようなものなのかとか、考えれば考えるほど、言葉にすればするほど分からなくなってくるのだけど、今もフジファブリックは時々躓きながらもその度に起き上がって前へ進んでいるということを知ってもらえたらうれしい。
 

 さて、フジファブリックと「夏」の描写の話になるが大好きなフジファブリックの歌う「夏」は「若者のすべて」だけではない。叙情性、普遍性、変態性が見事に組み合わさった曲といわれた志村の曲だが、ことばにするには難しい心情を見事に綴る魅力は十分に引き継がれている(というか作曲や演奏表現においては元々持ち合わせていたと思う)し、「夏」と一言でいっても新緑のころや照り付ける日差しがまぶしくなるころ、太陽がだんだんと落ち着いてきて日も短くなった秋の入り口…など多くの時期に分類することが出来る。
 

 桜が散って葉が青々としてくる初夏には「LIFE」がさわやかな風を吹かせる。夕立のあと、どんよりした空と言語化できない心情を絶妙なバランスで表現した「ブルー」、太陽がどんどん照り付けて汗で背中と服がへばりついてしまうような日には「君は炎天下」を流しながら汗を拭う。<うだるような季節の夏は/サンダルで駆け巡る/駄菓子屋で買った りんご飴/大きくて食べきれない>「MUSIC」もいい。「Surfer King」のへんてこなサビに夏のちょっと浮かれた気持ちを重ねる。「陽炎」の焦燥感が胸を締め付ける。突然の雷雨にうたれる日は<真夏の午後になって うたれた通り雨/どうでもよくなって>「星降る夜になったら」のキラキラした音がすべてを洗い流してくれる。冒頭で述べたような夏の終わりは<短い夏が終わったのに/今 子供の頃のさびしさが無い>「茜色の夕日」を聞きながら感傷的な気持ちになる。街を包む空気が軽くなっていく今くらいの時期は「フラッシュダンス」「Light Flight」が夏の終わりを切なくさせる。

 他にもたくさんあるけれど、見過ごしてしまうようなわずかな夏の瞬間をフジファブリックはこれまで描いてきた。

 きっと誰かの「夏」をぴったり表す曲がこのなかにもあるのかもしれない。 ぜひ、あなたの「夏」の代名詞となるような曲を見つけてほしい。そしていつか、その曲とともに生きた夏のことを思い出してほしい。

 もちろん夏だけでなく、春夏秋冬それぞれの季節でおなじように細分化された風景をうたっている。 また、夏らしくありつつも歌詞のその表現がない曲は聞く人によって感じる季節が変わるのもおもしろい。
 

 現在もなお歩み続けるバンド、フジファブリックは来年デビュー15周年を迎える。
「若者のすべて」ももちろん、他のさまざまな曲を引き連れてここまで続いてきたバンドは、節目に大阪城ホールという新たな舞台を目指す。
 

<きらめく夏の空に君を探しては/ただ話したいことが溢れ出て来ます>
 今年の6月、大阪城ホールの発表と同時に披露された楽曲「手紙」でも曲中に夏の描写がある。Vo.山内のふるさとや家族、友人へ手紙を綴るように歌った曲だ。もちろん上京してから出会ったバンドメンバーをはじめとする人たちへも向けられている。
 この曲も「若者のすべて」のように「変わらない街」「何もかもがある街」など固有の場所表現はなく、制作経緯からは推測できるものの(ティーザームービーでは山内によって撮影された地元・茨木の景色を映した映像が使用されている)誰にでもその街を当てはめることができる。この曲に語るにはひとことじゃ言い表せないが、きっとこれまでの曲と同じく時間をかけて大きな成長を遂げていくのだろうと想像している。
 
 

 真夏のピークは去った。
 

 そういえば蝉の声も聞こえなくなった夏の終わり、というよりも、もう秋のにおいを感じる今、そんなことを思いながらふたたび彼らの音楽のなかに体を預ける。

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