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ダイヤモンドを一粒リュックに詰め込んで。

BUMP OF CHICKEN の音楽が長い時を越えても輝く理由

BUMP OF CHICKENの歌は全力で目の前にやってくる。
むしろ、心の奥に飛び込んできて胸の中で輝きを放つほど強い存在になる。

2017-2018年ツアーPATHFINDERの時のMCで、藤原基央が
「音楽はいとも簡単にたやすく、距離なんか飛び越えて君たちの所に届くから。
お別れしても曲はまた君たちの所に遊びに行くと思うから。
そしたらその音楽を抱きしめてやってください。」
と言っていたが、その通りだった。
音楽は時間も距離も飛び越えて、いつでもどこでも──たとえ音楽プレーヤーやスマートフォンがなくても、頭の中で鳴り響いて心の奥に飛び込んでくる。
藤原基央の書く言葉は、上からでも下からでもなく同じ目線から私たちに語りかけ、分かち合いたいと手を伸ばしてくれるからに他ならないだろう、と思う。
そんな事をぼんやりと感じたのは、なんとなく「ダイヤモンド」を聴いた時だった。

この曲のリリースは今から18年前だ。
そんな前の曲なのに今でもまったく色褪せずに胸に届く。
まだ二十歳そこそこの藤原基央が書いた歌詞は、なんの遜色もなくまっすぐ胸に響くのだ。
なんで彼の曲は長い時間経ってもこんなに真っ直ぐに胸の奥に飛び込んでくるんだろう。

2018年9月20日、ダイヤモンドリリースから丁度18年後の冷たい秋雨の降る日にそんなことを考えていた。
 
 
 
 

「何回転んだっていいさ」
(ダイヤモンド)
ギターと唄声だけから始まる一番最初のフレーズから、いきなり心の最短距離に飛び込んでくる。
軽い弾き語り調の歌い方とフレンドリーなメロディーは、転びっぱなしの人生だ、君もそうだろう?と最初から見抜かれていて、こっちを見ている気がする。

そして人生で躓いた時にできた心の傷や、いつまでたっても抜けない棘を生きている証である
「真紅の血」
(ダイヤモンド)
に擬えてくれているのだ。

転んだら皮膚が擦りむかれて傷ができ血が出ることが当たり前なように、生きてる中で躓いたら心に傷ができることも当たり前だと教えてくれているかのようだ。
傷ついた事実すら認めたくなくて、強がりの仮面を被ってしまうタイプの人間には、冒頭のフレーズは強く胸に響く。

傷ついた証である真紅の血は
「固いアスファルトの上に雫になって落ちて 今までどこをどうやって歩いてきたのかを 教えてる」
(ダイヤモンド)
という掛け替えのない道標のような存在なのだ。
何回も転んだこと、擦りむいたキズは自分が歩いてきた軌跡であり、自分というものを作っている重要な存在なのだ。
だから何回転んでもいいし、何回迷ってもいい。イマの自分を作る大事な要素になるのだと教えてくれているのだ。
傷ついた事実は消えない。
むしろその傷をちゃんと見てあげよう、受け入れてあげよう、という包容力が痛いほどに伝わる。

さらに
「目標なんか無くていいさ 気付けば後から付いてくる」
(ダイヤモンド)
と具体的な目標のない人に対しても届くように歌ってくれている。
そういえば恥ずかしながら私も人生の具体的な、ハッキリとした『コレが目標です!』なんて言えるものはない。
それどころか小さい目標を見つけるのすら苦手だ。
目の前のことでいっぱいいっぱいで、目標を作るよりも先にまずやらなきゃいけないことがある、とあくせくする毎日だ。
そんなどうしようもない自分にも届くように歌ってくれている。

そして気付けば後からついてくると、まるで目標はわざわざ作らなくてもいずれ自然と出来ると言って背中を押してくれるのだ。
まるで体験談であるかのように、説得力を含んで。
冒頭で書いた通り、私たちと同じ目線から語ってくれるから、こんなにも響く。

道に迷うことですら、
「可能性という名の道が 幾つも伸びてるせいで 散々迷いながら どこへでも行けるんだ」
(ダイヤモンド)
と迷うことは悪いことじゃない、むしろ一本の道を選んでいないからどんな自分にもなれると教えてくれているのだ。
 

そして
「「君は生きてる」という言葉だけは」
(ダイヤモンド)
それだけは抱えて離すなと、全身全霊で叫ぶかのように歌ってくれるのだ。

そういえば、最新曲の『望遠のマーチ』では
「死んだような今日だって 死ねないで叫んでいる」
(望遠のマーチ)
と歌っている。
死んだように過ごす日こそ心は活発に生きて叫んでいるということ。
キミが生きていること、それが何よりも大事だということを藤原基央は一貫してずっと歌い続けている。
このブレなさが普遍的で、18年前も今も共通しているから曲が古くなったりしないのだろうなぁと思う。

そして『辞めたい、投げ出したい、逃げたい』といった考えが許されないと感じている人に向けて
「道を引き返すのは間違いじゃない」
(ダイヤモンド)
と投げかけてくれる。
“逃げてもいいんだよ”って、ずっと誰かに言って欲しかった人にとっては稲妻が走るような衝撃だったのではないだろうか。
ようやくこの歌で許されたんじゃないか、とさえ思う。

Cメロ、曲中の中でも重要なポジションを担う部分では
「やっと会えた 君は誰だい? あぁ そういえば 君は僕だ」
「大嫌いな弱い僕を ずっと前にここで置きざりにしたんだ」
(ダイヤモンド)
と歌中の僕が『許されなかった僕』を見つける展開になる。
その姿は、歌の向こう側にいる君も君自身を許していいんだよと教えてくれているようで。
歌の中の「僕」と対面することにより、ああ、そうか、私も置き去りにした自分を迎えにいかなきゃいけないと気付かせてくれる。

そして、終わりが近づくにつれ、核心に触れていく。
「弱い部分 強い部分 その実 両方がかけがえのない自分
誰よりも 何よりも それをまず ギュッと強く抱きしめてくれ」
(ダイヤモンド)
と、投げかける。
弱い自分を許せなくて受け入れられない人たちに向けて、全力で生きているから傷ついた自分自身をどうか抱きしめてやれ、教えてくれているのだ。

最後は
「上手に唄えなくていいさ
いつか旅に出るその時は
迷わずこの唄をリュックに詰めて行ってくれ」
(ダイヤモンド)
という言葉で締めくくられている。

掌に収まるサイズだけれど、小さくても強烈な輝きを放つダイヤモンドをひとつ、カバンの中にしまっておいてくれと。
そして必要ならば取り出してくれ、と。

そうだ。
この歌は、藤原基央が優しく、強く、若さの混じった少しハスキーな声で、一生懸命に、文字通り命がけで磨いて私たちに届けたかのような一粒のダイヤモンドそのものなのだ。

冒頭で触れた、
── なんで彼の曲は長い時間経ってもこんなに真っ直ぐに胸の奥に飛び込んでくるのか──
という疑問の答えは、つまりはダイヤモンドだからだ。
いつ聴いてもダイヤモンドのように普遍的に、ずっと輝きを放ってくれるからだ。

そして、初めてこの曲を聴いた日から今まで私は私のリュックの中にこの歌を詰め込んだからだ。
 

どんなに時間が経ったとしても、いつまでもキラキラときらめいてくれる、そんな心強いダイヤモンド。
きっとずっと、大事に抱え続けて生きていく。

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