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自分ではない人がいる世界

BUMP OF CHICKENのラブソングから考える私たちの恋愛

BUMP OF CHICKENのラブソングと聴いて、何が浮かぶだろう。

代表格「リリィ」や「とっておきの唄」、物語になっている「Ever lasting lie」、賛否両論あるが「スノースマイル」も私はそう思うし「車輪の唄」もそうだろう。「天体観測」は本人が否定しているから違う。忘れちゃいけない「embrace」とか、「アルエ」もたぶんそうだ。こうやって挙げてみても本当に少ないし、これは絶対にラブソング!と言い切れるものはもっと少ない。
それでも確かに存在感を放つ彼らのラブソングが、「たぶん」とか「賛否両論」とかいまいちはっきりしないのは、恋愛のことや好きな相手のことだけが語られているわけではないからだと思う。

例えば「車輪の唄」は、自転車の後ろに君を乗せて二人で駅へ向かい、旅立つ君を見送ったあと自転車に乗って一人で帰る、別れの曲。
相手のことが好きだという直接的な表現も、そう解釈できるような比喩表現も出てこない。それでもきっと、大半の人が「若い男女が朝焼けの坂道で二人乗りをしている光景」を思い浮かべると思う。

「ペダルを漕ぐ僕の背中 寄りかかる君から伝わるもの 確かな温もり」(車輪の唄)

このフレーズは確信犯だ。嫌でも男と女を想像してしまう。
それでもこれが「絶対にラブソングだ」という終着点に行き着かないのは、核心的なフレーズがないことや、心情描写が極端に少ないこと、そして、あくまでも「別れの曲」であることが原因だ。

「錆び付いた車輪 悲鳴を上げ 僕等の体を運んでいく 明け方の駅へと」
「町はとても静か過ぎて 「世界中に二人だけみたいだね」と小さくこぼした」
「響くベルが最後を告げる 君だけのドアが開く 何万歩より距離のある一歩 踏み出して君は言う」
「町は賑わいだしたけれど 世界中に一人だけみたいだなぁ と小さくこぼした」(車輪の唄)

何万歩より距離のある一歩を踏み出す時でさえ、大切な人との別れの瞬間でさえ、当たり前だけど時間は止まらない。
早朝の静かな町で君を駅まで送っていき、少し賑わいだした町を一人で帰る。主人公、もしくは二人にとって一世一代の別れも、その短い小一時間でのやりとりだ。君を乗せる電車は難なく走っていくけど、僕が乗る自転車は錆び付いている。離れた二人を、それぞれを運ぶ車輪が対比していて、そう考えるとラブソングとひと括りにしていいのかわからなくなる。確かに男女の話ではあるけど、”恋愛”というよりは”別れたこと”、それに伴う”僕の心境”が、この曲のメインなのではないだろうか。
 

そしてもうひとつ。バンプのラブソングにはいつもエゴが付き纏う。惚れた腫れたと言っても相手が第一になるわけではなく、必ず自分の世界の中心には自分がいる。

「リリィ」がその類いだ。必死に見栄を張って、他人も自分もみんな騙して僕はステージで歌う。そして抱えきれなくなった大量の不安や弱音を君にぶちまける。勝手に自分で溜め込んで、処理できなくなった気持ちを彼女にぶつけてしまうのだ。

「それでも君は笑った 「かわいいヒトね」と言った 叫んでも 唄っても その一言には 勝てる気がしない」
「最後に振り返ろう 確かめたいことがあるんだ」
「やっぱり君は笑った 別れの傍で笑った つられて僕も笑った 「また会えるから」って確かめるように」(リリィ)

ところが、僕がどれだけ愚痴を吐いても弱音を言っても、彼女は「かわいいヒトね」と笑いかける。それは別れの間際になっても同じで、彼女はやっぱりちゃんと笑う。僕はそれを知っていて、それを確かめたいがために彼女を振り返る。
最初から最後まで、彼女の気持ちはまるで無視だ。「どうして君は笑うのかな」とか、「愚痴ばっかり言って申し訳ない」なんて気持ちは一切出てこない。むしろこれ見よがしに自分の弱音を彼女にぶつける。

それでも曲を通して、僕にひとつの変化があった。

「スポットライトの下 自分を叫び唄った」
「やっぱり僕は唄うよ もう一度叫び唄うよ」
「スポットライトの下 低いステージの上」
「こう呼ばせてくれないか 「最初で最後の恋人」」(リリィ)

「自分」を叫び唄うことしか出来なかった僕が、「自分じゃない人」のことを唄っている。内側で肥大した自分を唄い外に吐き出すように、彼女の存在も自分の中で知らず知らずのうちに大きくなって、唄にしたくなったのだ。僕のエゴをまるごと受け止めて、いつでも笑いかける彼女が僕にくれたものだ。
 

バンプのラブソングを語るうえで、「embrace」は絶対に外せない。リリィで言うなら彼女側、受け止める側の曲。

「腕の中へおいで 抱えた孤独の その輪郭を 撫でてやるよ」
「腕の中へおいで 隠した痛みの その傷口に 触れてみるよ」(embrace)

一番、二番、それぞれのサビの始まりはこうだ。リリィの時には、彼女は僕思いで優しい人のように思えていたけど、いざ彼女側に立ってみるとこれこそ究極のエゴイズムだと思う。わざわざ隠している傷口にまで触れている。ゆっくりとした曲調の中でエレキギターの音が目立って、どこか攻撃的に感じる。

でもきっと、そこまでしないと他人とは繋がれない。
「メーデー」でも、「傷付ける代わりに 同じだけ傷付こう/分かち合えるもんじゃないのなら/二倍あればいい」(メーデー)と歌われている。
結局、孤独も痛みも分かち合うことはできないし、二人いても半分にはならないし、二人が一つになることもない。相手と繋がりたいなら、相手の傷付いた心にまで踏み込まないといけない。その人を大切にしたいという気持ちを無理矢理押し付ける勇気がないと、繋がれないのだ。そうやって繋がっていく中で、「相手」が大事なのか「相手が大事な自分」が大事なのかわからなくなってしまう。そして残るのは、そこまでして繋がりたかったという事実だけだ。

「腕の中へおいで 醜い本音を 紡いだ場所に キスをするよ」(embrace)

ラストのサビでは相手の中に入り込むことなく、醜い本音を紡いだ場所、つまり口にただキスをする。自分よがりで相手の傷に触れたあと、ただ探していたものにたどり着けた無垢な喜びを感じる。何度聴いても震えるほど綺麗だ。これほど生の恋愛を歌う曲を私はまだ知らない。
 

そう、バンプのラブソングは生きているのだ。
車輪の唄のようなほんの一瞬の別れも、リリィのように吐き出せない弱音を溜め込むことも、embraceのように大切な人にただキスをすることも、私たちはどこかできっと経験している。その曲の中で起こる変化も時の流れもすべて、私たちは知っている。
「こんなにこんなに君が好きなんだ」というラブソングも良いけど、決してそれだけでは生きていけない。恋をするには忙しすぎるし、愛を伝えるにはエゴが必要だ。
好きだから付き合ってほしい。
仕事で疲れたから癒してほしい。
不満が溜まったから愚痴を聞いてほしい。
知りたいから教えてほしい。
そんな「自分」がいて初めて成り立つ、「相手=自分ではないもの」という概念から離れられないバンプのラブソングが、生きている私たちに心地良くフィットする。どれだけ相手を思っても自分は自分でしかないくせに、結局誰かを必要としてしまう私たちに、情けないくらい突き刺さる。
 

彼らの曲を、「これは絶対にラブソングだ」と分類することは難しい。
生活の中で恋愛だけにスポットを当てづらいように、自分のことばかり考えるエゴイストな誰かように、そうやって他人と繋がっている私たちのように、バンプのラブソングが生きている証拠だ。

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