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話がしたいよ、を紐解く

BUMP OF CHICKEN が描くひとつの物語

そこにあるのは圧倒的な孤独感と、ひとりぼっちで抱える愛だった。
 

BUMP OF CHICKENの「話がしたいよ」の話だ。
 

私がこの曲に出会ったのは、(正確に言えばフル尺に出会ったのは)映画「億男」の完成披露試写会だった。
大雨の九月半ばのことだった。

会場入りすると、開演前から既に「話がしたいよ」が流れていた。
ああ、藤くんの声だ。
毎日毎日飽きることなく聴き続けている声を聴くと、ひとり見知らぬ会場にいるのに、その場が一瞬で懐かしい空間になる。
人熱で騒つく会場の中では、歌詞はほぼ聞き取ることができなかったが、だだっ広い会場の天から降り注ぐその音楽を一心に浴びようと耳を澄ませていた私は、映画視聴前なのに涙で目が潤んでしまった。
「ララララーララ、ララー」
ああ三人が、ヒロ、チャマ、ヒデちゃんがコーラスしている、そう気付いたからだ。

幼馴染四人であるBUMP OF CHICKEN が全員で歌っているというのは、それまでの共に歩んで来た人生とか、絆とか、相思相愛さとかを否応なしに感じてしまうので、心が昂ぶってグッと泣けてしまうのだ。

開演するまでの30分以上、生まれたての新曲「話がしたいよ」を、懸命に拾った。
そして、試写会終了後には映画の余韻と共に、断片的に拾えた歌詞や耳触りの良いメロディのいくつかを覚えて、何度も反芻できるように紙にメモして、連れて帰った。

そんな体験をしてからおよそ1ヶ月後、待ちに待った「話がしたいよ」のリリースが突如発表された。
完成披露試写会で聴いて以来ずっと待ち望んでいた。
おかえりなさい、また会えたね。
そんな気持ちだった。
今度は歌詞もちゃんと噛み締めることができる。
即ダウンロードしずっと聴き続けているのだが、あの時の感動が再び、というよりは聴けば聴くほどより新たな感動が生まれこの曲が愛しいという気持ちが深まる一方だった。
 

この曲を聴くと、ひとりぼっちで街に佇む「僕」の横顔や横断歩道やバス停や、宇宙にまで届きそうな水色と白の間の色の空の情景が目に浮かぶ。
そんな世界の中で、孤独を抱えている「僕」がどんな想いでそこにいるのか、紐解いてみたくこの文章を書いている。
 
 
 
 

『街が立てる生活の音に 一人にされた
 ガムと二人になろう 君の苦手だった味』

大勢の中で感じる孤独、というのは往々にしてある話だが「僕」はガムと二人でいることを選んだ。
君がこの味のガムは嫌いだということを「僕」は覚えている。
即ち、このガムは君との記憶を思い出させるツールであり、そのガムと二人ぼっちになることを望んでいたのではないかと思う。
 

『この瞬間にどんな顔をしていただろう
一体どんな言葉をいくつ見つけただろう
ああ 君がここにいたら 君がここにいたら
話がしたいよ』

まるでガムを噛んで味わうように君との記憶を噛みしめていくように、ゆっくりと君への想いを馳せる僕。
ただ、そこに希望とか幸福感とかはなく、君ともう話ができないことや君の表情を見られないことへの寂しさと憂慮と、そこまで君を想う愛しさばかりが募っている。

もう会えない人を想うのはせつなくて苦しくて心も痛む作業だが、「僕」は敢えてバスを待つ時間にその気持ちを味わうことを望んでいるように思える。
 

だから、

『体と心のどっちに ここまで連れて来られたんだろう
 どっちもくたびれているけど
 平気さ お薬貰ったし
 飲まないし』

という歌詞の、戯れのように書かれた

『飲まないし』

という言葉も深い意味があるように感じる。
 

体と心がくたびれた時に貰うお薬ってなんだろう。
お薬が比喩表現でないと仮定して本当に薬のことだったら、メンタルの薬である気がする。
それが何であるにせよ、これがあれば平気さ、と言えるものを持っているにも関わらず飲まないのである。
 

だって

『どうやったって戻れないのは一緒』

なのだから。
体と心を回復させたとしても、君とは話ができない。
むしろ体と心を回復させたのならば

『こういう事を思っているのも一緒がいい』

ことすら叶わなくなる。
君も僕を想っていてくれないだろうか、そういう一縷の望みすら自ら絶つことになる。
君と記憶の中で繋がっていたいから、どんなに痛くても苦しくても君を想っていたいから、夏の終わりの手前の底の抜けた空を見て君を想い、君に想われていないだろうかと思いたいから、お薬を飲まないのである、と思う。
お薬よりは君との記憶を思い出させるツールであるガムを口に含んでいたいのだと思う。

そういう君への想いの強さを感じた後に、
前述した「ラララ」のコーラスが流れる。
もし「僕」にもこのラララが聴こえていたとしたならば、ひとの声、ぬくもり、一緒にいた時間。君といた時間。
そういうものを回想しているのではないだろうか。
せつなげに響くギターも僕の気持ちを代弁しているかのようだ。
 
 

そして

『今までのなんだかんだとか これからがどうとか
心からどうでもいいんだ そんなことは
いや どうでもってそりゃ言い過ぎかも
いや 言い過ぎだけど
そう言ってやりたいんだ 大丈夫 分かっている』

という、頭の中のひとりごとそのまんまのような歌詞へと繋がる。

君と紡いだ今までの色々も、これからの君と合わない時間も、そんなものはどうでもいい。
そう言ってやりたい。
そう言ってやりたい(だけど言えない)、という空白の行間を感じる。
どうでもいいなんて言えない、今までの色々もこれからも。

結局君への想いを抱えこんだまま、
でも「そう言ってやりたい」という気持ちだけは体現するように君との記憶を想起させる「君の嫌いな味のガム」を紙にぺっと吐き捨てる。
そうして、君との記憶になんとか区切りをつけてバスに乗り僕は「これから」へと向かう。

「僕」が向かったこれから先の未来に君はいるのだろうか。
君を再び想いながら生きるのだろうか。
それとも永久に現れないのだろうか。
聴き手に想像の余地を残しながら、僕はまた一人に戻っていく。
 

私としては、きっと一人に戻って頑張って忘れようとしたって
『話がしたいよ』
という心からの叫びは、バスを待つようなふとした瞬間に甦るんじゃないかな。
こんなに純粋で深い愛を抱えていたなら、きっと生涯忘れないんじゃないかな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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