1521 件掲載中 月間賞発表 毎月10日
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

「私」の拡がりと深みに出会う

ゲスの極み乙女。ツアー「ゲスなのか、タコなのか」ファイナル公演に寄せて

「ゲスなのか、タコなのか」。ゲスの極み乙女。がこの秋に行ったツアーのタイトルだ。なんともふざけている。新しくTACO RECORDSというレーベルを立ち上げ,そのモチーフがタコなので,所以は理解できるものの,きっとノリで付けたに違いないと思ってしまう。でも改めて思うと,「ゲス」も「タコ」もはっきり言ってろくでもない。ろくでもない人間が,それでも生きていく。その生を歌うのがゲスの極み乙女。なのだと思う。ツアーファイナルを迎えた今,その幅は相当に拡張し,また深い含みを増した気がする。そしてライブの場にいる私も,いろんな「私」に出会い,自身の拡がりと深みを経験する感覚を味わった。

 2018年10月26日,長い入場列の先に行きついた満席の東京国際フォーラム・ホールAは圧巻だ。よくこれだけの人が集まったなぁと感慨深くさえある。ツアーの起点となったアルバム「好きなら問わない」のジャケット写真をイメージしたようなステージ。ファイナルだし,ホールだし,何か特別な演出がありそうでわくわくした。

 会場が暗くなり,「戦ってしまうよ」「颯爽と走るトネガワ君」「ぶらっくパレード」と,息つく間もなく,駆け抜けるように始まった。音楽に身を任せながら,私の日常もまた駆け巡る。まず浮かぶのは,戦いの中を走る私だ。
 職場でさまざまに立ち上がるプロジェクトは一種のゲームみたいなものだ。<「撃て、このゲームが終わらないように」>(「戦ってしまうよ」)と歌われるように,つい抵抗勢力の仮想敵を描いて,戦うみたいに挑んでしまう。それで勝った・負けたと無駄に心を動かす。別にわざわざ「戦う」ことなんてないのに,無為に戦ってしまうのだ。
 <颯爽と走るトネガワ君 今を生きてるだけ>(「颯爽と走るトネガワ君」)なんていうように,颯爽とは走れていない気がするけど,文字通り今を生きる日々だ。
 時には,うんざりするような思いをして<本当なら「あんたら最悪ですね」と目と目で言い合いたい>(「ぶらっくパレード」)と心でつぶやきながら,MVみたいに心の中で機関銃を乱射しちゃうことだってある。
 ステージで指を銃の形にして,バーンと客席を打ち抜く絵音さんに心撃ち抜かれながら,そんな日常もまた音楽を前にするとどうでもよくなって,散っていく。

 一転,高音の裏声が美しい響きで始まる「はしゃぎすぎた街の中で僕は一人遠回りした」。照明も,ネオンのようにキラキラとして,夜の町を歩いているような気分になる。絵音さんに煽られて,会場みんなでゆらゆらと手をふる。はしゃぎすぎた街に手を振って,置いて行かれたように胸が締め付けられる。
 続く「猟奇的なキスを私にして」はMVのイメージもあって,そのまま夜の町を歩いていくようなイメージを抱く。究極的に独りと感じることがあっても,<「それやっぱ僕のもの」 「それやっぱ私のもの」><それを分け合って/誰と向き合うの?>と,いつも誰かと何かを分け合って生きていく私に気付く。

 とはいえ他者と共に生きていくのは面倒も多い。その中で私はどうあるべきなのだろう。生き方を問いながら,そこでの苦しさややりきれなさを改めて感じさせられる曲が続く。
 「イメージセンリャク」は,このツアーで聴いて印象が変わった。MVの印象が強く,<大事なのは本当の自分じゃない/本当に大事なのはイメージ><嫌だな>という歌詞から,他者に付与されたイメージに苦しみ拒絶しながら乗り越えていこうとする歌かと思っていた。
<あの蒼いふりした綺麗事で/誰かいなくなって/世は蒼くなったつもりになっていく/さよならと言えなかった/幸せには出来なかった/後悔はまたイメージになって/裏返る今日も>
このサビが蒼い美しい照明の中で演奏されるのを観ながら,実は,イメージは他者に付与されるだけでなく,自分で自分に付与して囚われていることもあるかもしれない,なんて思うようになった。綺麗事で流してしまうこと。うまくいかなかったこと。そういういろんな後悔が自分の中にもある。私は自分にどんな呪いをかけているのだろうか,と思い巡らしながら,<でも嫌だな>と繰り返される歌に合わせて首を振った。
 <やりきれない やりきれない>と繰り返される「sad but sweet」が思いを加速させる。ダンサーが悶えるように踊ると,絵音さんも踊り出す。「踊っちゃうんだ!」と少しだけ驚いた。イメージなんて関係なく,なんでもやってみればいいのよねとも思い,ひっそりと絵音さんの挑戦を称えた。
 続く「サイデンティティ」も自分らしさを問う歌だ。「アイデンティティ」に対して「サイデンティティ」という造語を提示して,<ああ、どうなんだ? 僕はどうなんだ?>と,わからないけど確かにそこにあるはずの自分らしさについて歌われる。
 「私以外私じゃないの」もそうだけれど,昔も今も,「私とは何者か」というテーマはゲスの極み乙女。にたびたび登場するテーマで,真骨頂でもあると改めて思う。このテーマに向き合ってきたからこそ,深みを増してきたのだとも思う。

 「ゲスの極み乙女。にとって大事な歌を」と前置きをして奏でられた「もう切ないとは言わせない」。何度聴いても,イントロのギターの美しすぎるアルペジオに鳥肌が立ち,胸をぎゅっと掴まれる。「大事な歌」というのは,絵音さん自身の経験が生々しく表現された曲に比して,より美しさを求めて作られた曲であり,またネガティブな曲を作ったら現実もその通りになるという事象に対して,前向きな未来に向かう曲を作ってみた転換となった曲であるということかなと,これまでのインタビューやツアーでのMCから想像した。<もっとあとちょっと/君を好きになったら>と「仮定」で,<そのうち一緒になろうよ>とあくまでも「そのうち」で,曲調も切なく,底抜けな明るさは決して歌われない。でも,だからこそ現実的だ。いつも幸せや喜びと苦しみや悲しみは表裏一体なもの。曲を聴きながら,私自身も,不確定ながら良い未来に向かって疾走していくような感覚を覚えた。
 そうはいいながらも,いつもアンビバレントに振り戻されるのがゲスの極み乙女。でもある。続く「ゲンゲ」「招かれないからよ」は,私にとっては暗く落ちていくようなイメージ。<戻らないことの美しさを/誰よりも否定して欲しい><余すことなく好きって言って/例えば私に/幸せが痛む前にハート/掴んで引き抜いてよ>(「ゲンゲ」)と,歌い上げられるサビで苦しくなる。一回きりの人生は決して戻ることができないし,そこに留まり続けることもできない。未来に向かっていこうとしながらも,そこにはいつも「今」との葛藤がある。そして「招かれないからよ」で歪んだギターをかき鳴らす絵音さんに目を奪われながら,重低音に身体を揺らす。<招かれないから残念だけど終わってもらうことにしたの>(「招かれないからよ」)と,合わせることを強要される世界に対して,ステップを踏んでラララと歌いながら,断絶し己の道を歩いていく決意にも似た感情を覚えた。

 そんな重たさを振り払うかのような「僕は芸能人じゃない」。曲中,<僕は芸能人じゃない>と4回叫ぶように歌われるところが大好きだ。この大きなホールであんなふうに叫んじゃって,どんなに気持ちいいだろうと思う。他人のことで「ワーキャー」と騒いでマウントとって生きる人たちを一掃しちゃうことに小気味よさを感じながら,自分も気が付いたらそっちの側になっちゃったりするのよね,と振り返るのだった。
 ここまで,ゲスの極み乙女。にしては珍しくMCらしいMCがなく,かつての武道館公演のように本編は演奏のみなのか?とさえ思っていた。それがここにきて,メンバー同士で「いやいや芸能人じゃん」「いやいや芸能人じゃないよ」とコントまじりのMCが始まった。ぐだぐだと続くかと思いきや,「さらば青春の光」が登場し,本場のコント披露。心から笑った。
 コント後のやり取りにも出てきた話だが,数年前のイナズマロックフェスでのこと。イナズマロックフェスでは,バンドの演奏の間にお笑い芸人の方がコントや漫才をするのだが,ゲスの極み乙女。が出演した際,その直後が「さらば青春の光」の出番だった。そのとき,騒動をネタに,冷やかすように喋って登場したのが,そこに居合わせた数少ないゲスの極み乙女。ファンの私からすると,相当に心象悪く,しかもお笑いのネタも面白いとは言えなかったので,実のところ悪いイメージしか持っていなかった。それが,今では絵音さんと私的にも親しくなり,ノーギャラでこんなふうにライブに出てきて,面白いネタを披露している。率直にすごいなぁと思った。いろいろなことがあったけれど,こうやって関係性を広げ,面白いことをいっぱい見つけて,ファンと共有してくれることで,私自身の見方も変わってしまった。

 いつまでも話が途切れないMCをなんとか断ち切って,ライブに戻る。間に「オンナは変わる」をはさみながら,「私以外私じゃないの」「ロマンスがありあまる」「ホワイトワルツ」のリミックス・シリーズが続く。原曲も大好きだけれど,リミックスも違う味わいがあって,曲の美しさもメンバーそれぞれの魅力も引き立てていると思う。MTVアンプラグドで演奏したことも大きなきっかけだったのだろう。さまざまな経験を全部バンドの進化に変えていく姿に目を見張る思いがした。
 終盤に向かって,「パラレルスペック」「餅ガール」と原点に戻るようにまた一気に盛り上がる。会場がみんな一体になって,音楽で遊ぶような演奏に,手を掲げ身体を揺らし掛け合いに乗る。何もかもどうでもよくなってしまうくらい,踊り狂ううちに楽しくて楽しくて,思わず笑顔になる。

 いよいよ本編最後。絵音さんは,このツアーでどこに行ってもアルバムを聴いて来てくれている感触があったこと,初めて来てくれるお客さんも結構いたこと,こうしてファイナルをこのホールで迎えられたこと,音楽に没頭して失ったものもあるけれどこうしてここに立てる今があることを語って,感謝を口にした。
 最後は「アオミ」。悲しい歌だけれど本当に美しい曲だと思う。絵音さんは「悲しいときは明るい曲より暗い曲聴くことが多い」と言う。無理に明るくなろうとするより,ちゃんと哀しみや苦しみに向き合ったほうが,きちんと立ち直れるのだと思う。歌い終えると,演奏がまだ続いている中,ステージから絵音さんが去っていく。続いて,メンバーが順番に楽器を置いて去っていく。残ったちゃんMARIが,ショパンの別れの曲をモチーフにしたような音楽を独奏する。繊細なタッチで情感たっぷりに,美しいピアノの音色が響く。別れに区切りを付けるように力強いタッチで演奏を終えて,鳴りやまない拍手の中,丁寧に礼をして去っていった。演奏は胸にずんと響いて,哀しみに浸るような感覚が残る。

 そんな余韻冷めやらぬうちに,アンコールの手拍子の鳴る中,メンバーが再登場。「さらば青春の光」やその他の芸人さんたちとの交流の話が笑いを交えて続き,仕切り直して,新曲「ドグマン」の披露。ドラマ「ブラックスキャンダル」の中で,いつもドラマの終盤に背景で一部分だけが流れていて,きちんと聴くのはみんな初めてだ。相変わらずキャッチーで美しいサビのメロディが頭から離れない。ゲスの極み乙女。の良さが存分に発揮されながら,絵音さんの声がいっそう引き立つような気がした。
 最後は,「星降る夜に花束を」「キラーボール」。いずれも盛り上がらないことがない定番曲。「キラーボール」では,赤色のキラキラしたテープが舞い,それを手にして掛け合いに乗り,手を掲げた。会場全体がミラーボールみたいになって,思い思いに踊りながら,ずっと続いてほしいとさえ思った。

 どこの会場でだったか,絵音さんが,「自分の経験をもとに作った曲が,自身の経験を越えていろいろな受けとられ方をしている。つらいことがあったときにも音楽があることで救いになっているのなら嬉しい」というようなことを語るのを聴いた。このファイナル公演でも「音楽に助けられるのは『逃げ』ではない」というようなことが語られた。このライブで改めて感じたことだが,ゲスの極み乙女。の音楽は,「救い」に留まらない。いつも「私」に迫ってくる。拡がりと深みを増すサウンドと歌詞に身を任せる中で,時に日々の感情を昇華しあるいは受け流してきた感情を自覚し,時に自分のありようを問い,時に今と未来の間で葛藤し,時に全部忘れて踊り狂う。そんな音楽だからこそ,どうしたって離れがたい。好きでい続けてしまう。
 次はどんなふうに私に迫ってくるのだろうか。余韻に浸りながら,心から楽しみにしている。

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい