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あいみょんは「いつまでも」たりうるのだろうか?

2018年のあいみょんブレイクに、あまのじゃく男子が思うこと

 12月が始まった。師走は忙しいというが、人生の夏休みを絶賛謳歌中の僕にとっては、普段と変わらない生活があるだけだ。一方で師へのリスペクトに欠ける僕は、少しずつ今年の振り返り、総括を始めかけている。今年も色々な場所へ行ったし、新しい小説、映画、そしてもちろん音楽と出会った。 
 今年の邦楽シーンを振り返るとして、あいみょんの名前を挙げないわけにはいかない。女性シンガーソングライターというカテゴリで、最も躍進した歌手ではないだろうか。期待を裏切らず、年末の紅白歌合戦の初出場が決定。先ごろ株式会社AMFが発表した「JC・JK流行語大賞 2018」では、俳優の中村倫也(2位)、アーティストでは昨年から勢いが止まらないMrs. GREEN APPLE(4位)らを抑え、堂々のヒト部門・第1位に輝いた。つまり、日本の女子中高生に今年最も影響を与えた人物だったというわけだ。女子中高生に限った話ではない。僕の陰キャ系仲間内でも確実に支持を集めているし、LINEでBGMに設定している友達も目立つ。
 僕自身は、熱心なあいみょんのファンというわけではない。だからなのか、いつのまにこんなにブレイクしたのか!?というぐらい、突如として人口に膾炙するようになった印象を受ける。あのあいみょんが若者のカリスマ的存在になろうとしているなど、信じられるはずがなかった。決して「万人受けするような」歌手ではないという認識だったし、それが僕にとっては都合がよかったからだ。
 
 もっとも、僕のあいみょんとの出会いは鮮烈だった。昨年、季節が冬から春へ明確に変わったと思える、世界が暖かさを取り戻した時期、『生きていたんだよな』に衝撃を受けた。うららかな気分を根底から破壊され、直ちに心地よい感傷へと変化した。《二日前このへんで 飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた》というセンショーナルもセンショーナルな歌い出し、否、語り出しから幕を開けるこの曲は、僕の心のある部分をもこじ開けた。溜め込んできた疑問、違和感、鬱屈した感情。それらがひとたび、解放されたのだった。
 あいみょんは曲を聴くたびにつかみどころがなくなる。もちろん悪い意味ではない。初めのうちはやはり「メンヘラ」という印象が強かったが、続く2つのシングル曲では違う魅力を感じさせた。
 『愛を伝えたいだとか』ではどこか間の抜けた電子音を響かせながら、そのどうしようもなさが愛おしい男の子の心理を、親し気な口調でしどけなく(まさにこんな男の子であるかのように!)歌い上げた。《汚れてるシャツに履き慣れたジーパンで》は象徴的なフレーズだと思う。
 『君はロックを聴かない』も男の子目線の曲だ。強い意思と哀愁を漂わせる印象的なギターサウンドから始まり、『愛を伝えたいだとか』とは対照的に「たぜ」「かい?」「だい?」という語尾を用いて君に語りかけようとする。しかしながら、まさにどうしようもなく情けない僕が感じ入ってしまうことから、詞に投影された人物像の芯は共通していると感じる(年齢は違うのかもしれない)。その歌い分けの技量は見事だと思うし、何より《君はロックなんか聴かない》というフレーズが反則的すぎる。そう、ロックなんかね。思わず過去の記憶と重ね合わせてしまうのは、自分だけではないだろう。

 ここまでは2017年の話だ。実を言うと、それ以降にリリースされたあいみょんの曲を、僕はまだ聴いていない。心をガッシリ掴まれたはずの僕が、なぜ新しい曲を聴かないのか。「売れる」ことに必然的に伴う二つの理由からではないかと、自分なりに分析している。
 静かにブレイクの気配を感じ取っていた僕は、あまのじゃくな性格から遠ざけてしまっていた、と一つには考えられる。耳が早いわけでもなんでもないのにだ。(実際、昨年の時点で『青春のエキサイトメント』はアップルミュージックで1位に輝いていた。)
 恋愛や生活において、いちいちくよくよしてしまう僕のような人間は、決してマジョリティではないと思っていた(いや、思いたがっていただけかもしれない)。それを歌ってくれる歌手がヒットするとなれば、僕の「少数派であるという点だけにおいて、少数派の自分を肯定できる」というアイデンティティが揺らぎかねない。そんな厄介な論理で、僕はあいみょんにブレイクしてほしくない、と思っていたのではないか。だから今年の躍進に、驚き、これじゃない感、ともすれば嫌悪感を覚えてしまったのではないか。
 時代は変わっているのかもしれない。自分が主流になれるならまさに歓迎すべきことではないのか、とも思うが、拗らせた自意識はそんなに単純ではない。現に、あいみょんの新曲をいつまでも聴くことができないでいる。

 以上が売れることに伴う僕個人側の事情だとすれば、もう一つは当事者であるあいみょん側の事情から説明できる。
 よく指摘されることだが、アーティストは売れることで丸くなってしまう傾向が、あることにはある。何も歌手に限った話ではなく、自己表現する者の宿命だろう。もちろん売れることとは独立して、アーティスト自身も年をとり価値観などは変わっていくのであって、音楽や歌詞のスタイルが変化していくのは自然なことだ。スタイルを変化させながらも、昔からの支持者を離さずいられるアーティストもたくさんいる。しかし、初期の尖った感じが失われてしまったなどの理由で、離れていくファンがいるのも確かだ。瞬間最大風速だけで終わってしまう歌手もいる。
 一度売れてしまうと、売れ続けなければいけない。これまでは自分が信じるものを素直に送り出していたのが、途端に受け手を意識してしまうようになる。どうすれば多くの人に刺さるのか、自分がいいと思ったもので本当にいいのか。そんなことを悩み、プレッシャーを感じながら色が失われていく、という流れは容易に想像がつく。
 だから、僕は「恐れ」を抱いてしまっているのだと思う。僕の好きなあいみょんの「成分」が、失われていやしないか。これはまぎれもなく僕のエゴの塊だ。聴いてみないとわからないものを。僕のために歌っているのでもないあいみょんの歌を。

 僕が特に好きなあいみょんの曲に『いつまでも』がある。いつまでも《燃えていたい》と歌うこの曲において、《死んだ後に天才だったなんて 死んでも言われたくないもんな》からは鋭い眼光が立ち現れるようだし、《結局この世の表現ってのは 同情だけで成り立ってんのかなあ》からは悩み、苦しむ様子が感じ取れる。同時に、陳腐な表現が持て囃される世の中への疑問を呈してもいる。
 これだけではない。『ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌』では、過去の流行語(死語)を巧みに操った言葉遊びでおちゃらけながらも、タイトルは昨今の音楽シーンへの痛快な皮肉になっている。当たり前の、誰でも発せるような薄っぺらい言葉を並べただけの歌詞、音楽に対してだ。そんな彼女は、今やナウなヤングにバカウケしている。
 果たして彼女は、この頃の怨念ともつかぬ、燃えたぎる魂を今でも抱いているか? 「いつからか」忘れてしまうことはないだろうか? 僕は知ることを恐れているのである。拗れた愛の裏返しだ。

 最後に『今日の芸術』から彼女自身の言葉を借りよう。

 《見たもの全てに頷いて 見たもの全てを批判せよ》

 これが彼女のスタンスなのだろう。彼女が、あいみょんが「いつまでも」たりうるかは、僕のこの耳で確かめなければならない。

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