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「Lemon」と祖父

米津玄師の紡ぐ言葉に救われて

3月下旬、私は、大好きだった祖父を亡くした。

膵臓がんだった。最期は緩和ケア病棟で過ごすと決めた祖父の決意を、誰も変えることはできなくて。

正直、叶うならば、治すための治療を続けてほしかった。
けれど、元々病気を患っていて、透析患者である祖母の負担を少しでも減らしたいのだと、その決断を下した祖父に、私の本音を口にすることはできなかった。

酒癖が悪く、金遣いも荒く、さらには女癖まで悪い父の代わりを務めてくれた祖父は、私にとって、父よりも大切な存在だった。

だからこそ、祖父の余命を宣告されたとき、すぐに仕事を休んで、祖父に付き添うことを決めたのだ。

最期の5日間、私は母と共に祖父にずっと付き添っていた。
すでに、食事も難しく、トイレも自分では困難な状態で、1日のほとんどを眠って過ごすようになった祖父を見て、情けなくも手が震えてしまったこともあった。

息を引き取る前日、病室に、家族全員が集まった。あんなに嫌いだった父も、祖父の姿に息をつまらせていて、少しだけ意外だった。

いつもなら、痛みを訴えた後は、強い鎮痛剤を打つため、意識が混濁して、すぐに眠ってしまうのだが、その日は、祖父が頑なに鎮痛剤を拒否していたのが、強く印象に残っている。

父を呼び、叔父を呼び、そして、祖母を呼んで、ずっと手を握りながら、何かを訴えていた。嫁である母と、孫の私は、それを見守ることしかできなかったのが、切なくもあり、寂しくもあった。

いつもより長く、痛みに耐えながら、魂で会話をした祖父は、鎮痛剤を打たれたあと、眠った。
呼吸が前日より荒くなっていて心配だったが、どうすることもできず、もどかしかった。

翌朝、叔父と入れ替わりで、着替えのために一旦帰宅した。その直後、叔父から電話があり、祖父が危篤とのことだった。
間に合うように祈りながら、車に乗り込んだが、私たちがたどり着く前に、祖父は叔父に手を握られながら、静かに逝ってしまった。

最期の瞬間に立ち会えなかったことが哀しくて。
でも、祖父が一人でなくてよかったとも思った。叔父が側にいてくれて、本当によかったと思った。

もしかすると、祖母に悲しい顔をさせないために、透析に行っている間に逝ってしまったんじゃないだろうか、なんてことを考えたりもした。

祖父は、前の晩の苦しそうな表情から一転して、ひどく穏やかな顔をしていた。
それに安心したが、私は祖父の死という事実を受け入れられず、祖父に触れることができないでいた。

父と叔父が病室を出て、母と祖父と私だけになった病室で、私は初めて祖父の身体に触れた。
まだ、温かった。
涙が止まらなくて、祖父の頬に触れた手を離すことができなかった。

様々な手続きに追われて、悲しみを実感する間もなく、葬儀の日を迎えた。
入院生活中も、祖父を叱咤激励し続け、決して弱音を吐くことも、泣くこともしなかった祖母が、葬儀で、初めて涙を流していた。
それを見た私も涙が止まらなかった。
 

悲しいかな、どれだけ辛くても、日常は待ってくれない。強制的に現実に引き戻された私は、一度祖母の家を出て、自分と母が暮らすアパートに戻った。

何事もなかったかのように過ぎ去る日常。
何か大切なものが欠けたまま、呆然と日々を過ごしていた私は、テレビから流れる、米津玄師の「Lemon」に感情を引っ張りだされた。

ドラマを見て楽曲を知り、好きな曲だと思っていたし、良い曲だとも思っていた。
ドラマの登場人物の心情に歌詞を重ねて、胸に迫るものがある曲だなとも感じていた。

それでも、祖父を亡くしてから初めて聴いた「Lemon」は、全く別のものに聴こえた。
穏やかなようでいて、激しく、優しいようでいて、鋭く。楽曲の歌詞が、私の心にすとんと落ちてきた。

それは、まさしく、祖父への鎮魂歌だった。

亡くなった者への例えようのない悲しみ、淋しさ、苦しみが、自分の感情とリンクし、歌詞が今までの比でないほどに心を揺さぶった。

“夢ならばどれほどよかったでしょう”
“未だにあなたのことを夢にみる”

祖父の死は夢ではないだろうか、また戻ってくるのではないだろうか、いつもみたいに変なかけ声で帰ってくるかもしれない、何度そう思い、願ったことだろう。

実際に、今でも、元気だった頃の祖父の夢を見ることも多い。その度に、戻らない幸せに切なくなるのだ。

“戻らない幸せがあることを 最後にあなたが教えてくれた”

祖父母と共に行った旅行がどれだけ幸せだったのか、ただ祖父と他愛のない話をして、共に食べたオムレツがどれだけ幸せだったのか、それを祖父との別れで再度感じた。

今でも、思い出して悲しくなるけれど、それでも、私にはその幸せな記憶があるのだ、という事実が、悲しみを少し和らげてくれた。

“あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ そのすべてを愛してた あなたとともに”

祖父と過ごした子ども時代の記憶が、良いことも悪いこともすべて、鮮明に脳裏によぎり、胸が詰まった。

祖父と過ごしたすべてが、なくしたくない、なくせない大切な記憶なのだと思うと、喧嘩をしたことも、叱られたことすらも愛おしくて。
でも、それがもう二度とできないのだと思う度に苦しくて、感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った。
 

そして、2番の歌詞を聴いた私は、祖父と祖母の関係性を表しているようだと勝手に感じた。

“どこかであなたが今 わたしと同じ様な 涙にくれ 淋しさの中にいるなら”
“わたしのことなどどうか 忘れてください”

この部分は、祖父から祖母へのメッセージのようで、また、祖母から祖父へのメッセージであるようにも思えて、切なかった。

祖父と祖母は、本当に仲が良かった。
祖母の透析の影響で、お泊まり旅行には行けなかったけれど、よく二人で日帰り旅行に出かけたり、映画を観に行ったり、と幸せそうだった。

でも、二人の関係性は、夫婦というよりは同士、そして、手を取り合ってきた一番の戦友のようでもあった。
仲がいい分、喧嘩も多かったし、何より勝ち気な性格の祖母に、祖父はいつも叱咤されていたように思う。

そんな二人の関係性は、孫の私から見て、とても素敵で、温かなものだった。

“自分が思うより 恋をしていたあなたに”
“あれから思うように 息ができない”
“あんなに側にいたのに まるで嘘みたい”
“とても忘れられない それだけが確か”

ここの部分もそのまま、遺された祖母の様子とリンクした。いつも気丈で勝ち気な祖母は、帰宅すると祖父の祭壇に元気に声をかける。

「ただいま!今日も帰ってきたよー!」

寝るときには「おやすみ」、起きたときには「おはよう」、出かけるときには「行ってきます」、帰ってきたときには「ただいま」。

そんな風に、落ち込んだ様子を見せずに、明るく過ごしていた祖母が、ある日、ぽつりと溢したのだ。

「何回文句を言っても、笑ってるだけでね。もう何も言い返してくれないの。」

遺影を眺めながら、淋しそうにそう言った祖母の横顔を見て、祖母は、祖父にちゃんと“恋”をしていたんだなと感じて、切なくなった。

その時の祖母の横顔が、今も忘れられない。
本当に、祖父と祖母はひとつの果実だったのではないかと感じた。
半身を切り分けられてしまったように、とても淋しそうな表情だった。

“切り分けた果実の片方の様に”
“今でもあなたはわたしの光”
(米津玄師「Lemon」より抜粋)

最も心に残っているのは、最後のフレーズだ。
“今でもあなたはわたしの光”というこの言葉に、すべてが詰まっている気がした。

祖父は、祖母にとっても、私にとっても、今でもずっと光なのだ。だから、淋しさの中にいても、どれだけ悲しくても、私たちは生きられるのだと、しっくりきた。

歌詞はもちろん、美しく流れるメロディーも心に深く浸透してくる。
細かな音が少しずつ変わっていくのが、耳に心地よくて、涙が流れた。

祖父の葬儀以来、涙を封印して過ごしてきた私が、再び泣けたのは、「Lemon」があったからだ。

涙を流したあと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
祖父を思って、淋しくなることもあるけれど、この曲が、一緒に祖父を弔ってくれているのだと思えた。
そして、また光が見えた気がした。

もうすぐ、祖父の四十九日だ。きっとそこでは、家族みんなで、たくさん笑って、祖父の思い出話ができるだろう。
今でも私たち家族の光でいてくれる祖父を、少しでも安心させられたらいいなと思う。
 

米津玄師自身も、この楽曲を制作している途中で、祖父を亡くしていると知った。勝手ではあるが、それを知ってからは、より一層、「Lemon」は、私の中では祖父の歌になった。

最初は、聴くたびに涙が溢れていたけれど、何度も聴くうちに、心が救われていることに気がついた。
この曲のおかげで、祖父を思い出して、笑えるようになった。

私を救ってくれて、想いを言葉にしてくれて、笑うことを思い出させてくれて、本当に感謝している。

これからも、私は、祖父との思い出をたどる度に、この曲を思い出すだろう。
たくさんの悲しみの中に見出した光を追って、私は生きたい。
 

“今でもあなたはわたしの光”
 

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