2250 件掲載中 月間賞発表 毎月10日
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

嫌われ者の微笑み

Kurt Cobainと私

先月4月5日、伝説のロックバンド、ニルヴァーナのKurt Cobain(カート・コベイン)の自殺から25年が過ぎた。1991年、ニルヴァーナはアルバム『ネヴァーマインド』をリリースし、それまでアメリカの音楽シーンの主流であったヘヴィーメタルをその王座から引きずり下ろし、「グランジ」と後に命名されるジャンルを膾炙させたロック界の革命家的存在である。同アルバムは現時点で総売上数3000万枚超を記録するモンスターアルバムで、ウィーザーやフォール・アウト・ボーイ、HYDEやワンオクなど、今日に活躍する多くのアーティストたちにインスピレーションを与え続けている。

彼の死からちょうど25年目のその日、海外メディアは大々的にKurtを取り沙汰した(その音楽性もさながら、生涯を通してマジョリティーに加担することを嫌い、マイノリティーとしての自我を貫いた彼の生き様を鑑みて、この日本語の文章群には馴染まぬ英語表記で“Kurt”とさせていただくことをお許しいただきたい)。
そうしてファンである私は、Kurtにもう一度思いを巡らせた——彼の音楽、彼の残した言葉、彼の人間性、彼の人生。そして、——彼とは切って考えることのできない、私の陰鬱な高校時代。

高校一年生の秋まで、私の人生は水泳一色だった。父親に勧められ物心がつく前からスイミングスクールに通い、小学校二年生になる頃には「選手育成コース」に昇級し、水泳を単なる習い事としてではなく競技としてやり始めた。

中学では部活動には属さず、スイミングスクールに通い続けた。私の中学にはプールがあるくせに、水泳部がなかったのだ。私は俗に言う「帰宅部」だった。一般的に中学でポピュラーになる男子は運動部と相場が決まっていて、帰宅部はその対極に位置するものだが、私は例外だった。私の中学の運動部はどれもぱっとしなかったうえに、際立った個人もいなかったのだ。一方私は、諸々の競泳大会で好成績を残し、それを全校生徒集会で表彰されていたのだ。

渦巻くような拍手喝采と賞賛の歓声が私に集中した。誰しもが私と親しくしたがり、敬われ、もてはやされ、そのうえ女の子にもモテた。水泳の記録も順調に伸び続け、文句のつけどころのない中学生活が続いた。
私は、幸福だった。

幸福に慣れてしまった私はいつしか、人生とは「そういうものだ」という尊大な先入観を持つようになった。そしてそれが知らぬ間に、「そうでなければならない」という屈強な固執に変化していた。

そして中学三年生の時、不安が芽生えた。

私から「水泳」がなくなれば、「私」はいったいどうなってしまうのだろうか……?
自信をもって毎日教室に足を運べる「私」、多くの友達に囲まれる「私」——そんな「私」があるのは、すべて「水泳」のおかげではないか。

そもそも、充実と賞賛に溢れた日々には似合わぬ「不安」などという気持ちをどうして抱くようになったかと言えば、私は、私の水泳に対する情熱が冷めてきていることに薄々気づきだしていたからだった。とくにこれと言った原因があったわけではなかった。ただ、以前のように「もっと速くなってやるぞ」という情熱の迸りが消えていたのだ……

やがて、高校が決まった。S高校にスポーツ推薦で合格したのだ。S高校は、京都では名の知れた水泳の名門校で、インターハイや国体などの、出場するだけで一生の自慢になるハイレベルな大会に毎年あたりまえのように出場する強豪チームだった。私に近しいすべての人々が私を盛大に祝い、私が水泳選手として活躍し充実した高校生活を過ごすものと信じて疑わなかった。

しかし、S高校に入学し、部員たちとプールサイドで初めて顔を合わせたその日から、私はうしろめたさを感じずにはいられなかった。彼らの熱気、彼らの情熱、彼らの野心——「もっと速くなってやるぞ」とかつては私の胸に宿っていたあの暑苦しくも誠実な声が、彼らの胸の奥から聞こえてきたのだ。

それでも私は、退部する決心がつかずにいた。もうすこし続けてみればあの時の情熱が舞い戻ってくるかもしれないという淡い期待もあったが、それよりも、友達や部員に「アイツは部活を中途退部した負け犬だ」と後ろ指を指されることが耐えられなかったのだ。どういうわけか高校の部活動(とくに運動部)には、「やり通さなければいけない」という圧力が働いていて、「やめる」という行為は「選択」ではなく「脱落」を意味する。

しかし、長くは続かなかった。

私は、許せなかったのだ。
練習の時刻が迫るごとに憂鬱になっていく自分を。泳ぐことが苦痛にしか思えない自分を。練習が早く終わることを切実に願う消極的な自分を。ベストタイムが出ても無感動な自分を。そして何よりも、もう水泳への情熱が枯れてしまったとわかっているくせに、義務感に追われるままに毎日プールに足を運ぶ、そんな惰性の日々を許している自分が。

そして一年生の秋、私は退部した。それは私と水泳との離別であると同時に、過去の「私」の喪失であった。突然、私の前に「人生」という名の巨大な空白が広がった。水泳をしていた頃の私には……いや、水泳に情熱があった頃の私には、生きることに確たる目的があり、私の行為・選択のひとつひとつにはその目的へと収束すべき理路整然とした理由があった——朝起きるのは水泳の練習があるから、食を摂るのは水泳に必要なエネルギーのため、休日は次の日の練習に備えるための休養——そんなふうに、「水泳」を基軸に生きていたからこそ、私の「人生」は正常に機能し、意味を見出すことができた。それが忽然と消えてしまった今、私は蛻の殻も同然だった。学校へ行く時も、授業中も、家へ帰っても、友達と過ごす時も、「僕はいったい、何をしているんだろう?」という疑問が私を執拗に離さず、私が人生に見つけるのは空虚だけだった。

そんな矢先、私はクラスでいじめられるようになった。私のクラスはスポーツ科であり、運動部に所属していることがそのクラスの一員である条件だった。「クラス」と呼ばれる小社会には、暗黙裡に階級制が適応されているもので、その中の誰かがヒエラルキーの上層に立ち、誰かが下層に位置する。普段から上下関係の慣習に染まった運動部ばかりで構成された私のクラスにおいては、とくにその傾向が強く顕れた。つまり、私のクラスでは、部活動における実績が高ければエラく、低ければバカにされた。さらに、各運動部は己がじしプライドを持っており、やれ野球部は甲子園に出た、やれ陸上部はインターハイに出た、と日頃から自らの偉大さを証明せんと丁々発止の意地の張り合いに暇がなかった。そんな情況下、水泳部を退部し実績を無効化された私はクラスの「最下層」にあたることは当然、もはや運動部でない私は、クラスの一員である最低条件をすら満たさない「部外者」でもあったのだ。彼らにしてみれば、私はいじめる格好の餌食だったのだ。

彼らは私を、運動部でもないのにスポーツ科に在籍していることを揶揄って「裏口(入学)」とか「負け犬」と蔑称した。毎朝教室に入るたびに、「アレッ?転校生ですか?ここは運動部オンリーですけど?」と私を嘲笑った。休み時間になると、飽きもせずプロレスの技をかけ、苦しむ私の顔を見てわらっていた。
そうして嗤われても、笑っているしかない自分が不甲斐なかった……

家へ帰ると自室に籠りきり、夕飯もそこで食べた。父親に会えば「オマエは物事を途中で投げ出すダメ人間だ」と叱責されるからだ。中学時代やスイミングスクールの友達とも次第に会わなくなった。水泳をしていた私を知っている人間は、私を父親やクラスメイトと同じような目で見るのではないかという恐怖があったからだ……

学校へ行くといじめられ、家へ帰っても親に叱られる日々が続いた。それでも、私はいかなる反抗もしなかった。もちろん彼らに対する怒りがなかったわけではない。だが、それよりも、「私はいじめられて当然なのではないか」、という思いのほうが強かったのだ。両親に対しては、期待を裏切ったという罪悪感があったし、クラスは、前述のとおり「運動ができる者こそがすべて」という価値観が支配する世界であり、その世界において、「脱落者」である私は私を肯定できる材料をなにひとつ持ちあわせていなかった。つまり私は、気づかぬうちに、彼らが形容する私の像を飲み込み、自らの内面として吸収していたのだ……

「私」は、
……負け犬、
……脱落者、
……オチコボレ、
……ダメ人間、……

ニルヴァーナに出会ったのは、そんな時だった。ニルヴァーナの音楽は、自己否定と自己嫌悪に溢れていた。いやむしろ、それしかなかった(私がニルヴァーナを定義するわけにはいかない。しかし、少なくとも私にはそう感じられたのだ)。更に、そんな内面の要素が、濾過されることなく、純度を保ったまま音楽として表出していた。私はそのほとんど暴力的なまでの自己嫌悪の猛威のようなサウンドに、Kurtの破滅的な叫び声に、えも言われぬ親近感を感じ、共振した。

“If you wouldn’t mind I would like to breathe” (“Blew”)
「君さえよかったら息をさせてほしい」(自訳)

“I’m a negative creep” (“Negative Creep”)
「オレは救い甲斐のないウジ虫だ」(自訳)

“Everything is my fault/I’ll take all the blame” (“All Apologies”)
「なにもかもオレのせいさ/オレが非難を一身に受けるよ」(自訳)

なぜネガティブ一色の音楽が私の注意をひいたのかと言えば、ほかでもなく、それがネガティブ一色だったからだ。ネガティブな歌詞や音楽性を有した曲というのはなにも珍しいわけではない。だがそういう曲の多くには、メッセージとして、どこかに光や希望が用意されている。「今はこんなにもつらいが、前向きにいこうよ」といった具合で、最後は前向き・ポジティブになることが奨励されているのだ。私はそういう曲に価値がないと言いたいわけではない。しかし、現状がネガティブ一色の人間にとっては、そういうメッセージは重荷になることがある。人生に光や希望が見出せない自分が、その曲に、あるいは、その曲に共感を覚える不特定多数のリスナーたちの輪から仲間ハズレにされたように感じてしまうのだ。

では、ネガティブ一辺倒の音楽がいかに私にとってカタルシスであり得たかと言えば、「私のような人間がほかにもいたのだ」と思えたことだった。換言すれば、「私は一人ではない」と、私を十全に理解してくれる友達を得たように感じたのだ。「君は一人じゃない」などと言うと、巷に掃いて捨てるほどある下世話なキャッチ・コピーみたいで白けてしまいそうにもなるが、その言葉に託された意味を実体験として体感すれば、それがいかに救いになるかがわかる。

友達は欲しかったが、できる見込みはなかった——

“I’m so happy’cause today I found my friends/They’re in my head” (“Lithium”)
「すごくハッピーなんだ/今日は友達を見つけたから/彼らはオレの頭の中にいる」(対訳):沼崎敦子

——それどころか、水泳部を退部するまで仲良くしていた友達までがいじめに加わった。

“Friends are just known enemies”——Kurt Cobain
「友達とは身近な敵にすぎない」(自訳)

私には、その言葉の意味がよくわかった。私は、今もって尚、私の元友人たちが分けても性格の悪い人間だったとは思わない。彼らはただ、正義感を奮い起こし私の味方をすれば、今度は自分たちがいじめの標的になることがわかっていたのだ。悲しいかな、人間誰しも他人より自分が大切なもので、その摂理の前においては、「友情」とは無力な美名にすぎない。斯様に、形勢や利害関係が変わってしまえば、長い時間をかけて育んできた友情をすら踏みにじってしまう、そんな「人間性の儚さ」を言い表したのが、この言葉の真意なのだ。ある種の言葉は、体験を持たずしては理解できないものだ。

そして私は、私の運命を変えるKurtの言葉に出会った。

帰宅部で暇を持て余した私は、学校の帰りに立ち寄ったヴィレッジ・ヴァンガードで、チャールズ・R・クロスによるKurtの伝記本、『ヘヴィアー・ザン・ヘヴン』を見つけたのだ。400ページから成る長大な洋書だった。本の端にはヴィレッジ・ヴァンガードの店員によるポップが貼りつけられていて、こう記されていた。

“I’d rather be hated for who I am than loved for who I am not”——Kurt Cobain
「愛されたいがために自分を偽るくらいなら、ありのままの自分で嫌われ者になりたい」(自訳)

それを目にした瞬間、私はその場に崩折れそうになった。次の瞬間、私はひとつしかなかったその本をほかの本に埋めるようにして隠し、トイレの個室に駆け込んだ。そして、身も世もなく泣いた。

水泳をやめて以来、誰も彼もが私を否定した。学校ではからかわれ、罵られ、バカにされ、家では「ダメ人間」と烙印を押された。そんな日々を送っているうちに、彼らの声は私の意識に侵食し、やがて自分の声と重なり合った。私は激しい自己嫌悪と自己否定の沼に深く埋もれ、息もつけない思いだった。Kurtが残したその言葉——それは私が探し続けた私自身の肯定であり、私はそれにほとんど母性愛にも似た優しさを見出した。ようやく、私の暗澹たる心中に一条の光が射した——「どれだけ世間に否定されても、少なくとも僕は、自分が信じる選択をしたのだ」

涙が乾ききった頃には、私の心にはひとつの決心が芽生えていた。
「学校で一番英語ができるやつになってやろう」

店に戻り、私は『ヘヴィアー・ザン・ヘヴン』を買った。値段が張ったので、買うと帰りの電車賃がなくなってしまうことを承知で買った。そのヴィレッジ・ヴァンガードは、定期券の範囲を3駅分越えたところにあったのだ。定期券内の駅まで歩くと一時間ほどかかったが、私は苦に思わなかった。いやそれどころか、世界の果てまで歩いて行けそうだった。

次の日、私は学校へ『ヘヴィアー・ザン・ヘヴン』を持って行った。休み時間や昼休みに読もうと思ったのだ。一時間目の授業が終わり、私が本を机に広げていると、案の定、彼らがやってきた。そして、断りもせず私の手から『ヘヴィアー・ザン・ヘヴン』をひったくった。
「ナニコレ?ぜんぶエーゴやん」
「……」
「コレ、どういう意味?」彼らは、表紙の裏側に油性のマジックで私が書き込んだKurtのあの名言を指差しながら訊いた。
私は、言った。
「言ったところで、オマエらにはわからんよ」
私の予想外の反発に、彼らは束の間呆気にとられ、それからお互いの顔を見合わせてニヤニヤとしだした。プロレスの技をかけるつもりだ。
彼らが私の腕をとろうとしたその瞬間、私は自分の机をあらん限りの力で蹴り上げた。机は床に激突し、板が割れるような破裂音が教室中に響き渡った。静まり返った教室に、私は胃の底から叫んだ。
「やってみやろやクソがぁ!!!!!!!!!」
彼らは、あまりに突然のことに茫然自失していて、無様にあたふたするだけだった。やがて、彼らの一人が倒れた私の机を慇懃に立て直すと、言った。
「そんな怒らんでもええやん、ノリやんノリッ、なっ」彼はそう言ってなだめるように私の肩をとんとんと叩き、苦し紛れの笑顔を浮かべた。彼のその醜い笑顔が、妙に私の顔にこびりついていた。笑顔を共有することで、ごまかそうとしているのだとわかった。私はそれをはじき返すように、彼を鋭く睨みつけた。
しかたなく、彼らは私の元を辞した。しょんぼりとしたその小さな背中を見送りながら、私は心の中で言った。
「負けイヌめ」そして、静かに嗤った。

それから私は、英語の猛勉強を始めた。その時私は、二年生のクラス替えで文系のクラスに移ることをすでに決めていたので、数学や化学など、受験に必要のない授業は捨てて、自主的に英語の勉強を進めることにしていた。私は各授業で配布されたプリント類を入れるクリアバインダーを机の上に出し、そこに前もって滑り込ませておいた『ヘヴィアー・ザン・ヘヴン』のコピーを読んだ。わからない単語や熟語が出てくると、ひとつひとつ厳密に意味を調べ、ルーズリーフに書き込んでいった。時にはウォークマンをブレザーの内ポケットにたくしこみ、イヤフォンコードを制服の内側から腕を伝うようにして袖まで伸ばし、イヤフォンをセーターの余りで覆い、頬杖をつくような格好で授業中もニルヴァーナを聴きながら、クリアバインダーの歌詞カードに目を落とした。

そんなふうにして私は二年生になり、三年生になる頃には、英語教師のTOEICのスコアを抜かしていた。私は第一志望の英文科に合格し、卒業した。私は未だに英語をやめていないし、私の生活の中枢を成している。

“You know you’re right” (“You Know You’re Right”)
「君は君が正しいとわかってるはずだ」(自訳)

  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい