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見えないものを思い始める

サカナクションが音で描く自然の姿

-そのまま 深夜のコンビニエンスストア 寄り道して
忘れたい自分に缶コーヒーを買った レシートは レシートは捨てた-

コンビニに寄って缶コーヒーを買う。缶コーヒーは飲んでしまえば体に入り、空になった缶はゴミ箱に捨てる。手元に残ったレシートだけ、これだけが自分の意思で捨てなければ残り続ける。残れば僕はレシートを見る度に思い出すだろう。だから捨てた。

けれど僕は思い出す。いつか忘れたいと思った日、自分に缶コーヒーを買った事も、レシートを捨てた事も。

さよならはエモーションの冒頭を聴きながら、

わああああああ・・・・一郎さん凄ええええ・・・

と、歌詞を味わっていた。御堂筋線に乗って帰る途中、ぼんやり天井あたりの広告の方に視線をやりながら、広告は眺めずにずっと歌詞に描かれた情景と歌の中の僕の心情を考えていた。過去回想である事をパーカッションの音色で表現しているのが何度聴いても格好良い。
忘れたい事はあって、忘れる事は出来なくて思い出してしまう。今でも、よくある。何でもない時にふと思い出す。いつか忘れたかった日の事と、その時の自分の心と、そこにいた人の表情。あれは何だろうか、と思いつつ、そんな気持ちを歌ったのだろうかとも思った。面白いもので、忘れられないけれど、だから今になって思う事もあるのだ。

子供の頃とは違って、誰かが側にいない事の方が多くなっていく毎日は、日々、気持ちを言葉にする事も、誰かを思う事も少なくなっていく。それでも時々、帰り道の途中で吹いたさらりとした風に、何だか優しさを感じる時がある。分身ロボットを発明した吉藤オリィは

辛い時、本当におかしな話だけれど極限までいったら空を見上げて“ああ、空だけは自分の味方だ”と思う様になる

と言ったけれど、辛くなくても時々そう思う。ある日の休憩時間、私は何を思ったか、勤務しているショッピングモールの従業員通路を抜けて外に出た。別に休憩室で過ごせただろうに意味もなく歩き出した街の空は、澄みきった水色の空。その瞬間に、如何にショッピングモールの中が閉鎖的であるか、自分がいる世界の小ささを体系的に知った気がした。日々の息苦しさの根源となっていた職場の人間関係も、満足とは言えない経済で回す生活も、実はほんの一握りのものだと思うと、何故か、実際には何も改善されていない状況を掌に乗せて眺める様な、少しの余裕が生まれた。

サカナクションの音楽には、いつも誰にも思いつかない様な斬新さが散りばめられている。驚く事に、2019年の今、1stシングルのセントレイを聴いても新しさを感じるのだ。冗談ではなく、サカナクションの作る音楽はいつまでたっても変わる事なく新しい。ダンスミュージックのリズミカルな電子音とバンドの演奏、そこに山口一郎の書いた歌詞が加わると、単独では表現しきれない壮大な音楽が出来上がる。クラブに通う音楽好きも、クラブに行った事のない音楽好きも、音楽好きな小学生も、その父と母も、何なら祖父と祖母も心を動かす音楽が、サカナクションの音楽である。弾むリズムは、心地好い楽しさを与えてくれる。クラブで流れている様な最先端の曲調。そこに歌謡曲で聴いた懐かしい旋律が混ざり合う。その融合は見事に斬新で、平成生まれの音楽好きにも、何となくの懐かしさを感じさせる。こそばゆい様なオリジナリティは、何とも言えない不思議さで、やみつきになる。これは彼らが常に意識している「良い違和感」なのだろう。聴いた事がある音が幾つか組み合わさった、聴いた事のない音楽。そこで生まれる引っかかりは、未知の世界だが、ワクワクさせる魅力に惹かれるのだ。

サカナクションの音楽は電子楽器を使ったテクノのリズムがよく使われているが、これは例えばYMOやTM NETWORK、電気グルーヴなどの楽曲に使われているリズムでもある。最初サカナクションの音楽を聴いた時、小さな頃によく聴いていたT-SQUAREやCASIOPEAの音楽にも似たリズムであった為に、とても耳馴染みが良かった。実際、834.194にも収録されている、新宝島の冒頭はテクノミュージックの色が強い。何とも言えない異色の雰囲気である。

え、これサカナクション !?

といった具合に、音の存在感に最初、動揺するくらいのインパクトがあった。
が、後半にかけてロックバンドとしてのサウンドがはっきりと重なると、それはテクノミュージックでもロックでもないサカナクションとしての音楽であると実感するのだ。
豪華絢爛な旋律に炎が燃え盛る様を想像させるメロディと波打つ様なドラムで始まる陽炎。踊りたくなる曲調の後ろでは、冒頭と同じ旋律がゆっくりと流れている。ダンスミュージックの四つ打ちでありながら、どこか上品な世界観。陽炎だけでなく、多分、風。の中でも、そよ風の姿、ある拍子に勢い良く吹き込んだ風の姿、立ち上る砂埃、風に吹かれたあの子の姿を、シンセサイザーやシンバル、スネアなどの音を用いて表現している。モスでは、

アニソン!?

と思う様な、金管楽器にコーラスというグイッと惹きつけられる冒頭から、歌謡曲に似た懐かしいメロディとサビでのやっぱり新鮮と思える山口一郎の歌声の存在感。

-繭割って蛾になる マイノリティ-

乗らずにいられないリズムと共にある歌詞は、明るいわけではないのだ。

834.194は、グッドバイやセプテンバーといった、山口一郎の思う死生観にも繋がる作品が収録されている。グッドバイを制作していた時期の彼は、後にもその頃がとても自身にとって、はっきりとした理由の分からない辛さと苦しさを抱えていたと話している事から、歌詞には、彼が感じただろう様々なかたちの暗闇の姿がぼんやりと浮かぶ様である。

-どうだろう 僕らが知る事のできないありふれた別れもいくつあるだろう-

何気無く生きる日々の中で、自分達が平凡に過ごした日に消えていく命はある訳で、生死だけでなく、何かの小さなきっかけで切れる縁もある。

「またね」

が、もう再び会う事のない相手への、最後の言葉になったりもする。けれど誰もそれが、本当に最後の別れだと知る事は出来ない。だから無駄な期待をするし、晴れやかに笑う。例えば誰かと関わるのをやめようと決意した時、何も言わずにそのまま姿を消す事もある。相手からすれば突然の事に思えても、自身にとってはそれまでに幾つもの小さなきっかけの連続があったりする。それは見えなくとも、あるのだ。人間は弱い生き物で、都合が悪くなれば平気で事実を塗り替えるけれど、そこで塗り替えてしまえば、都合の悪いところだけでなく、素直に楽しかった事も、もらった優しさや信頼も全て塗り替える必要がある。それらと都合の良い正しさのどちらが良いのかは分からない。私はある時、物的証拠こそ無いが人に軽視され始め、それが段々と本人も無自覚だっただろうが行動に表れ、加速した事があった。きっかけは幾つもあった。最終は大多数の正義を振りかざす形でよく分からない反論をしてきたが、こういう時、大多数である事は盾になるのだと再確認出来た良い機会でもあった。勿論、曲自体は、恐れはありつつ、明確ではないものに向かって行こうとする彼自身の決意という解釈も出来る。自分が思う事が世界からすれば確かではないとしても、この世界には明確なものなんてのは無くて、不確かなその中から信じるべきものを自ら選んで進んで行こうという意思だ。人を信じるにしても、何かを始めるにしても全ては不確かだ。性格の良し悪しがはっきりと目に見える事はない。自分が取る行動が正しいかは分からない。それでもどんな結果があろうと進もうという意味でもあるだろう。

都会で暮らすうちに段々と時間に追われ、息をつくのさえも勿体ぶって働く事に慣れてしまい疲弊してしまうと、よく聞いたが、自分は都会に住んでも、そうは感じなかった。それでも年末年始で帰省した際、働かなくて良い時間の使い方に最初、戸惑った。一瞬、信号を待ちながら、

この時間で働いてるだろうな

と考えた。それは後になって、友人と再会して食事をすると、コーヒーを飲みながら話し続けていると、段々、思い出してくるのだった。1秒で友人の笑う顔を見る事が出来る。延々と話をしたのに、別れ際に友人が

なんか、バイト入れなきゃ良かったわ。後悔してる今。

と言って職場に入っていくのを見送りながら、自分が日々、友人と話が出来る筈の1分1秒を、何にも残らないお金に換えて生きている事の残酷さを感じた。

-なぜかドクダミと それを刈る母の背中を思い出した ここは東京 蔦が這う様にびっしり人が住む街-

ユリイカを聴いていると、帰省した時の友人や高校の先生の姿をぼんやり思い出した。そこで知った。無自覚にも、都会で暮らし働くうちに、誰の事も考えなくなっていたのだ。確かに最近は、何か面倒な事があってもあまり気にしない様になり、自分が相手にどう思われているかなんてのは殆ど考えなくなった。楽だったが、同時に確実に失っているものがあったのだ。時間の大切さと残酷さを受けた後で、大阪に戻って再び働き出した瞬間の違和感を、今でも覚えている。

多分、もっと言えた事があった。
何だろう、この苦しさは。
泣かないけど、泣きそうな気がする。

意味も無く忙しない日々を過ごしている。急がなくても良いのに苛ついている。信号を待っている間、さらりと吹いた風が小さな頃、家の近くの山で嗅いだ湿った枯葉の匂いで、目の前にあるのは雑居ビルで、不思議な気持ちになった。どうして同じ匂いがするのだろう。誰も気にしない街で、何故か人から貰う優しい言葉が信じられなくて、特に信頼できる人も思い浮かばない日々に、外に出たくなったのは、風が呼んだのだろうか。

-僕たちはいつか墓となり 土に戻るだろう-

もしセプテンバーで歌っている歌詞がそうだとすれば、小さな頃、山の中を走り回った日の土が、知っている誰かの姿であるのかもしれない。外を散歩している休憩時間、やたらに木や花や空を眺めるのは、吹いてくる風は、いつか生きた自分が何かを伝えようとしているのかもしれない。少しだけ心に隙間が生まれる安心感は、見えないけれど、私に力をくれているのかもしれない。彼の描く歌詞は美しいけれど、残りやすいリズムに乗って心や、風、水、見えないものを形にしている気がする。私たちは、見えているお金や手紙や表情に執着して一喜一憂するけれど、本当に悩むものの多くは、見えないものばかりだ。つまらない事に追われる毎日ではあるが、大事にするべきは、見えているものよりも、空の青さに心が動く事なのかもしれない。
いつか苔になった時、私はどうするだろう。きっと生きている自分に向かって何かを伝えようとするのかもしれない。

-ここで生きる意味 探し求め歩くだろう-

もしかしたら、見えないけれど、馬鹿馬鹿しくも生きている私を支えようとしてくれている存在があるかもしれない。そう考えると、いつか自分が学生の頃、病院に通った後で学校に行くのが嫌で、街の定食屋で昼ごはんだけ食べてそのまま家に帰った日も、その日のキラキラした入江の空も、眩しくて暑い日差しも、あの日食べたロースカツ定食も、学校に行く事よりも意味があった気がするのだ。834.194を通してサカナクションが、働く事より、足並みを揃える潔さより、心の動きや風などの見えないものの大切さを肯定している様で、宗教とかではなく素直に自然の力の大切さみたいなものを信じ始めた私はいたって問題無いのだと思えた。
楽しい事は誰もが欲するが、最初から手に入る楽なんてのはないのだという思いと、意外にもすぐに手に入ると信じて疑わない人が多い事実が衝突する自分の心の中で、サカナクションの音楽と山口一郎の言葉が

どんなに悩んでもいつかは墓になって花になるんだ

と、さっぱり割り切った風で側にいるのが、心強く感じられた。一人でいても、大多数からすれば納得されないとしても、生きる意味はあるのだ。
私はやっぱり見えないものを大切にしたい。

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