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2017年6月15日

imdkm (28歳)

都市と実存、あるいはカルピスの甘さ

小沢健二“流動体について”について

 リリースからしばらくの間をおいて、小沢健二の「流動体について」のフルMVが公開された。僕はその機会にこの曲に初めて向き合い、その不可解さに否応なく惹かれてしまった。小沢健二の音楽に触れた人々の一世代か二世代は下である僕はそもそも彼の新譜にさほど興味を抱かなかったので、大きな話題となったテレビ出演さえも見ることはなく、ただぼんやりと曲の輪郭だけをおぼえていたにすぎなかった。この曲の歌詞についてはすでにさんざん注釈が行われているうえ、もとより小沢健二の活動を熱心に追いかけていたわけではない僕がこれ以上何を語りうるかということについてはまったく自信がない。しかしそのハンドメイド感あふれるビデオをじっと見て、なんとなくぼんやりと思ったことを書き下してみたい衝動に駆られた。

 まず第一に印象的なのはタブラらしいぽこぽことしたパーカッションが曲を通じてなり続けていることで、その低音は「流動体」のダイナミズムを彷彿とさせてあまりある。曲のカタルシスとは無関係に淡々と刻まれるゆるやかな低音が、“流動体について”という曲の足元に都市の蠢きが鳴り響いていることを示唆している。

 ところでこうしたパーカッションの導入、およびある種の「中年の危機」を思わせる詞の内容から、僕はTalking Headsの“Once in a Lifetime”といった名曲をどうしても“流動体について”と並べたくなってしまう。あるいはかつて“ぼくらが旅に出る理由”で小沢健二本人が引用したPaul Simonの“You Can Call Me Al”。どの曲の主人公もふとしたきっかけに「いまの自分」に疑問をいだき、「異なる人生」(あるいはその不可能性)に思いを馳せる。しかし“Once in a Lifetime”の主人公はどうやら自分の意思よりも高次の存在――海底に流れ行く潮流――に飲み込まれていく。“Same as it ever was(もとからそうだったのと同じように)”(*1)と唱えながら。いわばそれは自らの意思によっていかようにもありえた複数の人生へではなく、決定論的に受け入れざるを得ない人生へ対峙することを(困惑とともに)選ぶことだ。しかし、“流動体について”の主人公は折衷的な、というのは、決定論と自由意思とを折衷させたような結論にいきつく。すなわち――

  神の手の中にあるのなら/その時々にできることは/宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう(*2)

 と。こうした決定論と意思という対比は歌詞の他の部分にも出てくるように思う。と、いうか、そう考えると僕には明快に見えてくる。楽曲中、「躍動する流動体~」とつづくパートは全体のうち二箇所あるけれど、そのうちひとつは「躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼」(*3)であり、もうひとつは「躍動する流動体 文学的 素敵に炸裂する蜃気楼」(*4)だ。前者はある種の決定論――数学的、とはすなわちその系が演繹的・ジェネラティヴに展開してゆくことの謂であり、美とはすなわちその調和の謂であるとするなら――を示唆し、後者は逆に意思――文学的たるとは人の自由な想像力に基づくポエジーを発露させることであるなら――を示唆する。すなわち「流動体」=都市とは小沢健二にとって自律的に発展していく生態系(エコロジー)であると同時に、そこに暮らす人間が干渉することでいかようにも変化する対象でもあるわけだ。

 あるいはまた、これも議論を呼んだキーワードである「カルピス」。カルピスの甘さが主人公に不思議を、現状を問いかけたすぐあとに主人公は「だけど」あるいは「だから」と続け、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」(*5)と続ける。彼はカルピスに対してなにを反論しようとしているのか、あるいはカルピスになにを確信したのか。決定論と意思との対比から考えると、ぼくはすんなり理解できるように思える。ただし、前提として、このカルピスが「カルピスウォーター」ではなく「カルピス」である必要はあるのだが。

 その家のカルピスの濃さ――これほど単純かつ残酷な指標もないだろう。カルピスの濃さはその家の経済状況や教育方針、家族代々の好みその他諸々の前提条件によって定められ、その家に生まれた者にとってはなかばアプリオリに「カルピスの甘さ」のデフォルトを規定する。いくらでも自由な濃さを選べるようでいて、そのじつ選び取ったその濃さはその人の周辺環境が折り重なって形成されたテイストでしかないのだ。この歌の主人公が「カルピスの甘さ」に決定的な問いを問われるのは、まさに彼が何気なく希釈した「カルピスの甘さ」こそが決定論――その諸変数は家柄、家庭環境、etc…である――と意思とのはざまに位置しているからだ。

 果たして今の自分と違う自分など存在しうるのだろうか。間違いに気づかなかった平行世界の自分は存在しうるのだろうか。たといそれが存在しているとして、「今の自分」が「今の自分」であるのはなぜか。「カルピスの甘さ」が問うのは、今の自分を今の自分たらしめているのが必然だったのか、意思だったのか、というきわめて実存的な問いだと思う。

 だから主人公はいささか性急にも「カルピスの甘さ」に「だけど」と反論する。この躍動する流動体はたしかにすべてを意思で制御できるような代物ではない、にせよ、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」(*6)のだと。彼の脳裏にはひょっとすると彼が暮らしたニューヨークにおける、1960年代末から70年代にかけての都市開発反対運動の残滓が響いているかもしれない。個人個人のちっぽけな運命など「カルピスの甘さ」程度の問題にしかないが、意思が言葉を、言葉が都市を変えることは充分にありうるし、それは実際にあったのだ。

 だから主人公はこの流動体を称えることをためらわない。その流動体がひとつの生態系であると同時に、人々が意思の力を発露させる場でもあるからだ。ただ、その流動体をまた「蜃気楼」と呼んでしまうリアリズムを主人公は捨てきってもいないし、それが「誓い」――私たち自身の、あるいは流動体という蜃気楼の――を裏切ってはいやしないかと不安を見せはするのだが……。

  無限の海は広く深く/でもそれほどの怖さはない/宇宙の中で良いことを/決意する時に(*7)

 いずれにせよ、決定論を半ば拒絶し、自由意志を受け入れた瞬間に訪れるのは、無限の諸可能性の海だ。自分のなしうるあらゆる生がリゾーム状に、時系列さえこんがらがってあちらこちらへと広がっていく。しかしすでにこの主人公にはこの無限の海を恐れるに足らない理由がある。それは流動体への信頼であり、「今の自分」が「今の自分」であることそのものの驚異であり、それがまた「未来」へと連なっていくことの確信である。

 さて、果たして彼の決意した「良いこと」はなんなのか、僕たちには推し量る材料さえ与えられていないが、少なくともそのひとつが「素晴らしいレコードを発売する」であって欲しい、と僕は思う。

*1 from Talking Heads, “Once in a Lifetime,” in 《Remain in Light》, 1980
*2 小沢健二、“流動体について”、《流動体について》収録、2017年
*3 同上
*4 同上
*5 同上
*6 同上
*7 同上

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