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BUMP OF CHICKEN『話がしたいよ』の文脈をほどく

「僕」は「きみ」と話がしたい。

「平気さ お薬貰ったし 飲まないし」
—『話がしたいよ』より

BUMP OF CHICKENの『話がしたいよ』を、去年の暮れからずっと聴いている。
優しい曲。それはBUMPに特有の、ファンから愛されている音楽にほかならない。彼らの曲は、ちょうど良い距離を保って私たちのそばにいてくれる。磁石のように隙間なくぴったりと寄り添うのではなく、時にはちょっぴり寂しくなるかもしれないような、適切な間を取りながら、それでも私たちの姿を定点から見つめてくれる音楽。

そして必ず「弱さ」を忘れない。人は強い生き物じゃないことを、BUMPは分かってくれている。「お薬」を貰っても、それを「飲まない」ほんの少しの意地を、まるでメロディに取ってつけたように歌う。一人の人間の強がりと、その隙間からこちらを見つめる「弱さ」。この曲を聴いたあなたは、その弱さを、さびしげだけど冬の光がちらちらと部屋に舞うような光を失くさない二つの瞳を、見つけてあげられただろうか。

「僕らを結ぶリボンは 解けないわけじゃない 結んできたんだ」
— 『リボン』より

リボンは解けないものではない。端と端、別々の一本。解けてほしくはないけれど、それが本当。
それらがもし「僕」と「きみ」だったら、そう、そうやって例えるなら、みずから結んできたから、今の僕らがある。自発的に絆を信じる。つながりをつくる。これも人間が人間として生きていれば思わずにはいられないことだから、この曲は心の奥底に共感を呼ぶ。

『話がしたいよ』は、最初に綴ったBUMPの「適切な距離」を歌詞から感じ取れる曲だ。彼らの曲にはもう一つ特徴がある。「去る者は決して追わない」ということだ。これは去る側の人間を、主人公が愛し、人間として尊重しているがゆえのものである。それを彼らはしばしば「友達」と呼ぶ。
この曲は、主人公が何らかの出来事により大切な人との距離が離れてしまった今の気持ちを歌っている。「君」に関することを話す時に過去形であること、「他人同士」「どうやったって戻れない」という言葉から、それは察することができる。
では、この曲は悲しい曲なのか?今はもう取り戻せない「君」との思い出を、ただ感傷的に歌うバラードなのか?
そうではない。やはりBUMPは「君」を追わない。「君」という人間を大事に思っているから、縋りついて引き留めたりは決してしないのだ。

「君」という人間を構成するものが、「君」を「僕」のまなこに見えていた通り感化させたものが愛おしい。だから「君」はずっとそのままで生きていってほしい。
だけど「僕」が「僕」だから愛おしく思った「君」の話をもっと聞きたいよ、
『話がしたいよ』。

これはそういう、真の友情を表現した曲なのだ。
いや、もしかしたら恋愛なのかもしれない、あるいは、何か関係性を表す言葉のどれにも当てはまらない関係なのかもしれない。二人の間に、二人を定義するものは無かったのかもしれない。
それ自体はさして重要ではない。大事なのは、「僕」が思う「君」についてだ。

「街が立てる生活の音に 一人にされた ガムと二人になろう 君の苦手だった味」
「それの何がどうだというのか わからないけど急に 自分の呼吸の音に 耳澄まして確かめた」
—『話がしたいよ』より

こうやって距離が離れた後も「君」を思い、バス停で一人ガムを噛み、歯切れの悪い感情ばかりがぽろぽろと零れ落ちて、あーあ、なんて言いながら最後にバスが来て、ガムを紙にくるんで捨てる。

そんな物語を、人生のうちで体験できたらどんなに良いだろう。
その一瞬、そして「君」と一緒にいた時間の中で、どんなに素晴らしい関係を共に築けたことだろう。
私は彼らが羨ましい。私は現実世界で疎遠になってしまった友人(とりわけ中学・高校時代)の中で、こんな風に思える人間がいなかったから。自分以外の人間に見えている世界を尊重するほど、彼女たちを愛することができなかったから。

冬のぴりりとした空気を吸って、喉がじんと冷たくなる。頬と唇がかさかさする。アスファルトのつぶつぶを凝視したりして、急に思考が広がって、ボイジャーのことだとか、地球のど真ん中やきれっぱしのことだとかを考えたりしてしまう。そしてまた現実に戻る。思考の隙間に入り込んでくる、温かな感情。
「君」は今、どうしているかな。

ふとした心の抜けと、そこに染み込んでくる感情。
周りの風景の他人行儀さが、ことさら自分の身体に輪郭線を引く。
「僕」はちゃんと、寂しさを感じている。彼の目頭の温度が、聴き手のスマートフォン、あるいは別の音楽媒体に触れる指先にまで伝わる。
でも彼は泣いたりはせず、ただ、ただ『話がしたいよ』と願うだけなのだ。
「君」という人間が好きだったから。

「抗いようもなく忘れながら生きているよ」
「今までのなんだかんだとか これからがどうとか 心からどうでもいいんだ そんな事は」
—『話がしたいよ』より

いつか必ず「君」を忘れて生きていくことを受け入れ、コカ・コーラの缶を蹴るように、過去と未来を思い切り一蹴する。

「いや どうでもってそりゃ言い過ぎかも」
—『話がしたいよ』より

そして思いとどまる。これほどまでに「僕」は人間らしい。「弱さ」と「つよがり」。それが人間を人間らしくさせる。みっともなくて愛おしい。

「ガムを紙にぺってして バスが止まりドアが開く」
—『話がしたいよ』より

曲の最後、バス停での物語はこうして終わる。それは「僕」の中の「君」の物語が終わるという意味でもある。ガムは「君」の苦手だった味で、きっと「僕」は紙にきつくくるんだだろう。石つぶてみたいになったそれは、バスに乗った「僕」のポケットの中にまだある。

人と人の関係はこういうものなんだろうなと思うと同時に、あれ、でもこんな素敵な物語を、私は持っていないぞとポケットの中をのぞく。
もしかしたら、これからなのかもしれない。私が誰かを「人間として好きだ」と思えて、その人との距離が空いてしまった時、「僕」のようになれるのか。それは自信がない。だって彼はBUMP OF CHICKENの曲の中で生きているのだ。ひどく優しいし、いじらしくて人間くさい。

執着だって人間くささだから、その大切な誰かの、私がいない今と未来が永劫「あなたの生きるままに」保たれてほしいと思う自信はないけれど、そんな風に、人を愛してみたいとは思う。友達でも、恋人でも、家族でもいい。

愛しているから、もう一度話がしたいよ、と囁いてみたい。

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