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ceroがceroである理由と最適解、期せずして犬と猿の邂逅

cero 2019年8月11日 新木場Studio Coast『Traffic』を観て

『Traffic』とは、毎年夏にceroが主催している、彼らと縁のあるミュージシャンが集まるイベントである。手作り感のあるアットホームな雰囲気が特徴で、いわゆる夏フェスとはまた違った趣があり、演者も観客も皆リラックスしている。昨年に引き続き、今年もこの『Traffic』に参加してきた。実は、前回の『Traffic』の時点でceroのライヴレポートを書くつもりだったのだが、もう一年待ち、彼らの変化を確かめたくなり、今回ようやく筆を執った。“cero”というバンドに関しては、点で語るのではなく線で語ることで、その本質を少しでも感じ取れるのではないかとふと思ったからである。

さて、彼らの音楽性を語る上で、ceroというバンド名の意味を再考することを避けることはできない。当初は、Contemporary(現代的な) Exotica(異国情緒ある) Rock(ロック) Orchestra(楽団)の頭文字を取ったものとされていたが、2ndアルバム『Obscure Ride』収録の「C.E.R.O」という曲の中で、ExoticaはEclectic(折衷的な)に、RockはReplica(レプリカ、複製)に改められている。そういった経緯を踏まえ、これらの4ワードを軸に、昨年と今年の『Traffic』でのceroのライヴに言及しつつ、彼らの音楽性、さらにはポテンシャルについて述べたいと思う。

Contemporary(現代的な)について。彼らの作品は何かしらノスタルジーのようなものを感じさせることから、懐古主義だと捉えるリスナーもいるだろう。確かに、ミュージック・ヴィデオでの映像はフィルムで撮った温かみを感じるものが多く、夕暮れ時のまどろみや夜中のチルアウトタイムを想起させる(レーベルメイトのVIDEOTAPEMUSICの手によるものは特にそう感じる)。また、音源上でも、できるだけデジタル処理を感じさせないマスタリングや、フルートやトランペットなどの音色にアナログ感があり、彼ら独特のレイドバックグルーヴは伝統や王道への安心感すら与えてくれる。しかし、彼らのライヴを観ると、そういった印象はがらりと変わるだろう。ライヴでのアウトプットはかなり実験的なのである。例えば、ベース・ドラム・パーカッションのリズム隊が構築する緻密な変拍子が延々とループする上で、ギターとキーボードがソウルフルなアンサンブルを紡ぎ出し、そして高らかに響く韻を踏んだ日本語詞の唄が見事に絡む。方向性こそ異なるが、実験的という意味ではCorneliusのライヴにも通じるところがある。
あくまで私見だが、昨年の『Traffic』では、成長過程のバンドによくある、やや盛り込み過ぎの濃い目のアレンジも多々あり、肩肘が張りすぎているなという印象を拭い去り切れなかった(実際、実験性を追求するあまり普遍性を失うバンドはこれまでも多々見てきたので、その方向に向かってしまわないかと若干心配さえした)。しかし、今年の『Traffic』でのceroのライヴは、演奏する側もかなりリラックスしていたようで、そのような濃密さが良い塩梅に分散され、彼らの音楽の実験性と普遍性が見事に浮かび上がり、かつ両立していた。エッセンスを削ったというよりもむしろ濃淡をつけたり緩急をつけたりすることでバランスが良くなったのだと思う。もちろん、メンタル的な面だけでライヴが良くなるわけではない。彼らの演奏技術の向上がステージングの足腰を強靭なものにしているのである。一年でのこの飛躍を考えると、来年以降のライヴも当然期待せざるを得ない。ceroのライヴは常にアップデートを繰り返し、その時代、その空間に最適な演奏を展開しているのである。contemporaryという語は、「現代的」と訳されることが多いが、実際には「同時代的」という意味である。時代への迎合ではなく、その時代、さらにはその瞬間瞬間での最適解を模索するアティチュードこそcontemporaryなのだと痛切に感じた。

Eclectic(折衷的な)について。「折衷的」という言葉を聞くと大抵の人は「和洋折衷」という四字熟語を想起し、「和のものと洋のものが半々」というイメージを持つと思うが、そもそもeclecticism(折衷主義)というのは「一つに偏らずに幅広いものを包括すること」という意味である。diversity(多様性)とも関連のある語である。
ところで、私自身がeclecticという英単語を邦楽界で耳にしたのは、小沢健二のアルバム『Eclectic』(2002年)以来である。そこで、ceroの“e”をExoticaからEclecticに改めた以降のアルバム『Obscure Ride』『POLY LIFE MULTI SOUL』と、『Eclectic』を並べて聴いてみると、両者が意図する「折衷的」の意味がおぼろげながらも見えてきた。少なくともceroも小沢健二も、音楽ジャンルで言うところの「ミクスチャー」ではない。Mixtureというと、取り込んだ要素が全て均一に裁断され継ぎ目が分からないように再構築されるという印象だ。元々異質なもの同士を混ぜることで歪(いびつ)なものが出来上がることもある。これは90年代のグローバリズムの特徴でもあり、実際にそのような音楽も数多くあった。一方で、Eclecticというと、様々な要素の形式が多重的に組み合わされることで全く別のフォームが現れるという印象だ。ソウル、フュージョン、ジャズ、ロック、といった多種多様な要素の中間地点に無理やり立とうとするのではなく、例えば、ソウルの枠組みの中でジャズの形式を取り入れ、尚且つそこに日本語詞の歌を入れるといった手法である。要するに、それぞれのジャンルの音楽が持つ形式美を壊すのではなく、その構造の向きを変えたり反転させたりして、できるだけそのまま利用するのである。
もちろん、このような方法論は、録音技術や演奏技術の向上によって音源化することまでは出来ても、ライヴでの生演奏で再現するのはとても難しい。実際、2018年のフジロックや『Traffic』でのceroの演奏は、特にリリースしたばかりの『Ploy Life Multi Soul』の楽曲をライヴで演奏することに関しては、まだまだ着地点を模索中の印象があった。しかし、今年の『Traffic』では完全に一歩突き抜けていた。そこでは、音源の単なる再現ではなく、彼らが発表してきた作品とライヴ空間との折衷化が見事なバランス感覚で具現化されていたのである。つまり、彼らは、様々な音楽ジャンルの形式の折衷化に成功しただけでなく、ライヴでの再構築という形で、音源楽曲の完成度と、contemporaryという意味における生演奏との折衷化に成功していたのである。

Replica(レプリカ、複製)について。「レプリカ」というと「偽物」というネガティブな印象を持つ人も少なくないだろう。もちろん実際には、「複製物」であり「偽物」ではない。では、なぜ彼らはこのような誤解を与える可能性のあるワードを採用したのだろう。前述したように、元々、ceroの“r”は、Rockであった。これに関してはヴォーカルの髙城氏も後悔しているとの発言をしている。Rockというワードを明示してしまうことで、今や多義的になってしまったRockという概念にイメージが固定されてしまい、逆説的に存在意義がぼやけてしまう、といった懸念からだろうか。もしかしたら、単純に大人のバンドとしてはやや気恥ずかしいというのもあったのかもしれない。いずれにせよ、そこで、敢えてReplicaというワードを採用したのは、Eclectic(折衷的な)とも関連はあるだろうが、その理由は、『Obscure Ride』収録の『Orphans』の歌詞にある、「別の世界では」というフレーズに端的に表れていると私は思う。
一般的に、ミュージシャンが、これまで吸収し影響を受けてきた音楽をそのままの状態で提示するのであれば、リスナー側としてはオリジネイターらの作品を聴けば済む話である。ミュージシャンは、自分たちの世界観というフィルターを通してこれまで影響を受けてきた音楽を再構築することが求められる。それこそが彼らのオリジナリティーとなるのだ。つまり、フィールドワークで採集してきた材料をそのままの形で提示するのではなく、独自の実験室で様々な組み合わせや混ぜ合わせを試行錯誤し、ようやくできたそれらを提示することがミュージシャン、特にオルタナティブなスタンスのミュージシャンには肝要である(もちろん、伝統音楽をピュアな形で継承することに意義を感じるミュージシャンもいるだろうし、全くのオリジナルなものをゼロから作り出そうするミュージシャンもいるだろう)。そういった、インプットしてきた素材の数々を、自分たちの箱庭という別の世界で再構築していくという音楽制作スタイルが、彼らの言うところのReplica(複製)なのである。また、ライヴという閉鎖空間の中で、楽曲を再構築しcontemporary(同時代的な)グルーヴを作っていくことも、彼らにとってのReplica(複製)である。昨年の『Traffic』と今年の『Traffic』でのceroの演奏を比べると、セットリストの違いといった表面的な部分を超えて、伝わる空気の振動・熱量・グルーヴの持つ色彩など、全く別物だった。Replicaというワードは、同じバンドが同じ楽曲を同じ場所で演奏していても、「別の世界では」という感覚を生み出す装置として機能しているのだ。

Orchestra(楽団)について。ceroのメンバーは3人である。楽曲制作に関しては、それぞれがラフスケッチしてきた、「曲の原石」をスタジオで、全員で(もちろん演奏サポートもあるが)ブラッシュアップしていくという過程を踏んで作り上げているとのことである。しかし、ライヴで演奏する際は、サポートメンバーも含め8人になる(私自身彼らの全ライヴを観たわけではないが、少なくとも『Traffic』時のステージではそうだった)。もちろん、彼らがスタジオで録音した音源を忠実にライヴで披露したいからといって、メンバー3人以外のパートを予め録音したオケで流せばよいというわけにはいかないからである。それは、ライヴ時にサポートメンバーを採用している多くのバンドにも言えることだろう。しかし、ceroの場合、ある特殊な編成となっている。メンバー3人はステージ上では、主にギター・ヴォーカル・フルート・キーボードという、いわゆるメロディーを奏でる上物の演奏が中心で、ドラムやベース、パーカッションといったリズムセクションはサポートメンバーによるものなのである。そして、変拍子が特徴のグルーヴィーな楽曲ではリズム隊の方が目立つことすらあるのだ。そこが非常に興味深い。
ceroは、3人組のバンド+サポートメンバーという、ある意味ヒエラルキーを感じさせる構成ではなく、8人組のオーケストラ編成でライヴをしているといっても過言ではない。単に生演奏による音源の再現のために補助的なサポートメンバーを導入しているのではなく、ライヴ空間でより柔軟に(≒eclectic(折衷的)に)楽曲を再構築(≒Replica(複製))するためにオーケストラ編成となっているのである。ギターのメロディーを引き立たせるためのベースラインという考えがあるのと同様に、ドラムとベースのリズムを引き立たせるためのヴォーカライジングというコンセプトがあっても良いはずである。実際、髙城氏のヴォーカルは、歌だけでなく、リズムにアクセントを加味するようなラップやスキャットのようなフレーズが年々色濃くなっている気がする。特に、今年の『Traffic』ではそのような印象を強く感じた。ceroの3人には若干失礼かもしれないが、例えば、『魚の骨 鳥の羽根』や『レテの子』などでは、リズム隊の演奏だけを延々と繰り返されたとしてもずっと踊っていられるほどであった。このようなことを可能にするには、ヒエラルキー構造よりもオーケストラ編成の方が合理的であろう。

以上のように、“cero”の意味を引き合いに出しながら彼らのライヴでの音楽性を考えると、音源だけで満足するだけではなく、彼らのライヴにも定期的に足を運びたくなるのではないだろうか。そこには常に彼らの最適解がある。そして、私たちは、ビルドアップしてはスクラップし、より進化と深化を繰り返しながら再構築され続ける彼らの演奏に身を委ね続けるのである。そこが彼らの箱庭だと知りつつ。

追記 
ceroの音楽性を語る上で、Corneliusと小沢健二に言及したが、改めで考えてみると、フリッパーズ・ギターが解散せずに活動を続けていたら、ceroのようなスタイルの音楽性になっていたかもしれないとふと思った。
 

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