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フジファブリック志村正彦による夏の在りし日の歌

花火と空中ブランコと梯子乗りと「若者のすべて」

2015年、柴咲コウのカバーアルバム『こううたう』を聞いた時、初めて「若者のすべて」という曲を知った。それまでフジファブリックの原曲は聞いていなかった。物憂げな柴咲コウの歌声にぴったり合っていて、純粋に素敵な夏歌だと思った。その後、2010年にリリースされていたBank Bandの『沿志奏逢 3』で、ボーカル櫻井和寿バージョンの「若者のすべて」を聞いた。櫻井和寿の歌なのかと勘違いするくらい曲が彼に馴染んでいて、心に響いた。誰が歌っても、名曲には違いない。名曲だからこそ、様々なアーティストにカバーされ、歌い手、聞き手、誰からでも愛される楽曲になったのだろう。

その後、やっとフジファブリック志村正彦が歌うオリジナルを聞いた。この名曲を作り上げた本人なのだから、当然のことだけれど、想像通り、曲にしっくりするボーカルと表現力だった。夏の終わりのけだるい雰囲気、なんとなく感傷的になる瞬間、すべてが彼の歌声に溶け込んでいた。

フジファブリックをあまり知らなかったため、彼が亡くなっていたことをしばらくの間、知らずに過ごしていた。「若者のすべて」という曲があまりにも花火のようにきらめいていて、輝き続けているから、まさかボーカルの彼が亡くなっているなんて思いもしなかった。

亡くなった時の年齢がまだ29歳という若さだったと知って、どことなく詩人の中原中也のようだと思った。中原中也も30歳で早逝している。帽子を被った中也の写真に見覚えのある人が多いと思うけれど、志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』という本の表紙写真が帽子を被った志村で、その見た目からも中也を彷彿とさせた。眼差しと佇まいがよく似ていると思った。中原中也の「サーカス」という詩は教科書にも登場するため、多くの人に知られていると思う。
<ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん>
という空中ブランコが揺れる様を表現した擬態語は有名だ。志村の歌詞の世界観がどこか中也の詩の世界に通じるものがある気がする。

例えば「若者のすべて」において
<ないかな ないよな きっとね いないよな>
<ないかな ないよな なんてね 思ってた>
というフレーズは擬態語ではないけれど、心が揺れる様を表しているとすれば、
中也の<ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん>
というブランコが揺れる言葉の情景に似ている気がするのだ。
題材が、花火と空中ブランコという違いはあるけれど、それを眺めている詩人の心情は通じるものがある。どちらもノスタルジックで、アンニュイな雰囲気が醸し出されている。

空中ブランコではないものの、少し似たもので、私は梯子乗りを見ることが好きだ。梯子乗りは消防の出初式などで披露される高さ7メートルを超える梯子の上で様々な曲芸を披露するもので、見応えはあるけれど、危険を伴うから、空中ブランコに近いと思っている。テレビでは見たことがあったけれど、今年の春に初めて生で見てしまって、音楽と同じで、ライブに行ってしまうとハマるあの感覚と同じ状態になった。また生で見たいと思った。それが8月10日の夏祭りで見られると知った。実家からは少し遠い場所で開催されるその夏祭りを目掛けて、前日から旅路についた。

そう、その前日とは8月9日のことで、フジファブリックがMステに初出演し、「若者のすべて」を披露した日だった。亡くなった志村正彦と現ボーカル山内総一郎の歌は饗宴のような共演だった。本来なら哀悼の意を表しながら見るべきなのかもしれないけれど、まるで志村正彦が蘇った気がして、「若者のすべて」という色褪せない名曲と共に生きているとしか思えなくて、フジファブリックのパフォーマンスに感銘を受けた。

その後、天気予報を見た。翌日は急な雷雨の可能性があるという。屋外で開催される目当ての梯子乗りは、梯子が滑ると危ないため、少しの雨でも中止になり得る。夏祭りの締め括りには花火も打ち上げられることになっている。梯子乗りも花火も天候に左右されやすい。無事に見られるかどうか、空模様ばかり気にしながら、遠くのお祭り会場へ向かった。

当日は<真夏のピークが去った>ような気温で、曇天だけれど、気温だけはお祭り日和だった。これが数日前までの30℃超えの暑さだったら、演技する人も見る人もかなりたいへんだったはずだ。雨が降らないことを祈りつつ、梯子乗りを待っていた。

無事、梯子乗りが始まった。生で見るのは3回目のことだった。3回目ともなると流れや見方は覚えた。それでも初めて見た時と同じくらい感動した。命綱も付けずに、高所で華麗な技を演技するなんて、自分には絶対できないことを軽々とやってのける乗り手の人たちに憧れを抱いた。やっぱり空中ブランコと同じだ。一歩間違えば命を落としかねないのに、命懸けで見る人を楽しませてくれる。演技時間はそう長くはない。何しろ、梯子を支える支え手という人たちも相当体力を使うからだ。時間にすれば、ほんの一瞬の演技だけれど、そのために日々練習を積み重ねているらしい。天候によっては中止になるかもしれないし、演技できず、練習時間が報われないかもしれないのに、長い時間努力を積み重ねる姿勢に感心してしまう。

それは花火とも同じだと気付いた。華やかで、儚い花火と梯子乗りは同じだった。花火も長い時間をかけて、花火師が一玉一玉丁寧に作り上げ、打ち上げてやっと完成する芸術作品だからだ。その作った花火がキレイに咲かない場合もあるし、中止になる場合だってある。だから見事に花開いた時は、より一層感動するのだろう。

花火も梯子乗りも空中ブランコも刹那の出来事で、形には残らない。人々の心に印象として残るだけだ。その印象が忘れ難く尊いものだからこそ、何度でも見たくなるのだろう。

「若者のすべて」という曲もそれら形の残らない尊いものと同じ類だと気付いた。夏という短い季節限定で実感できる音楽だからだ。名曲には違いないのだけれど、他の季節に聞いたのではちょっと違和感がある。夏に聞くからこそ、味わい深い楽曲であり、期間限定だからこそ、センチメンタル感やノスタルジー感がより増すのだと思う。

「花火は夜空で咲き、消え去る時、完結する芸術」という言葉を本で読んだ。「若者のすべて」は志村正彦が作り、世に広まり、志村が亡くなってしまったからこそ、ますます完成度の高い音楽、尊い芸術作品として完結したとすれば、それは少し皮肉なことかもしれない。いや、完結という言葉では語弊がある。志村正彦がいなくなっても、今のフジファブリックに歌い継がれているし、私のように新たな聞き手もどんどん増えているから、音楽としてまだ完結してはいないだろう。夏の終わりの名残惜しさのような余韻がずっと続いているこの楽曲は歌い手、聞き手がいる限り、完結することなく、それぞれの夏に浸透し続けるだろう。

梯子乗りを見終えた私は、<夕方5時のチャイム>が鳴る頃、今度は花火を待ち始めていた。夏祭り主催側の立場の友人に花火が見やすい場所を教えてもらっていた。あまり土地勘のない街でひとり、花火を待っていた。本当は友人と一緒に見たかったけれど、当然のことながら、夏祭りが終わる時間までバタバタで何かと忙しいという。花火が終わり次第、会えるかもしれないということで、
<ないかな ないよな きっとね いないよな>
<会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ>
という心境で、ひとりの時間を過ごしていた。

<街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ>
という時間帯になり、慌ただしく帰り足になっている人々を横目に、私は退屈な時間を持て余して、ぼんやり空を眺めていた。
月が柔らかな光を放ち始めた。その側で金星も輝いている。ピカピカ点滅しながら、時折、飛行機も通り過ぎた。そのうち隣町の盛大な花火大会の花火の音が聞こえて来た。花火を見たいなら、隣町の花火の方がお勧めだよと教えられていた。けれど、私は花火だけを見たかったわけではなく、梯子乗りを見たかったわけで、梯子乗りからの花火という夏祭りの流れを体験したくて、ひたすらその場で待ち続けた。

少しずつ人が集まり始めた。ついに花火が打ち上げられた。左隣は若いカップル、右隣は家族連れ、その間に挟まって、私はひとりで待ちに待った花火を見上げていた。待った甲斐があったと言いたいところだけれど、花火の煙が滞って、花火が打ち上げられれば打ち上げられるほど、煙ばかり増えて、最後の方は花火ではなく、煙を見ていたようなものだった。30分未満の短い花火で、間を空けずに打ち上げ続けるものだから、そんな感じになってしまったのだろう。それでも私は満足した。だって、花火を待つなんてひさしぶりのことだったから。ここ数年、花火をまともに見ていなかったから。以前まで、一緒に見ていた友人は結婚してしまったし、この歳になると家族で見るのも何か違う。近年はたいてい家から見える近場の花火を眺める程度で、正確には花火は見るというより、音だけ聞いて過ごすことが多くなっていた。昔は花火大会があると家族で近くまで見物に行ったり、友人と間近で見たりもしたけれど、ひとりだと帰りの渋滞に巻き込まれるのも面倒だなと億劫になってしまっていた。一番最近花火を見たのなんて、飼い猫と一緒に家から見た花火くらいだ。それも数年前の話で。

だからたとえ煙まみれの花火だとしても、見に行けたことは達成感があった。
何しろ前日までは急な雷雨で梯子乗りも花火も中止になるかもしれないと思っていたくらいだから、無事開催されただけでも十分だ。
それにひとりで見ていたものの、友人も少し離れた場所から
<同じ空を見上げている>と思うと、同じ花火を見ていると思うとひとりではない気がしたから。
これ以上欲張ってはダメだと思っていた。友人もここ1週間は準備で相当忙しかったみたいだし、会いたいと思っても、疲れているだろうし、帰ろうかなと思い始めていた。

<すりむいたまま 僕はそっと歩き出して>
こんな風に少しもやもやした気分で歩いていた矢先、

<ないかな ないよな なんてね 思ってた>
<まいったな まいったな 話すことに迷うな>

思ったより早く片付けが終わったという友人が駆け付けてくれた。
祭りの後の虚しさが込み上げていた心に、ぱっと花火が返り咲いてくれたようで一気に明るい気持ちになれた。
うっかり<「運命」なんて便利なものでぼんやり>してしまった。
そして、きっと<何年経っても思い出してしまう>1日になった。

たまたま前日「若者のすべて」をMステで聞けたから、この日はずっと「若者のすべて」のような気分で過ごせたのだと思う。あぁ、こんな他愛のない夏の1日に寄り添ってくれる歌は他にあるだろうか。孤独で寂しい時間がこの楽曲のおかげで和らいだ気もする。煙だらけの花火でさえ、思い出深い花火になったのは、「若者のすべて」を聞いていたおかげだと思った。

「若者のすべて」という夏歌が存在してくれて良かったと心から思う。私に限ったことではなく、誰の夏にも寄り添ってくれる楽曲に違いない。大切な今年の夏の1日はもう戻って来ないし、来年も夏は巡って来るけれど、決して今年と同じ夏ではない。「若者のすべて」は思い出となってしまったそれぞれの夏を永遠に色褪せない記憶として残してくれるような存在だ。それは志村正彦が残してくれた贈り物でもある。この名曲と共に、彼の魂は生き続けるし、これからのフジファブリックも輝き続けるはずだ。

地元の街では毎年7月下旬から約1ヶ月間、3本の橋の欄干の上に提灯が取り付けられる。橋1本につき、2列の提灯が並ぶ。合計6列の光の筋が、夜になると川に反射して、幻想的な光景が広がる。提灯の黄色、信号機の青色と赤色、その三色が代わる代わる水面に映って、ゆらゆら光が流れる。それを見ることがささやかな夏の楽しみだったけれど、8月下旬、いつの間にか提灯が撤去されてしまっていた。

8月31日、近場で最後の花火が打ち上げられた。
<途切れた夢の続きをとり戻したくなって>ひとりで足を運んだ。
「同日開催の大曲の花火と違って、ここの花火は一瞬で終わります。」と饒舌なMCのおじさんが「一瞬」という言葉を何度も繰り返した。一瞬の方が、短い方が花火らしくて趣がある気がする。花火は儚さが美しさでもあるから。夏も短いから輝くのかもしれない。終わりがあるから、尊い時間。ほんの15分程度という今年最後の花火を目に焼き付けた。提灯の明かりはとっくに消えてしまった。今年も夏が終わる。

<世界の約束>って何だろう。そんなことを考えながら、夏の在りし日々を思い返している。きっとこういう風に時間が過ぎ去ることが<世界の約束>なのかな。この世の定めなのかな。少し気が早いけれど、来年の夏も待ち遠しい。

ふと、中原中也は花火の詩を残しているのだろうかと検索してみた。「幼き恋の回顧」という詩の中に花火が登場するらしい。詳細はあえてここには書かないけれど、それは中也による「若者のすべて」だった。

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