4140 件掲載中 月間賞毎月10日発表
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

ビートルズの愛聴者がいだいた疑問

市民ミュージシャンって幸せですか

「音楽って何だろうね?」

先日、所属する市民バンドのドラマーに、そんなことを訊かれた。そんな難しい質問に即答することはできなかった。個人として(下手くそなアマチュアのベーシストとして)何ゆえに音楽を聴き、自身も奏でつづけているのか、その答えは容易には出せないし、まして芸術のジャンルに「音楽」があることの意味など、もっと分からない。それを自分が考察する資格があるのかさえ分からない。

音楽を聞きかじり、楽器を弾けるように練習を重ね、ほんの少しくらいは、楽曲の深みを理解できるようになったことが、自身に「幸福」をもたらしかのかも確証が持てない。それは17歳の時(もう22年も前のことになる)、初めて「バンド」という場に身を置いた時(当時の)バンドマスターに相談してみたことでもある。

「コピーバンドを始める前は、なんというか、もっと純粋に楽しめていた気がするんです。理屈は分からないけど、この曲は、この部分から熱を帯びてくるなあとか。それで充分に楽しかった。それが今、耳コピを始めたことで、ああ、ここではストリングスが入るんだなとか、ここでベースラインが動くんだなとか、そういうことを考えるようになってしまって。無垢なリスナーではなくなってしまった気がする。何かを失ったような気さえします」

その人は「同じことを考えたことがある」と答えてくれた。「それでも、それはアマチュアとはいえ、奏でる側に立とうとする以上、避けて通れない痛みだと思うよ、俺は」

***

そうやって奏楽を始め、今日まで続けてきたことについて、もちろん後悔などはない。今となっては、夜な夜なベースの練習をすることが、ある種の「療養」になっていると感じることさえある。ずっしりと重いジャズベース(※特に珍しくはない機種を使っています)が太ももに乗る感覚に、いくぶん心を落ち着かされる。球技を愛する人は、ボールを触っているだけでも幸福感を得られるという話を聞いたことがあるけど、その感覚に近いのかもしれない。私は音楽を愛しているというより、ベースという楽器を、いわば物体として愛でているのかもしれない。

何だかつまらない、理屈っぽい話になってきたなあ。これをドラマーに聞かせても苦笑されるかもしれない。

芸術としての音楽、その存在意義についても、考えてみたことが何度かある。学生時代、全盲の教授が「本を読むのに苦労しているのは視力がない人だけではない」と教えてくれた。ディスレクシアという障害があるという。文字の読み書きに困難を感じる障害だという。それは知能には関係のない、致し方ない性質だという。

私自身は本が好きで、活字を追わない日は(ほとんど)ないのだけど、もとより「読書」という行為を神格化する風潮に疑問をいだいてはいた。「本を読まないと立派な人間にはなれない」というような「指導」は、いくぶん配慮を欠いたものなのではないかと考えてきた。だから、その教授の講義は、すっと胸に入ってきた。そして、あらためて思った。人間に見識や感受性、洞察力といったものをもたらすのは、書籍「だけ」ではないのは確かであり、読み書きが難しい人のために(たとえば)音楽というものがあるのではないかと。

***

知己(かつてバンドを組んでいたキーボーディスト)は、私よりも遥かに鋭い耳を持っており、また探求心を持ってもいる。彼と私は「ビートルズが好きだ」という共通項から、一時期を伴に過ごすことになったのだけど、彼は、ある楽曲が、どんな編成で奏でられているかを考えるだけでなく、どのパートを誰が弾いているかも考えている…というか、ある程度は推察できてしまうという。それが果たして幸福なことなのだろうかと、失礼にも私は思ってしまう。

たとえば、このギターソロがジョージではなくてポールが弾いているだとか、そういうことが分かってしまうというのは、たしかに優れた能力なのだろうとは思う。ただ、それは「自由」までをも意味しはするのだろうか。私は、しないような気がする。何の先入観もなく「この曲はいいなあ」とか「理由は分からないけどテンションの上がる曲だなあ」とか感じられるほうが、鑑賞者としては幸せなのではないだろうか。

もちろんプロフェッショナルになりたいのなら、そうは言っていられないのだろう。プロには楽曲を「解析」するような発想や知識、経験といったものが求められると思う。かくいう知己はセミプロのアレンジャーなので、そういったものを日々、意識的に磨き上げているのだろうと察する。それでも、彼は職業的なミュージシャンである以前に、純粋なビートルズのファンでもありたい(ありたかった)のではないだろうか。「聴こえるがゆえの不自由さ」を感じてしまうこともあるのではないか、そんなことを思うのだ。

かくいう私も、たとえば「ジ・エンド」で披露されるギター・バトルで、どの部分をジョンが弾いているかくらいは推察できてしまう(合っているかは別にして、何となくは察せてしまう)。それは果たして幸福なことなのだろうか、ある種の自由を私は得ているのだろうか。

***

長々と書いてはみたけれど、結局、もとから抱いていた疑問を、さらに深いものにしてしまったというか、単なる堂々めぐりをしてしまったようにも思える。そして「感傷」が強まったようにも思える。かつてビートルズの「レット・イット・ビー」を、何の予備知識もなく聴いた時の、あの少年期の感動は、もう二度と味わえないのだろうなと。これから別のミュージシャンの新曲を聴く時にも、それがどんなに素晴らしいもの、あるいは革新的なものであっても、私は「まっさらな気持ち」で、それを受け止めることはできないかもしれない。

新しい楽器が開発されたとして、その耳慣れない音色が聴こえてきたとしても、それが「新しい楽器であること」には気付けてしまうと思う。もしかすると私は、音楽というジャンルを超えた、年を重ねた人間なら大なり小なり抱えているはずの「知ってしまったがゆえの不幸」を味わっているのかもしれない。初めて夏目漱石の著書を買い、その1ページ目を開いた時の期待感。初めて美術館に足を踏み入れ、名画を前にした時の昂揚感。それは漱石を「知らない」がゆえに得られたものであり、絵画に関する知識を何も持たなかったがゆえに抱けたものでもある。

私たちが何かを知り、芸術というものに触れ、その真似ごとをしようと試みる時、何かが終わるのではないだろうか。その「終わり」が、プロフェッショナルへの一歩を踏み出すという「始まり」でもあるなら、それは喜ばしいことだろう。でも、それなら、プロになれない芸術愛好家はどうなのだろうか。「市民ミュージシャン」というのは、ことによると、最も物悲しい存在なのではないだろうか。

***

全国各地の「市民ミュージシャン」と同種の虚しさを共有したいわけではないし、彼ら彼女らは、もっと誇り高く、屈託なく活動をつづけているのかもしれない。それでも私は、恐らくは最後まで解けないであろう疑問を抱えたまま、ビートルズを聴いたり、奏でたりしていくのだろうと覚悟している。だから39歳にして聴く「レット・イット・ビー」は、少年期に味わえたのとは別種の切なさを宿しているのだ。

市民ミュージシャンとして年を重ねること。それは幸せになることでもなく、不幸になることでもなく「感情の形」を、否応なく作りかえていくことなのかもしれない。切なさの形が変わっていくだけでなく、歓びの形もまた変わっていくことを願う。変わっていきながらも残ることを願う。
  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい