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「この曲は何を伝えようとしているのか」それを考えた末に見た景色

ボブ・ディラン《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》の17分間がくれたもの

新型コロナウイルス感染症が世界的に拡大していた2020年3月27日、ボブ・ディランが突如として新曲を公開した。
「どうぞ安全に過ごされますように、油断することがありませんように、そして神があなたと共にありますように」という言葉を添えて。

ヒャッホーーーーゥイ!!
俺は叫んだね、心の中で。
ボブ・ディランの新曲だ!しかもオリジナル曲!

なぜ俺がここまで狂喜乱舞したのか、説明しよう。
実はボブ・ディランのオリジナル曲は、2012年リリースのアルバム《テンペスト》に収録されていたもの以来、8年振りとなる。
それ以降の8年間、アルバムは3枚リリースしてはいるが、どれもアメリカのスタンダードナンバーのカバーで占められており、まぁそれはそれで素晴らしい出来なんだけど、もう年齢的にも晩年はこういうスタイルで行くのかなぁと、ちょっとした寂しさも感じていた。

しかもその間の大きな出来事と言えば、2016年にディランはノーベル文学賞を受賞してしまっている。受賞理由は「米国歌謡の伝統の中に新しい詩の表現を創造したこと」だそうだ。
だが、俺はこの事が、さらにディランをオリジナル楽曲制作から遠ざけてしまったような気がする。
それ以降、ディランは良くも悪くも「先生」にされてしまった。
「きっと俺の歌詞は無駄に深読みされて崇められてしまうに違いない」
ディランがそう警戒してしまっても不思議はない。あの人ちょっと偏屈なところあるし。

というわけで、ボブ・ディランのノーベル賞受賞という出来事は、オリジナル曲(特に歌詞)制作を遅らせ、「ノーベル賞先生が来るからちょっと見てやるか」というミーハー野郎をたくさん作り、ライブのチケットが取りづらくなるというファンにとっては傍迷惑な現象しか生まなかった。
 
だが、その時は突然やってきた。
新型コロナウイルスに感謝する気など毛頭ないが、とりあえずそれがきっかけでディランのオリジナル新曲が聴けるわけだ。
ディランはこの曲について「以前に録音した曲」とだけコメントしている。いつ、どこで録音したのか。はたまたそれは嘘で、本当は今作って録音したのか。それはわからない。

その新曲のタイトルは《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》

アートワークは、セピア色の背景にケネディ大統領のモノクロ写真。そこに曲名のみが記されている。なんだか不穏な感じがするじゃないか。

「殺人」「ケネディ大統領」というキーワードが揃えば、内容はあれしかあるまい。
17分弱に及ぶ大作であるその曲は、やはり1963年のケネディ大統領暗殺について歌われている…らしい!としか言えない。英語わかんないからね。
 
それから一週間くらい経った頃だったか。
中川五郎さんによる日本語訳詞が公開された。

中川五郎さんなら信用できるぜ!かつて《ボブ・ディラン全詩集 1962-2001》で日本語訳詞を担当されていたお方だ。この本は俺にとって決定版だった。ご自身もシンガーソングライターでいらっしゃるから、そのへんのワードセンスも抜群なんだろう。これは期待できるぜ!

俺はすぐにその訳詞を読んだ。
 
『1963年11月、ダラスでの忌まわしい日
 とんでもなくひどいことが起こった日として永遠に語り継がれる』
 
そんな出だしから始まるその歌は、『大活躍で人気絶頂のケネディ大統領』を『白昼堂々一匹の犬のように撃ち殺した』様子を臨場感たっぷりに、時には単なる記録のように淡々と語る。
そして中盤以降ではケネディ大統領の事もちょくちょく挟みながら、アメリカにおけるその他の重大な出来事を絡めつつ進み、終盤はただひたすら、ラジオのDJに曲をリクエストするように、誰々のために○○を『かけておくれ』『やっておくれ』と、当時のヒット曲やそれ以前の名曲が記されている。映画、演劇の名前も出てくる。

歌詞を分析したり解釈したりする事は、特にディランについては野暮な事だ。実際本人もそういった動きを鬱陶しがっている。
ただ、ここ数年カバーアルバムしか出してこなかったディランが、こんなタイミングで、こんなギリギリスレスレみたいな曲を公開した事に、意味がないなんて事は絶対にないだろう。いや、本来ならこれはギリギリどころか完全にアウトだ。並のミュージシャンなら「不謹慎だ!」と袋叩きに遭っていたはずだ。「ノーベル賞先生」じゃなければ…。

俺はこう思っている。
ディランは初めて「ノーベル賞先生」という肩書きを、利用したのではないか?

音楽に限らず、クリエイターたる者、作品を作ったり発表したりする理由のひとつに「衝動」というものがある。
ディランは世界が認めた超一流のクリエイターだから、今回のコロナ騒動で、その衝動に突き動かされないはずがない。何も思わないはずがないのだ。
だから、たとえこの曲が何年も前に作られた曲であったとしても、今このタイミングで公開させる衝動にかられた。
「今これを世に出さなければならない。内容が不謹慎?誰に向かって言ってんだ。このノーベル賞が目に入らぬか!」と。

そうまでして、この曲を世に出したかった…
先生はこの曲を通して、俺たちに何かを伝えようとしている。

「深読み?するがいいさ。俺は確かに、この曲にお前へのメッセージを込めたぜ」

ディランがそう言っている気がする。
あのしゃがれた声が、風に吹かれてやってきたようだ。

こうしちゃいられねぇ!
俺はもう一度曲を聴き、歌詞を(訳詞だけど)読み込んでみた。
                 
わからねぇ…
わからねぇよ、先生!

ボブ・ディランが大曲《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》に込めたメッセージは、結局わからないという結論に達した!

ここまで何かを期待して読んでくれたみんな、ごめんよ。
俺にはわからなかったぜ!!!!

あまりにも乱暴な終わり方だが、そういう事になってしまった。
 
ちなみに《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》の公開から三週間後には《I Contain Multitudes(アイ・コンテイン・マルチチュード)》を発表。そのまたさらに三週間後には《False Prophet(偽預言者)》が発表された。
そして2020年7月8日、それら3曲を含んだ全10曲からなるCDアルバム《Rough And Rowdy Ways(ラフ&ロウディ・ウェイズ)》がリリースされ、今それは俺の手元にもある。

ここまでの一連の流れ。信じられないペースだ。
やはり、本当にディランは何か大切な事を伝えようとしている。それは結局わからなかったが。

CDを買ったと言っても、最近はCDそのものを再生して音楽を聴く機会は減ってきた。CDを手に取るのはパソコンに取り込む最初の一回だけで、あとは携帯音楽プレーヤーを使ってイヤホンで聴いている。聴く場所は圧倒的に家の外が多い。

ある日、まだ発売間もないこのニューアルバムを聴きながら歩いていた。
自宅からほど近い、ゆるやかな坂を登りきったくらいの場所で、坂の下を見るようなかたちで立っていた時の事。梅雨の晴れ間だった事もあり、空気は湿って蒸し暑くはあるが、目の前には青空が見える。
その坂道は路線バスも絶えず行き交うようなこの辺りでは主要な道路で、休日には車が渋滞する事もある。交通量の割には歩道が狭く、自転車がすれ違う時には難儀したりする。

そんな景色の中で、アルバムの最後を飾る曲《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》がイヤホンから流れた。

自然発生した穏やかな風のようなピアノのイントロから、歌のような語りのような、ディラン特有の韻を踏んだ言葉が心地よく響く。
 
「死だ・・・」
 
突然、ただそれだけが頭の中をよぎった。
ディランがこの曲に込めたメッセージがどうという事ではなく、この曲が流れていた17分の間、ただ「死」について考えていた自分がいた。「死ぬ」という事ではなく、「死そのもの」について。
青空が見えたからかもしれない。人は死ぬと「お空へ行く」と言うし。
 
『大活躍で人気絶頂のケネディ大統領
 絶好調の日は死ぬのにももってこいの日
 生贄の子羊のように屠りの場へと引きづり出される
 彼は言った、「ちょっと待っておくれ、みんな、わたしが誰だかわかっているのか?」
「もちろんわかっているよ、あんたが誰だかみんなわかっている!」
 そして彼らはまだ車に乗っていた彼の頭を銃弾で撃ち抜いた』
 
『男がまだ逃げているうちに撃ち殺すんだ、さあ、やれるうちにあいつを撃ち殺すんだ
 目に見えない人間を撃ち殺せるかどうか確かめてみるがいい』
 
『いったい何が真実で、それはどこに消え去ってしまったんだ?
 オズワルドとルビーに聞くがいい、彼らは知っているはず』
 
『自由よ、ああ、自由よ、わたしのもとへ
 こんなことは言いたくないけど、ねえ、死んだ者だけが自由になれるんだよ』
 
『彼らは彼を一度殺し、それからもう一度殺したんだ
 いけにえの人間のように彼を殺したんだ』
 
『わたしのために曲をかけておくれよ、ミスター・ウルフマン・ジャック
 ストレッチのキャディラックに乗っているわたしのためにかけておくれ
 あの「早死にするのは善人だけ」をかけておくれ』
 
『トム・ドゥリーが絞首刑になった場所へとわたしを連れて行っておくれ
「セント・ジェームス病院」をかけておくれ そしてジェイムス王の宮廷
 忘れないでいたいのなら、名前を書き留めておく方がいいよ』
 
『「どうか誤解されたりしませんように」をかけておくれ
 アメリカの大統領夫人のためにその曲をかけておくれ、彼女はとても落ち込んでいるんだ』
 
『ほかの曲をかけておくれ、「道づれにされて死ぬやつ」を』
 
『謎の男のために「ミステリー・トレイン」をかけておくれ
 根っこのない木のように倒れて死んでしまった男
 その曲を聖職者のためにかけておくれ、その曲を牧師のためにかけておくれ
 その曲を飼い主のいない犬のためにかけておくれ』
 
『アルカトラズの鳥男のために何かやっておくれ
 バスター・キートンを上映しておくれ、ハロルド・ロイドを上映しておくれ』
 
『「ベニスの商人」をやっておくれ、「死の商人」をやっておくれ』
 
『闇と戯れれば、やがてしかるべくして死が訪れる』
 
『「血まみれの旗」をかけておくれ、「この上なく卑劣な殺人」をかけておくれ』
  
この曲は、ケネディ大統領暗殺を軸としながら、「死」について考えさせられるあらゆるキーワードが並べられている。

予期せぬ死、覚悟の上での死、悔やまれる死、そうでない死、肉体の死、忘れ去られるという意味での精神の死…

生きている人の数だけ、様々な死が存在する。
今、すぐ横を通り過ぎた車が1秒後に事故を起こし、誰かが死ぬかもしれない。
それがどんなかたちの死であれ、生きている限り、それは必ず訪れる。
人はこの世に産まれ落ちた瞬間から、いつか来る死を約束されている。産まれてきて「おめでとう」と同時に、「さようなら」へのカウントダウンが始まっている。

だが、死を意識して生きている人は少ない。それが宿命である事は誰しもわかっていながらも、必ず来る死の存在を忘れて生きてしまう。
 
「memento mori(メメント・モリ)」という言葉がある。ラテン語で「死を想え」という意味だ。意味というより、思想というか、感覚に近い。

例えばケネディ大統領暗殺や、この度の疫病騒ぎ。人は死の影を察知したとき、改めて実感する。「死はいつもそばにいる」事を。
それに肩を叩かれたらもう「さようなら」だという事を。

人はいつか必ず死ぬ…
「だったら全部投げ出してもいいや」と思うのか、「だから後悔のないように精一杯生きよう」と思うのか、それは人それぞれだと思う。

もし、死というものに引力があるのなら、全力でそれに逆らって生きたいと思う。少なくとも俺は。
人生いい事ばかりじゃないけど、やっぱり死ぬのは痛い。
 
ボブ・ディランがこの曲にどんなメッセージを込めたかなんて、もうどうでもいい。
ただこの《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》が流れた17分間、俺は死を想った。考えてさせてくれた。思い出させてくれた。

17分は一曲としては長い時間だが、一生の中では一瞬だ。
この曲は、ほんの束の間「死を想う」事が出来る曲だ。ただそれだけだ。「だからどう」という事は聴いた者それぞれが考えればいい。

もうそれが答えでいいと思っている。
 
※『』内は、中川五郎氏による ボブ・ディラン《Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)》の日本語訳詞より
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