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「人は死ぬ時に一番輝く」

「死」に触れた時聴こえてくるBUMP OF CHICKENの音

知っている人が亡くなった。
  
私だけが知っている人ではない。おそらく、ものすごく多くの人が知っている人だ。そして私はこの人のことを中学生の時から知っているのだけど、知らない。
 
こんな時、「知っている」という言葉は一つの意味しかないけれど、「知らない」という言葉には二つの意味があるのだと気づかされる。その人について顔も声も姿かたちも本当に何も「知らない」ということと、その人のことの顔や声や姿かたちは知っているけど「知らない」ということ。
 
自分が年を重ねていくのと並走していくように「知っている」身内や「知っている」知り合いや「知っている」芸能人の死に触れる機会は積み重なっていく。そんな時、血の繋がった身内も、尊敬の念すら抱いている知り合いも、心の底から信頼し合っている友人も、会ったことも話したこともない芸能人も、同じ「他人」であることを突き付けられ得体の知れない虚しさのようなものに襲われる。自分が自分以外の人を本当の意味で「知る」ことなど永遠にない。どれだけ同じ時間を共に過ごそうとも、どれだけ互いに胸の内をさらけ出そうとも、自分以外は全員「他人」であるという事実は揺るがない。私は自分以外の誰のことも「知る」ことができない。
 
そんな「他人」の死に触れた時、自分の中で何かを思うことすらはばかられてしまう瞬間がある。心の内でその人の姿かたちを思い浮かべ、遠くに置き去りにしてきた思い出を手繰り寄せ、もう直接届くことのない感謝や謝罪を告げる時。自分がひどく残酷で無慈悲で偽善的な人間であるかのように思える。毎日その人の病床に通っているでもない限り、死というものはいつだって突然訪れる。1時間前、昨日、1週間前、1ヶ月前、その人のことなど考えていなかった自分が「亡くなったから」という理由でその人の声や姿かたちや思い出を手繰り寄せてしまうことにどこか嫌気がさす。心の内に溢れるそれらを、なぜ直接伝えられる内に伝えておかなかったのだろうか。「失ったから」という理由でしかその大切さに気付くことができない自分に嫌気がさす。それは、失う前でも気づくことができたのではないだろうか。その大切な存在に、もっと何かできたのではないだろうか。
 
そんなあてのない自問自答を繰り返し心がざわめいてしまう時、必ず心の奥底から鳴り響いては全てを鎮め、あるべき場所へふわっと着地させてくれる曲がある。
 
BUMP OF CHICKEN「supernova」
 
この曲に出会った当時、私は14歳だった。砂に埋まった青い砂時計のジャケットのCDを手に取った瞬間の景色は、今も何故か鮮明に覚えている。当時は今と比べると多種多様の音楽雑誌があった。CDショップと書店が併設されているその場所で、友達と肩を並べ「BUMP OF CHICKEN」という文字列が表記されている雑誌全てを黙って片っ端から読み漁る。その後、自転車をノロノロ漕ぎながらああだこうだと感想を語り合いつつ家路をたどる。しかしこの曲に込められた想いを文字越しに知ったその時だけは、なぜか自分の口から思うように言葉が出てこなかった。その痛烈なたった一言は、思春期真っただ中の私の何かをキャパオーバーさせるには十分過ぎた。
 
今となってはもう15年前のことで、一体どの雑誌でそう言っていたのか、はたまた雑誌ではなくラジオでの発言なのか、もしくはそのどれもで藤くんは同じような発言をしていたのか、思い出せないので細かい事は追求しないことにする。
  
「人は死ぬ時に一番輝く」
  
「supernova」とは超新星のことであり、超新星とは「星が寿命を迎えその一生を終える時、今までで最も大きな爆発を起こし光を放つ現象」のことである。
 
星は生まれた時に蓄えている物質の量により大体の寿命が決まっているらしい。自分自身を燃やしエネルギーに変え光り続け、全てを燃やし尽くして死ぬその時に最も輝く。それは人間も同じようなことだと藤くんは言った。
 
《熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事
 鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事
 君の存在だって 何度も確かめはするけど
 本当の大事さは 居なくなってから知るんだ》
 
失わなければ《本当の大事さ》は分からない。それは究極の真理なのだと思う。逆を言えば、何かを失わずして《本当の大事さ》を語ることなど所詮戯言でしかないのかもしれないと思わされる。
 
《君の存在だって こうして伝え続けるけど
 本当のありがとうは ありがとうじゃ足りないんだ》
 
この曲のサビには歌詞がない。本当に大切なことは言葉にならない、本当のありがとうは「ありがとう」という言葉にもならないという究極的なことが表現されているような気がする。ライブでこの言葉にならない何かを声にする時、まるでもう叶うことのない誰かとの再会を果たしている感覚すら覚える。
 
《僕らの時計の中 ひとつだけでもいいから
 本当を掴みたくて 本当を届けたくて》
 
人生という《時計》は必ず止まる日が来ると決まっている。そして「死」は悲しいものだけどその人が最後にくれる贈り物のようなもので、喪失と引き換えに「空っぽ」を受け取ることができるのだと藤くんは言った。そこに血の繋がりなどはきっと関係ない。自分という《時計》が止まる前に様々な「空っぽ」を受け取りまたそれを《本当》として誰かに届けることができたなら。そして自分がいなくなった時、誰かの心に「空っぽ」が残るのなら。きっとそれは藤くんにとって自分とリスナーとの理想的な関係のひとつではないかと想像する。そうしてその「空っぽ」を人と人、世代と世代で引き継いでいくことは人間としての生きる意味のようなものではないかとすら思えてくる。
 
《歳を数えてみると 気付くんだ 些細でも歴史を持っていた事
 それとほぼ同時に 解るんだ それにも終わりが来るって事
 君の存在だって いつでも思い出せるけど
 本当に欲しいのは 思い出じゃない今なんだ》
 
あまり真剣に考えてしまうと深みにはまってしまいそうになるのであまり真剣に考えたくはないのだが、今自分が見ている星は遠い過去のものである。光は1秒で30万km進む。そうして何年、何十年、何百年かけて進んできたその光を今目の当たりにしている。もちろん、超新星を目の当たりにしたその時、既にその星は存在しない。それはきっと人間も同じである。最後の贈り物を受け取るその時、もうその人はいない。そんな時、人はどれだけの数の《思い出》よりも《今》というたった一つのことが尊いということを知るのだろう。
 
《君を忘れた後で 思い出すんだ 君との歴史を持っていた事
 君を失くした後で 見つけ出すんだ 君との出会いがあった事
 誰の存在だって 世界では取るに足らないけど
 誰かの世界は それがあって 造られる》
 
喪失によって自分の心にできた「空っぽ」に気づいたその時、《本当の大事さ》を知ることができるのだと思うし、もうそれしかないのだと思う。
 
《君の存在だって 何度も確かめはするけど
 本当の存在は 居なくなっても ここに居る》
 
これからは、それがその人の存在をいつだって教えてくれる。関係性や親交の深さによって、それは大きかったり小さかったり、浅かったり深かったり形も人それぞれだろう。それを無理に埋めたり消したり忘れたりしようとせず、ずっと心の中に残しておいたらいい。
 
《僕らの時計は 止まらないで 動くんだ》
 
その「空っぽ」がある限り、その人は自分の中で生き続ける。
 
割れた青い砂時計の上の部分からは砂が漏れ出し、砂漠の一部と化していく。それでも、下へ下へと流れ続け時を刻み続ける砂粒がある。15年前は考えもしなかったが、今ならその砂粒が何なのか、なんとなくわかる気もする。
 
「亡くなったからその人のことを思い出す」というのは、きっと残酷なことでも無慈悲なことでもない。それが最後の輝きによるものだとしたら。贈り物を受け取った証だとしたら。その「空っぽ」という名の最後の贈り物をただ心に留めて生きればいいと、そう思うのだ。
  
※《》内の歌詞はBUMP OF CHICKEN「supernova」より引用
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