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誰かのために凛然と生きる歌姫

あいみょんと椎名林檎を聴く覚悟

三浦綾子さんの小説「塩狩峠」を読んだことを、いまに至るまで後悔している。

「後悔」などというと言葉が悪すぎる、そう言う人もいるかもしれないけど、私は決して誇張していない。この小説を読まなければよかったと、激しく悔いているのだ。何百冊もの「純文学」を読んできたけれど、これほどまでに悲しいラストシーンが描かれる、そんな物語を他には思い付かない。読み終えたあとの数日は、まともに食事をとることができなかった。

「塩狩峠」を読もうと思い立ったのは、文庫の帯に(敬愛するアーティストの)椎名林檎さんの推薦文が書かれていたからだ。そして(大好きだった)亡き祖母の書棚に、たしか同名の単行本があったからでもある。私は椎名林檎さんと祖母という、自分の感性や価値観に大きな影響を与えてくれた二人と、時空を超えて「感動」を共有したかったのだ。

しかし、もたらされたのは「感動」などという生やさしいものではなかった。

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「塩狩峠」は、ある男性の生涯、信じるものや愛する人のために歩んだ道、それを描いた作品だ。その「信じるもの」が何なのかは、ここに書くことを避けたい。そして「愛する人」を愛しぬくことができたのか、それを書くことも避けたい。ともかく私にとって「塩狩峠」を読むことは、「軽はずみに触れてはならない芸術」というものがある、そういったことを思い知らされる壮絶な体験だった。

本当に余計なお世話だろうと思うし、三浦綾子さんの本が売れてほしいとは思うけど、単に「椎名林檎さんのファンだから」という理由で「塩狩峠」を読もうとしているのなら、少し立ち止まって考えてみたほうがいいような気が(個人的に)します。お気をつけ下さい。

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もし椎名林檎さんが「塩狩峠」の主人公のような志をもって、つまり何らかの信条を貫く覚悟を固めて、そして愛する人を守り抜くために歌いつづけているのだとしたら、その楽曲を聴くのにも、やはり「覚悟」のようなものが必要なのではないかと思う。椎名林檎さんが悲しい読書体験を、ご自身の活動に昇華させているのだとしたら、その作品群は悲壮な、安易に立ち入るべきではない「聖域」であるとさえ言えると思う。

どの作品の、どの箇所に「塩狩峠」の影響が表れているのかは、もちろん容易には知りえないことだし、椎名林檎さんは明るい歌詞や軽やかな旋律といったものも生み出している。それでも豊かなディスコグラフィのどこかに、きっと「それ」は潜んでいるはずだと、いま私は考えている。といっても私は、椎名林檎さんの熱心なファンでありながら(シングル以外の曲や東京事変の曲も愛聴している)、今のところハッキリと「これだ」を思える楽曲は見出せていないのだけど。

いつか、それを見つけたくもあるし、見つけるのが怖くもある。私にとって椎名林檎さんの新譜を追いつづけることは、そして旧作を聴き返すことは、いまや「娯楽」とは程遠い、気力や体力を削るような試みになっている。

それでも思うのだ、何かを削ぎ落されなければ、私は真なる自分になれないのかもしれないと。そんなことを思えるようになったという意味では「塩狩峠」を読んだ意味、椎名林檎さんの曲を聴きつづけてきた意義は、きっとあるのだろう。

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椎名林檎さんが(恐らくは)誰かのために、命を燃やすように歌い続けているように、あいみょんもまた心のなかに、同種の炎を宿しているのではないかと思う(あいみょんが「塩狩峠」を読んだことがあるのかは知らない)。あいみょんの楽曲群には、心を躍らすような開放的なものや、聴き手の体を揺らすような痛快なものも(私が言うまでもなく)ある。

それでも、あいみょんの活動の根底にも、やはり「誰かのために信条を貫く」というような、悲壮な覚悟があるのではないかと私は思う。「ハルノヒ」や「君はロックを聴かない」といった、ポップな曲を聴くことから「あいみょんのファン」になった私は、そのメジャーデビューシングル「生きていたんだよな」が、心を切り裂くような、エッジのきいたものであることを知り、以来、あいみょんの新曲を聴く時には居住まいを正さねばと思うようになった(同じ鑑賞法を他人様に強要したいわけではない、私にとって「生きていたんだよな」を聴いた衝撃が、それほどに大きかったということである)。

あいみょんが「1発目」に選んだテーマは、なんということか、自死である。ある場所から身を投げた人、その心中を推し量るような曲を歌うことを、あいみょんは「旅立ち」で選んだのだ。あいみょんはその気になれば、メルヘンチックな旋律や、瑞々しい希望を宿した詞といったものを生み出せるアーティストである(それは今日につづくまでのキャリアが証明しているはずだ)。

それでも、あいみょんは悲しい、どこまでも悲しい、そんな曲を歌うことから、その本格的な活動を始めたのだ。

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あいみょんが実際に「その現場」を見たのかは分からない。あるいは日々、届けられるニュースを見聞きするなかで、想像力をはたらかせて生々しい「ひとつのドラマ」を生みだしたのかもしれない。それでも(つまり「生きていたんだよな」が実話だとしても虚構だとしても)あいみょんが亡くなった人を「抱きしめた」のは確かである(抱きしめた、というのは比喩表現だけど、そのくらいの強い言い方が合うように私は感じる)。

<<精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ>>

自死というのは「遺された人」に強いショックを与える行為である、それは間違いのないことだ。それでも私たちは、彼ら彼女らを(命を絶った人たちを)咎める資格を持つだろうか? 

そういう、人類が抱えつづけてきた、今後も抱えつづけていくのであろう問いに対して、あいみょんは(若きアーティストは)正面から向き合った。身を投げた人に<<勇気>>があったのだと称えつつ、こうも歌う。

<<泣いてしまったんだ>>

あいみょんは、その人を責めはしなかった、むしろ抱擁した。それでいて、その死を悼んだ。あいみょんは「誰か」の亡骸、かすかに残された温もり、それを腕に感じつつ、その腕をもって今日もコード・ストロークを繰り返しているのではないだろうか。

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私は、椎名林檎さんとあいみょんが「生きてい『る』んだよな」と思う。

この世界にある悲しみから目を背けないこと、誰かの痛みを引き受けながらも歌うこと、時には微笑みさえすること。これ以上に「命」を感じさせる歩みはあるだろうか。私にはお会いしたこともないお二人の、その血潮の熱さ、心の熱さ、それを感じとることができるような気がする。

そうしたものを感じとれるのは、私が生きているからだ。そして悲しめるのも、やはり生きているからだ。時に食欲をなくせるのも、いつか何らかの形で命を失うことになるのも、私が生きていること、その証に他ならないのではないか。

時にダメージを負う覚悟さえも抱きかかえて、二人の歌姫の歩みを、自らの拍動が止まる日まで、真剣に追いつづけていこうと思っている。

※<<>>内は、あいみょん「生きていたんだよな」の歌詞より引用
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