4143 件掲載中 月間賞毎月10日発表
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

必要ないでしょう。大丈夫。

BUMP OF CHICKENが戦い続けろという理由

子供の頃、とりわけ幼稚園から小学校の頃の自分を理想視していて、そのセルフイメージに囚われ続けている人間というのは少なくないだろう。かく言う私も油断しているとそうなってしまうし、昔から一部の芸術には、少年期を神格化してそこに回帰しようとする傾向がある。
今から語る、BUMP OF CHICKENにはその傾向がない。過去のインタビューや「大きくなるんだ 伝えたいから/上手に話して 知って欲しいから」(魔法の料理 ~君から君へ~)というフレーズからもわかるように、藤原基央にとって少年期というのは理想の時代ではなく、「(楽しい思い出もたくさんあるが)人と繋がるためのスキルが足りず、人生の中でも孤独だった時代」なのである。
これは考えてみればもっともなことで、マターナルな環境下にある子供はまだまだ自我すら確立されていないし、世の中の様々な法則や不文律についても知らないのだから、自分の力だけで他人と繋がれていたはずはないのだ。
私達は大人の社会で躓く度に、つい「あの頃は上手に生きていた」と錯覚してしまうが、仮にそうだとしてもそれは私達が生き方上手だったからではなく、まだ競争社会に投げ出される前で無条件の承認を求めるのが許されるポジションだったからである。
その点、藤原は少年期の自分の非力さに自覚的である(否定的ではない)。また、彼は幼少期に限らず、過去のことを「失われた美しい時」としてことさらに美化することはない。
「強く望んだら望んだ分だけ 隠したナイフは鋭くなるもんさ/僕が笑ってたあの日の夕焼け/隠したナイフでもう一度とりもどせ」(ナイフ)に端的に表れているように、藤原のスタンスは失われてしまった夕焼けに思いを馳せるのではなく、それを取り戻すナイフを磨くというものである。穿った見方をするならば、あの日の夕焼けそのものにはそれほどこだわっていないとも言える。あの日と同じように胸が熱くなれば、見ているものが朝焼けでも構わないのだ。尖らせたナイフの輝きが夕焼けを上回ることだってあるかもしれない。
「あの」BUMPが「生きるのは最高だ」だなんて!と物議を醸し、藤原自ら「あれは皮肉です」と注釈をつける羽目になったrayの中でさえも、「晴天とはほど遠い 終わらない暗闇にも/星を思い浮かべたなら/すぐ銀河の中だ」と述べており、とてもそんな風には思えない精神状態にあってもそう信じたがっていることがわかる。
これは私の想像になるが、藤原基央は幼少期、少年期、青年期と、その時々の旨味と苦味をリアルタイムで味わって来たのではないかと思う。だからこそ特定の「帰りたい」時代というのがないのだ。
もう一歩踏み込むならば、思い出すだけでその頃に帰れる充分なリソースが各時代にある、とも言えるかもしれない。端的に言えば幸福だったのだろう。メンバー全員が幼馴染なので、ずっと同じノリでやれてきたことも大きいに違いない。
今を追いかけていたら今に満足できる大人になっていた、というのはなかなか「理想」的な成長だ。未来に駆り立てられてもいないが、過去に支えられた彼らの姿勢は確かにEscapeではなくGoである。
BUMPの曲を聴く度に思うことがある。それは「藤原基央は冷めている」ということである。
情熱がないという意味ではない。この世に感情だけで問題が解決することはないこと、くわえて感情というものが非常に曖昧で頼りないものであることを熟知した人物であるという意味だ。そして、感情の移ろいやすさを強みに変えているミュージシャンであると思う。
BUMP OF CHICKENの強み、それは現実と理想を比較して一喜一憂するのではなく、理想に現実を近づけようとするロジカルな逞しさである。
「君をかばって 散った夢は/夜空の応援席で 見てる/強さを求められる君が 弱くても/唄ってくれるよ」(Stage Of The Ground)「信号待ち 流れ星に驚く声/いつも通り見逃した どうしていつも/だけど今日はそれでも 嬉しかったよ/誰かが見たのなら 素敵な事だ」(Merry Christmas)「どうやったって戻れないのは一緒だよ/じゃあこういう事を思っているのも一緒がいい」(話がしたいよ)
これらの曲の登場人物は、こう歌った時点ではまだ散った夢を引き摺っているし、星を見逃したことを惜しがっているし、昔に戻れないことを悲しんでいるだろう。しかし「願いを込めて」こう思うことで感情の方がその願いに引っ張られ、いつの間にか本当に前向きな気持ちになっている。嘘が本当になるのだ。
私は本を読むのでも音楽を聞くのでも、このたった一行でがらりと気持ちが変わる瞬間を待っている。年のせいかストーリーにも細かい心理や情景描写にもあまり興味がなくなった。それよりも、それひとつでがらりと眺めが変わるスイッチのようなもの、それだけをただひたすらに求めている。
「自分にひとつ嘘をついた 『まだ頑張れる』って嘘をついた/ところが嘘は本当になった 『まだ頑張れる』って歌ってた」「ただの強がりも嘘さえも/願いを込めれば誇れるだろう 望めば勇気にもなるだろう」(バトルクライ)
誇大な嘘で騙したり騙されたりするほど豪胆でもない、世の中に信じられるものもほとんどない。しかしそれでも自分でついたその嘘だけは誰よりも強く信じられる。それは当の自分が「信じたい」と願ったものだからだ。
人は本当のものを信じるのではない。信じたいものを信じるのだ。藤原は以前、この不透明な時代になぜ希望ばかりを歌うのかと訊ねられ、「格好いいからだ」と答えた。満点の回答だ。ダサい真実より格好いい嘘の方が彼には価値があるのである。ただし、嘘のままでは駄目だ。
豊かさとは、ひとつの真実(それは多くの場合、希望よりも絶望の形で発見される)を見つけ出すものではない。より多くの理想や嘘を真実に変えるものだ。
「絶望の最果て 希望の底/勇気をあげる 鏡の前」(シリウス)
絶望の最果てと希望の底は同じものである。どちらも最後には喜びも悲しみもない疲労だけの場所に行き着く。そんな時に光となるのは、「信じられるもの」ではなく「信じたいもの」なのだ。
BUMPはしばしば、「宗教」と揶揄されることがある。それもそのはずで、彼らの音楽はリスナーに何か(対象がBUMPでなくても構わない)を信じる気力がなければただの綺麗事にしか聞こえないのである。
二十代の頃、「終わりのあるものしか信じられない。終わりのあるものしか生きていないから」と言っていた藤原は、四十を過ぎた今でもその生き方を変えていない。
「たった一度 笑えるなら 何度でも 泣いたっていいや」(sailing day)「一度でも 心の奥が 繋がった気がしたよ」(アリア)
見果てぬ永遠を望むよりも、たった一度でも確かな瞬間があったのならそれを大切にする。人生を生き抜くために必要なのは、このけして大袈裟ではない少しのポジティブさと、信じる心であると思う。
最近、透明飛行船がとても好きだ。
「ずっと平気なふりに頼って 嘘か本当か解らなくて/もっと上手に生きていましたか/飛行船が見えた頃の事」
「あの時どうした ほら思い出してよ」
「君は/ひとり こっそり 泣いたでしょう/帰り道 夕焼け 宮田公園で/なんか怖かったお社が/その日は心強かった」
「もう精一杯 精一杯 笑ったでしょう/皆も あの子も 笑っているでしょう/たまに本気で 泣いているでしょう」
「大丈夫 もう一回 笑えるでしょう」(透明飛行船)
この「大丈夫」の持つ、根拠があるようで実はない絶対的な安心感はすごい。一番の「大丈夫じゃなくて 当然の社会」というラインと合わせて、BUMP屈指の名フレーズであると思う。
私はひねくれ者なので、こんな美しい記憶は実際には保持していない。しかしそこに感応する無垢さが自分の中にあるのを確かに思い出す。
私はこの曲を聴く度に、思い出というものの持つ健やかなパワーを感じるのだ。しかし思い出は理想と違い、想像やノスタルジーだけでは本当には手に入らない。
「何を背負っても 自分のものじゃないなら/どれだけ大事にしても偽物だよ でも大事な事は本当だよ」(arrows)
「易々と気は許さないさ 紛い物ばかりに囲まれて/まぶたのこちら側で ずっと本物だけ見てる」(ディアマン)
このふたつのフレーズの違いは象徴的である。目を開いている人間には優しさを、閉じている人間には厳しさを。
BUMP OF CHICKENは私達に、答えを出せとは言っていない。「考え続けろ」と言っているのだ。
たとえ愚かでも確かに戦っていること、それこそが大丈夫である唯一の理由だから。
  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい