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おかあさんといっしょ

ヒグチアイの傑作「東京にて」が思い出させてくれた音楽の日々と時代と

ヒグチアイの"東京にて"を毎日聴いている。一日の始まりに聞く。夕方にもう一度聴く。この歌声は寝る前にぐっと効いてくる。何回聴いても、毎回聞こえかたがちがう。最初に聞いたとき、唄い始めの柔らかい声と淡い情感に、記憶をたぐりよせるように、懐かしい日本の歌を想った。

また何度も聴いているなかでポピュラーミュージックの歴史に残る時代を生きた歌い手やシンガーソングライターの名歌手の感触を想い起こした。たとえばサンディ・デニーの"No End"や"Full Moon"という歌の、ニュアンスに富む表現力、ジュディ・シルの"The Kiss"を初めて聴いたときのような、澄み切った美しさ、ジョニ・ミッチェルの"California"を繰り返し聴いているときのような、凛としていてしなやかな発声、ヴァン・モリソンの"Tupelo Honey"を聴き進めていったときの、自由さと抑制のせめぎ合いほとばしる暖かな情熱、どんな例えも嘘でどんな例えも本当のように、そのどれもを感覚として広げて繋がりあったところに東京があって、この美しい歌い手は、そこから何処へも繋がりうる空へと向けて命を捧げていた。
くるりの"Remember me"を何度聴いても同じような涙と感情が発露するように、"東京にて"には繰り返さずにいられない何か大切なものがある。Aimerの"蝶々結び"を初めて聞いたときの、魂への純真が揺らめいたときのように、そのすべては螺旋のように降り落ちてきた。これは記憶と時代のスタンダードになる。

ヒグチアイさんの歌を聴くのは初めての事だった。ヒグチアイという歌手の存在を知ったのは、この音楽文を通じてのことだ。素敵な書き手のみなさんが心に残る美しい文で彼女のうたを取り上げていた。いつもなら、ここで初めて知る歌い手やバンドの音楽を一応は聞いてみて、大体はそんなにも関心をもたないのだけれど、今回は大いに違った。心震わされる唄に出逢うのは久しぶりの事だ。初めて聞いて自然にも涙が、すーっと流れていった。寝ころがっていた僕は部屋の天井を見つめて離さなかった。いつも見ている天井に張り付いた常夜灯のオレンジと六角形の輪郭を、見つめつづけて、そのたった4分間の永遠を、これからの生きる一瞬に活かすことを誓った。美しい歌い手に出逢えた。その事がうれしい。この時代を生きていてよかった。時代を描いていた。心があった。存在する人の想いを在り在りと感じることができるその表現力に、これからの未来を信じてもいいと思えた。この曲"東京にて"が、時代の詩になることを願う。僕はヒグチアイの音楽をこれからも聴いていくと決めた。

あなたにも聴いてほしい。心血を注いで作り、そこに込めた努力をその形としては見せずに、決して力むことなく、柔らかな詩情と静かなる熱さで存分に、東京を想い描いている。この歌のなかで表現されている唄の巧みさ、その技術力、フレージングセンスに、いったいどれほどの研ぎ澄まされた感覚を見いだすことができるだろう。ヒグチアイさんがこれまでに培ってきたものの全力と本気を感じる。たとえば同じ歌詞を繰り返す部分でも、繊細に、強く、軟らかく、その表現を変えていくのがはっきりとわかる。彼女の声は音楽の展開を劇的にも静かにも動かせて行く。その声でシンフォニーが奏でられるような感覚。そうして、唄をバンドの演奏に合わせているのでもなければ、決して歌い手に合わせている演奏というわけでもない音楽の空間の力と魔法がよく利いている。編曲が如何に曲にとって大事なものになるかということを受け止める。ふんわりと柔らかな夕べの電子音も、月明かりのピアノも、夢見のささやかなストリングスも、夜明け前の部屋灯りのベースも、朝陽みたいに強く心地いいドラムも、どれにも無駄がない。特にピアノとドラムの展開力に耳を引き付けられる。曲の後半部分のリズムを集積した演奏が美しい。
唄が歌詞を終えて、言葉にならないコーラスに転じていくとき、その哀しさ切なさ、痛み弱み、淋しさ、寄る辺ない救いへ手を伸ばす感情は、決意のようなものへと着地を求めているようだ。何度聴いても、「生きる」という言葉がここにはあるように思える。
これが時代に埋もれてしまってはいけない。埋もれさせてしまったらだめだ。何度も、何度も聴こう。そして毎度違うように聞こえるだろう。それは聴いているあなた自身が生きている証だと思う。それなら僕もちゃんと生きられているんだろう。
 
ぼくら、わたしたちは、時代がこんなふうに変わってしまうとは思ってもみなかった。去年には普通の生活をしていたのに。ウイルスが蔓延して、みんながマスクを着けなくてはいけなくなって、人の集まりは控えるように促された。感染への不安。死が近くにあるかもしれない。いつだれが死んでしまってもおかしくないという状況。近くにいる人を危険にさらしてしまう感染の怖さ。家族も離れてしまうかもしれない。親しい友人も愛しい恋人も。尊敬する遠い先輩も頼もしい身近な後輩も。思い出のあの人だって。連絡することはできても会える機会がなくなった。連絡のない人たちとはさらに疎遠になるかもしれない。思い出のまま消えてゆく。思い出が消えてゆく。そんなこと思いたくない。

「生きる」
この三文字の言葉がいったいどれくらいの希望になるだろう。ヒグチアイの"東京にて"の歌、音楽には、それが柔らかさのなかで頼りある決意をもって示されている。先の見えない、いまの社会の状況には、どの解決策、方法、アイデアもたぶん不安定だ。経済の安定、日常の回復、今のところどれも明確な答えを導き出せてはいないかもしれない。ただ忘れてはいけないのは、全力で生きることへの決意を、強く顕さなくても幾らかの力を抜いて、しなやかに、圧力、空気を抜いて、たとえ見えなくとも届かなくとも、月に手を伸ばすような、願いと希望を持とうという模索だと思う。それを描いているのがこの曲なんだと思った。この時代の音楽になる素晴らしい歌だと確信する。
しかし、ヒグチアイさんのこの曲自体は実はウイルスの蔓延よりも以前に作られていたらしい。正式に発表されたのはこの2020年夏という事だけれど、そうであったとしても、何事もなく今まで通りに時が進んでいて、この唄がこのように表現されていたかどうかはわからないと思う。今だからこそ、この時、この時代、この瞬間だからこそ、こんなにも素晴らしい力を放っているのかもしれないと僕は思った。そうだとしたらこの厳しい時代にも意味があるように思えてならない。彼女自身も音楽家として時代の不安を抱えているだろう。不安であるからこそ、それがこの曲に光る力を与えているかもしれない。この苦しさのなかで、音楽は衰退していくんじゃなく、もう一度光を取り戻すんじゃないかと信じる。ヒグチアイさんを信じる。

"東京にて"の曲が収録されている、ヒグチアイのベストアルバム「樋口愛」をCDで買った。これを読むあなたにも買ってほしい。勧めたい。もしもこれがアナログ盤で発売されたら僕は2枚買うと思う。もしも"東京にて"がシングルのレコードとして7インチ盤で出たら3枚は買う(ほんまかいな)。もっと言うなら音質をより鮮烈に効かせる12インチ盤シングルのレコードで出したら良いんじゃないかと思っている。近頃は何が何でも配信の時代だ。その手軽さはいいけれど、手元に存在ある御守りのように大事に置いているのがいい。安心が出来る。そして音楽は良い音で、空間全体で響かせたいというのもある。ライブもいいが、スタジオ録音で緻密に完成された世界観をより自由な想像力で聴いていたいとも思う。そういう考えも時代錯誤になってしまったのか。ただどのような媒体で聴こうともこれはまちがいのない傑作曲だ。アルバム全体を通して聴いてみても、この曲に表現されているヒグチアイの歌心は一味ちがう。そして"東京にて"はアルバムを締め括る最後に置かれてもいるのだ。「樋口愛」というベストアルバムはベスト盤であるにもかかわらず、彼女の代表的な美しい曲"ラブソング"は収録されていない。どうしてなんだろうと想像した。もしも"ラブソング"がアルバムに入っていたら、そのメッセージの強さの前で"東京にて"はそれに隠れてしまうかもしれない。あくまでも、伝えたい曲、"東京にて"なんじゃないか。そう思えば彼女自身にとってこれが今、大事な曲であるのだと明らかに感じられるのではないか。

今聴かないといけないと僕は思う。あと何年後ではいけないんだ。だからこそ、ここにそれを伝えたい言葉で綴っている。

ライブの自由を失なっている音楽家を支援するためには、聴き手が何かを支援する必要がある。音楽をタダで聞いているのが当たり前になるのなら音楽はダメになってゆく。ヒット曲を持っていて既に多くのファンを獲得している不動の人気ミュージシャンならまだ幾らかの経済的安定があるだろう。ヒグチアイさんはこれからの時代の人だ。時勢が順調なら成功は目の前だったはずだ。今の状況は、くやしさをバネにしてなんていう努力にも限界があると思うほど深刻であるのだと思う。表現力を磨き開花させてきた真摯なる音楽家ヒグチアイさんを支えていくのは今、この音楽を聴き救われていくあなただと思うのです。そして感動したならそれをいまだ知らない人たちに言葉で伝えてください。音楽を聞かせてあげてください。

歌詞の意味だけで希望を与えてはいない。言葉の意味は探らなくとも分解して受け止めなくとも、"ことば"は声とその音楽とともに響くのだと感じている。こういう歌を唄えるひとは稀だ。
 
"東京にて"に奮わされた僕は、その当日にも素早く、「ヒグチアイを広げる作戦」の一環として、まずこの曲を、お母さんのスマートフォンのサブスクの音楽アプリに勝手にダウンロードしておいた(第一ミッション完了)。"ラブソング"も入れておいた(作戦成功)。大体にして、お母さんのサブスクの音楽リストに入っている曲は以前から僕が揃えてきたのだった。自分が好きな今の時代の歌を選んでいって、リストに入れても良いかどうか訊いてみて、おおよそは気に入ってもらえていると思う。たとえば、あいみょん"マリーゴールド"、BUMP OF CHICKEN"fire sign"、くるり"Remember me""奇跡"、椎名林檎"旬"、東京事変"落日"、米津玄師"アイネクライネ"、宇多田ヒカル"花束を君に""真夏の通り雨"、竹内まりや"人生の扉"、Aimer"蝶々結び"、なんかを入れている。最近はスピッツの"魔法のコトバ"という歌を気に入っている。"魔法のコトバ"のイントロが流れだすとお母さんは、僕の顔を少しだけ見ながら首を左右に振って、たのしそうにいっしょに唄っている。それはまるで少女が好きな歌を口ずさんでいる様に見えてしまう。目が合うと笑ってしまう。いつまでも女の子は女の子。70代の年齢になっても、新しい時代の音楽を問題なく聴いている母を敬いたい。けれどたまにおばあちゃんと呼んでいる。おばあちゃんと言うと、おばあちゃんゆうな!と返ってくる。おねえさんと言わないといけない。おもしろがっているけど、決しておちょくっているのではない。うちではいつも、毎週一度は晩ごはんに作ってくれる料理に、じゃがいもとキノコとベーコン、ブロッコリーを塩コショウで炒めたものにとろけるチーズをかけて焼く、通称ポテトのチーズ焼きというのがある。ごはんの時間にそれを大皿からよそって小分けにしてくれるとき、めずらしくこぼしていたので、僕はすかさず、ポテトをこぼすおばあちゃん、と名付けた。するとまた、おばあちゃんゆうな!という言葉が返ってくるおなじみのパターン。今度から音楽文のペンネームは、ポテトをこぼすおばあちゃんがいいかもしれないと思うと笑けてくる。くだらない名前をつけてはニヤニヤしている自分をたしなめたい。自分が音楽文に投稿しているのを母にも言っているけれど、何を書いているのかは読んでいないから知らない。あんたそればっかりやってたら疲れるよ、明日仕事も早いからもう寝なさいと言われている。夜遅くまで書いても、掲載された文が、いいね、とリツイートされて共感されるわけでもない。数字が出れば、いつも当たり前に10以下5以下。自分でも笑う。それを母に言うと、かわいそうな、もうやめたら?と言われる。あれだけ一生懸命してたったの?2点?2点しかないん?と笑われる。いやいや数字は点数じゃないし内容に対する点数じゃないよと言っているのだけれど、やっぱり内容に対する点数なんだと思うのはくやしい。それでも書き続けようと思っている。くだらない話を聞いてもいくらかは理解して笑ってくれる母は人生の味方だ。

けれども、音楽に関しては自分とあまりに趣向がかけ離れすぎてしまっているのが残念だ。お母さんが現代の良い曲を楽しんでいる一方で、自分とは言えば、新しい音楽、時代の音楽とは無縁で、古い昔の音楽に惹かれて、レコードを聴く毎日ではある。レコードを集めて、増えすぎてイヤミを言われる。よく考えたら僕が好きな1960年代70年代の音楽は、お母さん世代の音楽じゃないか。それが逆転しているのがおかしいね。あんたのレコードはわたしにはなんにも価値がない、価値観のちがいなんだからしょうがない、と言われてしまう。部屋にいっぱいあるレコードに怒って、あんたが死んだら全部捨てると言われたこともあった。でもそれはやめてや、と頼んでいる。捨てたら全部意味がなくなる。この古いレコードだって、昔は誰かが聴いてきたもので、大事にしてきたもので、大事にしてきてくれたからこそ、今ここに、自分の手元にあって僕もそれを聴くことができる。捨てるなんてそれはいけないことだと思うよ。

"きれいな シャボン玉 今は キレイ じゃないんだってさ とっても きれいなシャボン玉 みんなの迷惑 なんだってさ 変なの"

"東京にて"の歌をYouTubeで聴いたのが始まりだったけれど、他にもあるいろんな曲を聴いていった。"シャボン玉"というのがある。ヒグチアイさんは鍵盤を軽やかに鳴らして、ふんわりとしていてしなやかになめらかに、シャボン玉が舞い上がってゆく、この日常への愛を歌っていた。これからも聴いていきたいと思った曲は、意外にもこういう親しみのあるやさしい音楽なんだと実感する。ヒグチアイの歌の表現の幅はとっても素敵だ。自然にもなんだか涙が揺れてくる。
部屋で"シャボン玉"を繰り返し聴いていると、向こうの台所にいた母が言ってきた。おかあさんといっしょ??なんとなく意味は解った。おかあさんといっしょ、という子ども番組に出てくるようなピアノのおねえさん、というふうに聞こえたんだと思う。ちがうよ、と言っておいた。おかあさんといっしょをYouTubeで何度も真剣に見ている40代のおっさんってどんなんやと思うと笑う。

僕は、外に出掛ければイヤフォンでサブスクを利用して近年の音楽を聞いているけれど、それも全部洋楽だ。YouTubeで発見する以外で、日本の現代のポピュラーミュージックを聴く日常はない。しかし、この2020年は良い音楽に出逢えた。羊文学とヒグチアイだ。これからもずっと聴いていこうと思える人たちだ。その他にもどんな音楽があるのか気になっているけれど、今まさに決定版になったのがヒグチアイさんの音楽だ。
 
どうかお母さんにもこの素晴らしさ美しさが伝わってゆけ。そして多く音楽を愛する人たちにこの歌の愛しき決意が届きますように。
"生きる"
 
「東京にて」  ヒグチアイ

"渋谷も変わっていくね
オリンピックがひかえているから
張りぼての元気などを纏って
サラリーマンが肩をぶつける

ライブハウスができてはつぶれて
名前が変わってまた戻って
解散したバンドは友だちじゃないけど
わたしのこと 歌ってた

ロックバンドから見える東京
ホームレスから見える東京
ピンヒールのOLの東京
どれも嘘でどれも本当
誰かの作った方程式じゃない
新しい答えを作ろうよ
最初で最後 きみだけの
きみだけの東京にて

バスターミナルできみに
手を振ったのはいつだったっけな
見送るのが苦手だと言って
背中を向けて逃げたセンター街

あの子ともあの子ともあの子とも
潜ったこの赤い提灯の下
神様仏様ぼくはちゃんと
今この人を愛しています

ロックバンドから見える東京
ホームレスから見える東京
ピンヒールのOLの東京
どれも嘘でどれも本当
誰かの作った方程式じゃない
新しい答えを作ろうよ
最初で最後 きみだけの
きみだけの

会社をやめたサラリーマン
笑い方を忘れた芸人
引っ越し手伝いにきた父親
結婚したい派遣社員
見えてるものは一緒でも
違う方法で見つけたものだろ
最初で最後 きみだけの
きみだけの東京にて"
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