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誰かのボタンになるために

Mr.Childrenほどに優しくはなれないけど

<<「優しいね」なんて 買被るなって>>
<<怒りにも似ているけど違う>>

Mr.Childrenの楽曲「つよがり」に含まれる歌詞だ。これほど鮮やかに、自分の心中を代弁してくれるリリックはない、聴いた時、そう思った。

今日は「優しさ」というものについて、徹底的に考察してみたいと思う。よろしければお付き合い下さい。

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いちおう40年近くを生きてきたので、他人様から褒めてもらう機会が、それなりにあった。投げかけられる「褒め言葉」の大多数が「優しいね」というものであった。

もちろん僕を毛嫌いする人、疎ましく思う人も少なくはなかったし

「アイツなんて『優しさ』からは程遠い人間だ」

と思っている人も、いま地球上に、間違いなく何人かはいるだろう(そういった声は甘んじて受け止める)。僕が言いたいのは、寄せられる好意的な声「だけ」を集計してみると、圧倒的に「優しい」という評価が多いということである。「男らしい」とか「頼りがいがある」とか「理知的だ」とか、そういう「票」を投じてくれる人は(残念ながらと言うべきなのだろう)極めて少なかった。

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もちろん僕も「優しい」と言われて、そう悪い気はしない。それでも(楽曲「つよがり」の主人公のように)怒りに似た感情が込み上げることは、ままある。

優しいんじゃない、アナタが(あるいはアナタとの関係性が)大事なんだ、そう怒鳴りたくなる瞬間が、半生に何度となくあった(これからもあるかもしれない)。そして「優しいなんて言われたって、ちっとも嬉しくねえよ」とさえ思うことも、正直に言えば、何度かはあった。

そもそも「優しい」というのは、どういう「ありよう」を指す言葉なのか、そして、それが褒め言葉なのか、そこから分からない、そうは思いませんか?

「優しい」は、無数の言い換えができる形容詞だと思う。

心配性だ、同情しすぎる、お節介だ、人を恐縮させてしまう、慇懃だ、腰が低い、などなど。

そのほとんど全てが(悲しいことに)自分に当てはまっているなと、つくづく思う。困っている人を見ると、いてもたってもいられなくなって、あれこれと世話を焼いてしまう。そのうちに、相手に感情移入してしまって、ますます「優しく」なってしまう。その結果が、自他に「真なる幸福」をもたらしたか、確証が持てなくなってしまう。そうやって僕は、何度となく路に迷ってきた。

青年期を過ぎたころ、幼なじみ(女性)に、ついに喝破された。

「優しすぎると、相手が『申し訳ない』と感じちゃうものよ」
「あなたが自分勝手に、やりたいようにやらないと、かえって相手は辛くなるわよ」

と。

彼女の言葉こそが「真なる優しさ」を宿しているように思えませんか?

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成人男子に必要なのは「優しさ」なのではなく「親切さ」なのではないか、そういう結論が出かけたことがある。同情するのではなく、共感するのでもなく、冷静に・的確に現状を分析して、具体的な問題解決法を練ることこそが、いい歳をした男には求められるのではないかと。

でも、もしかするとそれは、牧師や教師やカウンセラーといった「聖職」に就く人が、立場上、発揮しなければならないものではないか、すぐにそう気付いた。一般市民が、一般市民として、一般市民を救おうとする時、やはり「優しさ」は必要なのかもしれない。そう思い直して、また、わけが分からなくなった。

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それでも僕は、40が近くなって、ある人に出会ったことで、「優しい」という褒め言葉を、素直に受け止めなければならないと、心がけるようにはなった。「優しいね」というのは最大級の賛辞なのだと思うようになった。もしかすると、その時点が「自分に(ようやく)優しさの備わった瞬間」なのではないかと、いま考えている。

その人は(もう会う機会がないであろう人である、この記事を読んでくれているかさえ分からない)本当に、本当に優しかった。具体的に僕が、何をしてもらったのか、その人が、どんな風に優しかったのか、それを書くことはしない(※おもにプライバシーの問題によります)。

それでも僕は思ったのだ、突き抜けるような「優しさ」は、本当に美しいものだと。今まで自分が「優しいね」と言われ、それを素直に喜べなかったのは、この胸にあるのが「中途半端な優しさ」だったからなのではないかと。

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それに気付いた時から、僕の心に流れる「Mr.Childrenの歌う・優しさのテーマソング」は、「つよがり」から「くるみ」に変わった(念のために断っておくと、「つよがり」が「くるみ」より劣っていると言いたいわけではない、どちらも素晴らしい曲である)。

<<誰かが 持て余したボタンホールに 出会う事で意味が出来たならいい>>

僕は彼女に(そう、その人は女性だった)出会えたことで、大袈裟に言えば「救済」された。自分も優しくありたい、優しくありつづけたい、それこそ突き抜けるほどに、あきれられるほどに。そう思わされた。でも、もしかすると、これは僥倖なのかもしれない、ほとんどの人が「本当に優しい人」には出会えないまま、つまり優しさの価値を確信はできないまま、虚ろに生きているのかもしれない。そうも、思ったのだ。

楽曲「くるみ」で歌われる「ボタンホール」は、誰かから優しくされる機会をもてないまま、その胸に内包しているはずの優しさを開放されないままでいる、そういう誰かの心なのではないか。僕は、そう考えている。そして僕という人間は、言うなれば「ボタン」なのだと思っている。自分が持つ優しさ、その価値を認めることができず、それを中途半端にしか用いてくることのできなかった、恥ずべき人間なのかもしれないと。

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優しくされなかった人が、優しくなることは難しい。それは僕の自分史が証明しているように思える。きっと誰もが、潜在的には優しいのに、優しくなれるはずなのに、きっかけというものを与えられていないのだ。何かを見ずに信じられるほど、人間は強くない。

「優しいって、素晴らしいことなのよ」

それを教えてくれる誰かがいれば、優しさは連鎖的に発生する。それでも、そんな「誰か」も、結局は生身の・微力な人間でしかないのだ。ひとりで世界中を照らすことはできない、あらゆるボタンホールを満たすことなどできない。だから僕たちは、これまで出し損なっていた優しさを、いつの日か解き放たなければならないのだ。余らせていたボタンを、どこかのボタンホールのために役立てるべきなのだ。

僕に優しさを教えてくれた人は、輝いていた。そのかけがえのないボタンを(有限のボタンを)プレゼントされた僕には、それを惜しみなく差し出すべき時が来るだろう。その相手が、他ならぬ「その人」であっても、何ら不思議はない。人は悲しみや怒りにとらわれる時、健康を害した時、優しさを喪失してしまうこともあるからだ。

Mr.Childrenの歌詞を覚えこむように、その人から託されたボタンを握りしめて、忘れないように、なくさないように、もう残り少ないのかもしれない日々を、過ごしていければと思う。つまずいても、倒れても、そのボタンだけは紛失してはいけない。

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あの時は、ありがとうございました。どんな形であれ、またどこかで、お会いしたいです。どうかお元気で。

※<<>>内はMr.Children「つよがり」「くるみ」の歌詞より引用
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