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ライブの意味

ヒグチアイの生きる音楽

ヒグチアイのライブ映像を、動画でだけれど、観た。10月18日の夜にYouTubeで配信されていた。観たあと、どうしてか眠れなかった。夜中にも明け方にもずっと想っていた。残ったものはけっして消えない。美しい、と心で響かせた感覚はいつまでも残りつづけるのだと思う。
それからもう何日も経ってその時のライブの全体を観ることは出来ないけれど、それ以前のライブ音源が他にもあるのを見つけて聴いている。11月には京都と東京で観客も入られるライブがある。

ヒグチアイさんは、ライブの人だったとわかった。ぼくは音楽について思い違いをしてきたのかもしれないと思った。音楽家は作品を残してこそ、生きつづけるのだと思っていた。けれどちがったのだ。音楽家の最初は、ライブが始まりで、ライブは文字通り、"生きること"だったのだ。作品がなければライブはできないとしても、演奏家、歌い手は聴き手に向けて、自らの音楽を伝えるために、音を鳴らし声を放ち、その心を響かせる。たとえ自作品であろうとカバー曲であろうとも、ライブはその人の音楽そのものを、そのままに伝えてくれるものだ。音楽は、その時そのときで生きている。ただ歌っているんじゃない。曲に沿ってその流れをなぞっているんじゃない。
ヒグチアイの音楽は生きる音楽だ。ぼくはほとんど久しぶりに、その好きなアーティストの姿を間近で見て音楽を聴いてみたいと思った。日本の歌手やバンド、好きな作品はあっても、ライブに行こうとは思っていなかった。

ぼくはライブが苦手かもしれない。自分は音楽を静かに聴きたい聴き手ではあるのだと思う。みんなが楽しくやっているところでさめて見ているのはわるいことのように思えてしまうから、ノリに乗れないノリのわるい反応しかできないのが居心地良くない。そうして、ここが良いとか良くないとか冷静になったふうに聞いている自分がいる。そもそも自分は、音楽を純粋に楽しんではいないのかもしれない。音楽に胸打たれる瞬間があまりなくなってきている日々。ライブに興味を持つこともなく。ライブで何が得られるのかを知ることもなく。
自分がレコードを集めるのは、美しい響きを知るためだ。音がどういうふうに鳴らされて交わって美しいと感じられる音楽に成るのか。積み重ねられてきた音楽の成り立ちと録音の技術、アイデアと技巧、試行錯誤、そこを知りたい、学びたい、という、よくわからない動機でしか、音楽を聴くことが続けられないでいる。いったいどうしたいのか。感動も、心を震わされることも奮わされることも、胸打つ感触も、意味を見失った、いつの間にか見いだせなくなった。時間をつぶすために音楽を聴く気はない。いつでも何かいろいろなことを考えながら聴こうとしている。ぼくは音楽をひとりで聴くことに慣れすぎてしまった。部屋で、ただ自分だけ、誰も寄らない音楽の中からひとりで勝手に想像を働かせて、それで満足しているのかと思う。ライブはただ単に、その音楽家の、作品の演奏会だとでも思っていたのか。ライブに参加したいファンに向けてのサービスじゃないかというようなイメージを持っていたのか。けれど、ヒグチアイさんの歌う姿を見て感じて、それは全然ちがった。たとえライブの間近な演奏でなくとも、映像の雰囲気や音源から伝わるものだけでも、この歌い手の真摯なる態度、ひとりの女性の美しい真実と表現、強く切実だった。心に来た。これを本当の間近で見たくならないわけがない。彼女がピアノの一音を鳴らせばそれは詩になる。発せられる言葉は語りことばとしても、どれもが詩のようだった。音楽は海。ピアノは船。その声は波で、言葉の響かせ方自体がもうすべての大海で音楽だ。"東京にて"を初めて聴いたときに感じた"生きる"という響きは、自分の思い込みなんかじゃなかったと思った。ヒグチアイさんはライブのなかで生きている。音楽家になるために経てきた体験やライブは、夢を叶えるための手段ではなかったのだと。ライブこそが生きる場所。ライブの意味は"生きる"ということだったのだと。
音楽を聴き始め、続けて26年、ライブの真髄も知らず自分は今からそんなことを言っている。間抜け野郎でもこれまで生きていてよかったのかもしれない。ライブで演奏されたフラワーカンパニーズのカバー曲"深夜高速"のなかで繰り返された、"生きててよかった"という言葉が、まっすぐ、魂の月の裏側まで突き抜けていった。まっくろな画用紙にあけた穴みたいに美しく光が刺さった。ヒグチアイさんの血と命が巡るような鮮烈な演奏だった。発声のコントロールは完璧。心を伝えるに大切なのは唄の上手さだけじゃないんだと気付かされた。そういう水準を突き抜けてもっと先へ到達している。心を声にすることが出来るなんて、こんな歌い手がいるなんて、なんにも知らなかった。でもぼくは何度でも言いたい。ヒグチアイに出逢って、生きていてよかったと。

ライブも今は配信が主にならざるを得ない時期、ぼくは配信ライブの有料チケットの取り方もよくわからないような、いわゆる時代遅れみたいな擬似か本物かわからないスリーディーのバーチャルリアリティおじいちゃんだ。配信ライブを観るための視聴環境が良くないため、という理由をつけて、今のところ参加できない。こうなったら本物のライブに行くしかないと思った。でも、遠い、東京。交通途中に感染があるかもという不安。それも考えすぎかもしれない。11月に京都のライブがある。それはもしかしたら、と期待するのだけれど、行けなかった。ライブに行くということを、同居の母に言えない。年を取ってのコロナウイルス感染は危険と聞いているのに、そのリスクを負って、自分の意思を通しにくい。それも考えすぎかもしれない。わからない。聴き手もそうだけれど、ライブを行う側の人たちだって移動中やライブ中にいつ感染してもおかしくない状況ではあるだろう。こういう事をずっと考えていたら本当になんにも出来ない。いったいどうしたらいいの。待つしかないの。新しい答えは何処にあるんだろう。マスクに手洗い、風邪をひかなくなっても、でも健康じゃない。風にも吹かれず舞い上がる答えにも手は届かない。方程式なんてむずかしいものはわからないけど、それを書き記す紙だけは用意して、でもそれも今はポケットのなかでしわくちゃだ。ただ鉛筆だけはここに持っているのに。


20年前くらい、自分が20才くらいのとき、本当に観てみたい歌手がいた。それはダグマー・クラウゼという女性だった。彼女が歌っていたバンド、SLAPP HAPPYがほとんど20数年ぶりに新作を発表して、それが日本に来てライブをするという事を知って、胸が騒いだ。あの時もたしか東京と京都でのライブだったと思う。結局行けなかったのだけれど、今も後悔する。痛みと優しさ、生きることの滋味を表現できる歌い手。これからも本当に観てみたい歌手がいるとしたらダグマー・クラウゼというのは変わらないだろう。そこへ今、ヒグチアイさんも同じように加わったのだ。生きることの滋味を表現できる歌い手。ライブを観たい。それが叶う可能性としてはヒグチアイさんの方が大きい。自分のなかで、本当に聴きたい歌い手という意味ではもはやダグマー・クラウゼを越えてしまった。この時代、この日本にいて、いま、この瞬間、生きる意味を感じている。

ヒグチアイの歌を毎回聴くごとに聴くたびに音楽の響きが変わって聞こえる。いったいどうしてなんだろう。同じように聞こえたら何回も聴く意味もなくなるのかもしれないと思えば、彼女が積み重ねてきた年月の意味や努力がいったいどんなものだったのだろうと考えてしまう。ぼくはなんにも知らなかったにわかファンだろう。最初から聴いてきた人たちは、ヒグチアイの表現力が進化し深められてきたのを今までずっと見てきたのだと思う。自分が言えることはたぶん何もないのかもしれない。けれど、この美しい歌い手の事を書かずにはおけないほど、生きているものへと訴えてくる響きは大きいと感じる。ひしひしと感じる。100文字の共感よりも、一声のヒグチアイだ。声が、何の説明も分析もいらない、意味になっている。そして声と同じくらいピアノも美しいという音楽の強い力。ヒグチアイは弾き語りのシンガーソングライターに終わらない、バンドリーダーでもあるような気がする。なんにも知らないのだけれど。バンドスタイルでの演奏も良いのだ。特にドラムと音楽の関係が刺激的だ。リズムがどういう役割を持つのか、曲のなかに的確に組み込まれている。実際に素晴らしいドラム奏者が参加しているだろう。ヒグチアイさんは歌い手である以上に音楽家でもあるのだと感じる。これからもきっと音楽は深化し続けていくのだろうと思う。ぼくはそれを聴いてみたくてどうしようもない。
ヒグチアイのベストアルバム「樋口愛」を繰り返しに聴いている。"東京にて"が終わっても、しばらくの余韻からもう一回"ココロジェリーフィッシュ"へ戻りたい、魔法がかかっている。緩急のバランスも、うまくできている。曲順、構成もいい。一つ一つのお話、全体でひとつの物語。"小説樋口愛"を読んで、彼女の音楽にとどまらない才気を感じている。100のシンガーソングライターよりも、100のバンドよりも、1のヒグチアイだ。自分のなかのこれからの音楽への期待と可能性をヒグチアイはぶっちぎりで振り切ってしまった。これからはぶっちぎりヒグチアイだ。そういう名前を付けようと思う。みんなにこの歌い手の事を知ってほしい。ぼくがそれをわざわざここで伝えなくても実際には広く多くの人に伝わっているのだと思う。

ぼくがいま出来ることは、まず、うちにいるお母さんにヒグチアイを浸透させることなのだと思う。ついこの間、母のスマートフォンの音楽アプリにヒグチアイをダウンロードしておいて、あとから何曲も追加しておいた。ぼく自身がまだまだ何もわかっていないのだ。ヒグチアイの素晴らしさを伝えるにどの曲が相応しいか。でもちゃんと聴いていたら伝わっていくと信じている。聴き始めて一分で感覚が合う。二分で心の呼吸が合う。あとは繰り返して染み込んでいく。これからはヒグチアイをイヤフォンで聴くのはやめようと思う。毎日、毎日、繰り返しにスピーカーから鳴ってきたら誰だってこの美しい歌い手に魅了されるはずだ。
しかし、先日のこと、母がスマートフォンで音楽をスタートさせているところに居合わせたので見ていたら、始まりはスピッツを聴き始めたので、最初のヒグチアイからなんで聴かないん?と訊いた。そしたら、ヒグチって誰なん?勝手に入れて、知らない、スピッツがいい、と言う。ぼくは思わずすかさず叫びたい衝動に駆られた。頭の上をモクモクとふくれあがってきたそれは次第に綿のようになって色が付いてゴワゴワ、モジャモジャが絡まってアフロヘアーになっていて手にはハンドマイクが、気がついたらある。ここはデトロイトか、荒くれのモーターシティーか、そしておもいっきりぶっちぎり血管を浮き立たせてぶちまけるのだ。
キッカウトザジャーム!!!
マザー○○○カー!!!!
(善良なる読み手の皆さんはそのような無用心な言葉をけっして使わないように気を付けてください)(○○○に入る文字は「フ」とか「ァ」とか「ッ」ではありません念のため)(○○○に入る文字は「レ」と「ン」と「タ」です念のため)
キッカウトザジャーム!!!
マザーレンタカー.....?...レンタカー?
こんなときこんな怒りの状況でお母さんに叫んでまで伝えたいことが、タクシーに乗るよりも1年間で考えたらレンタカーの方が割安、という情報ですとは。(ぼくも善良でした)(なんじゃそら)

正気を取り戻して、
ぼくは、今度お母さんがヒグチアイを聴かずにスピッツを聴き始めるのを見かけたら、次は本当に、マジのマジの、リアルガチで、レボリューションをアジテーションしてヒグチアイ革命を起こしてやると思う。ウェイン・クレイマーよろしく大胆なアクションでもって、弾けないエアギターをブンブン振り回して、裏声でランブリン・ローズを唄うかもしれないと思う....
(まだ正気じゃないと思う)



今、音楽家は配信ライブを行っている状況で、それが話題にもなっているし、その情報が主に伝わってきていることが多い。しかし作品の発表には、時間もかかり、そんなにパッパッと進むものではないだろう。配信ライブよりも、観ている人がいる本当のライブが可能になるまでの間、無観客だとしてもライブを行って録音して、ライブアルバムを発表したらいいんじゃないか。音源が無料になるような状況やライブへの参加が低価格になるような状況をこのまま受け入れていって良いとは思えない。そういう自分はYouTubeでライブを観たりしているのだけれど、この状態が浸透してしまったら音楽は危機だ。ライブアルバム。それだったら作品として成立して、これからも残るものになる。今だからこそライブアルバムは必要とされているんじゃないか。送り手と受け手、双方にとって妥当だ。
いや、そもそも音楽がデータ配信で当たり前になっている時代に、CDプレイヤーも持っていないのが普通の時代に、CDが売れない状況をどうしたらいいのかという問題があるのは分かっている。

そして、このウイルスの抑えられない世界で、娯楽はまさに、必ず要るものとしては認識されにくくなってしまっているのかもしれない。音楽は娯楽か。そうじゃないと思う。音楽を愛する人なら分かる。音楽は生きることで、芸術にふれることとは生きることの証みたいなものだ。経済が滞って、一般社会全体も余裕のない状態に陥っている。自分だって給料は減って自由にはならない。先の見えない不安。それでも音楽を必要のないものとはけっして思えないのだ。今まで生きてきたことを、たすけられてきたことを想えば。けっして。

いつかあるミュージシャンのインタビューを読んで、本当にそうだと思った事があった。私が真剣に取り組んで作った音楽が、ファーストフードと同じくらいの値段にしかならないなんて許せない、と。KICK OUT THE JAMSではないけれど、音楽家はもっと怒っていいんじゃないか。大声で唄ってほしい。それを今だからこそ、今しか出来ない記録として、ライブアルバムにしてほしい。あの時代になにがあったのかって、後でも分かるように、音楽家は今、魂を残してほしい。


この時代に必要な歌い手。
これからも生きていて。
ピアノのまえでわらってうたっていてほしい。
元気でいて。

ライブ活動が制限される日々が続くとしても、
ずっと待ち続けると誓う。
約束


「わたしはわたしのためのわたしでありたい」
                  ヒグチアイ

"彼氏いたってお金あったって
つらくなることないですか?
世界で一番わたしが
不幸だって思ってもいいですか?

なにが不満だって 言えないよわかって
誰のせいでもないんだよ
呪いみたいに縛られて
寝ても覚めてもいつも夢の中

ハードルを高く高く決めたの
絶対下げたくない
傷はいつかを 思い出す鍵だ
なんども転べ

誰もいない街 誰も見てないステージ
踊り続けられるだろうか
擦れたかかと 引き摺って
それでもまわるまわる
誰もいない道 誰もくれないトロフィー
走り続けられるだろうか
わたしのために わたしのための
わたしでわたしでありたい

かわいくたって頭良くたって
つらくなったっていいですか
憧れとごちゃまぜにして
話合わせに語る夢じゃない

ねえどうか今を最高地点と
決めつけないでいて
旗は立てるな 大きく振れよ
風を味方に

誰もいないベンチ 誰もいない客席
削り続けられるだろうか
厚くなった手のひら
信じて 進め 進め
誰もいない未来 誰も知らないストーリー
描き続けられるだろうか
わたしのために わたしは生きるの
つらいなら、こわいなら、大丈夫

しあわせの数 増えて見つけた
ちいさなかわいい家
これが全てだ そう言った友よ
しあわせでいて

誰もが背を向け 誰からも忘れられて
いつか来る日がこわいけど
誰でもないわたしがわたしを覚えている
強く強く

誰もいない街 誰も知らないメロディー
うたい続けると誓うよ
わたしのために わたしのための
わたしでわたしでありたい
わたしでわたしでありたい
わたしでわたしでありたい"
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