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UNISON SQUARE GARDEN「で」よかった

どこまでも歪んでいるからどこまでも真っ直ぐ

「で」といういわゆる格助詞は、実に様々な用法を持つ。


「で」について確実に決まっていることは、前にある言葉は「名詞」であるということくらいなものである。そのたった一文字は、自らの前に存在する対象と後ろに存在する「何か」を濃淡も強弱も色合いも自由自在に結びつける。

時に驚くほど冷静に淡々と機械的に突き放すように。そして時に驚くほど熱烈に懇々と情熱的に惹き付けるように。使いようによって、冷めたり熱くなったり。強がっているけど実はとても素直で、歪んでひねくれているのにどこまでもまっすぐな正直さを感じる。なんとも不思議な魅力を秘めた一文字で、それはどこかのあのバンドに似ているような気がする。


その日はなぜかやたらドギマギしていた。


運よく会場玄関の目の前の駐車場に案内され、車を停める。玄関の前にぽつぽつと立っている人たちと、必要以上の距離を取って短い列をなしている人たちを、運転席に座ったままフロントガラス越しに眺める。

あれ?ライブって何だったっけ?

252日。約8カ月とちょっと。これが私の「ライブに行かなかった日数」である。20歳でライブというものに行き始めて早9年やそこら。正直、これ以上の期間ライブに行かなかったことはある。しかしそれはのっぴきならない事情があったというか、平たく言うとただ床に伏していただけなのでライブに行くとか行きたいとかまず肉体的にそういうことを思える段階にいなかった。そこをノーカウントとすればだ。

こんなに「ライブに行きたい」と思いながら「ライブに行けなかった」のは多分人生で初めてだったのだ。

でも、よく考えればそれはある意味「幸せ」なことなんだよなと思わされる。こんなことでもないと「ライブに行きたい」と思いながら「ライブに行けなかった」日々を送ることがなかったのだから。「幸せ」というのはいつも、手放した時にしか気づくことができないようにできてるんだよなーなんてことを思いながら車の窓を少しだけ開ける。秋の夜の、かすかに落ち葉の匂いが混じる空気をすんと吸い込む。

あれ?こういう時いつ会場に入ればいいんだっけ?

ライブ会場前のあのわちゃわちゃした、出所のない興奮が入り混じる謎のお祭りのような空気感が好きだった。適当な場所に腰かけて、大人数で楽しそうに輪をなしたり幸せそうに肩を並べて歩く人たちを眺めながら同行者とああだこうだと他愛もない話をするのが好きだった。グッズ売り場に列をなして、遠目に見える看板を眺めながら、今回は絶対にあれとあれしか買わないと心に決めたのにいざ売り子の前に立つと舞い上がって口から勝手にあれもこれもと言葉が出てきてしまう幸せな無駄遣いが好きだった。両手から溢れんばかりに抱えたグッズはある種幸せの象徴のように思えたし、静かな興奮の中でああだこうだ言いながら透明なビニール袋を開け決して良いとはいえない新品の布の匂いをふっと嗅ぐ瞬間だったり、夜が明けてから家計簿アプリに金額を打ち込み自らの家計における昨晩の出費の比率に気づき頭を抱え味わう後悔すら幸せだったような気がする。

そうかー、もう何もかも「ない」んだなー。

目の前に作られている、大袈裟なくらい間隔のあいた短い列。ぽつりぽつりと一人で立っている人たち。「閑散」という言葉が一番しっくりきた。自分だってそうだった。直前まで車から出ない方がいい気がした。これがいわゆる「ソーシャルディスタンス」で「新しい生活様式」なのだ。仕方ない、仕方ない。何度も自分にそう言い聞かせた。

どうやら開場したらしい会場に、ゆっくりと、音もなく、神妙な顔で俯きスマホを片手にした人々がぽつりぽつりと吸い込まれていく。

会場の前には本当に誰もいなくなった。そろそろかなと思い車を出る。会場のドアをくぐる。うわー、そういえばこんな感じだったな。俯いたまま接触確認アプリを開き、係の人に見せ、体温確認の機械の前に立ち止まりようやく顔をあげる。電子チケットを自分の指でスワイプしてみせる。最後にアルコールスプレーを念入りに手に擦りこむ。それはまるで注文の多いなんとやらの世界観を体感しているようだった。ようやく全ての行程を終え顔をあげると大きな表示が目に入る。「フライヤーの配布はありません。こちらのQRコードからデジタルフライヤーをDLしてください。」そうかー。紙すら配れ「ない」のかー。そこまで考えていなかったけど、何の気なしに貰っていたフライヤーすらもう貰え「ない」のかー。

神妙な気持ちで入口をくぐる。こんな歯並びだったらよかったなと思ってしまうような均等に整然と並んだ座席と、幕がびっちり閉まった妙に圧迫感のあるステージが目に入る。

これが、ホールか。

8カ月もライブに行かないと、人はどうやら生まれて初めてホールを見た人のような感想を抱くらしい。通路を歩き、座席へと向かう。

近い。

いや、近いのか?それすらわからなかった。6列目。なのに視界に入るのはおおよそ5人ほどの後頭部のみ。なんだこれは?ライブというのは人と人がひしめき合って、パーソナルスペースなんかない、全く知らない人なのに気の知れた友達よりもよほど近い距離感になって楽しむものだった。隣の人は確かに座っているが、もはや隣の人の気配は感じられない。なんだこれは。ライブって、どんな感じだったっけ?

うわー、ギターだ。

人は8ヶ月ぶりにギターの音出しを聴くと、初めてギターの音を聴いた人の様な感想を抱くらしい。

うわー、ベースだ。

人は8ヶ月ぶりにベースの音出しを聴くと、初めてベースの音を聴いた人の様な感想を抱くらしい。

うわー、ドラムだ。

人は8ヶ月ぶりにドラムの音出しを聴くと、初めてドラムの音を聴いた人の様な感想を抱くらしい。

待て待て。もしかしてこのままライブが始まるのか?本当に?目の前で?生の音が聴こえるのか?生の姿が見られるのか?この幕さえあがれば彼らがそこにいるのか?どうせ幕があがったって、そこには巨大なスクリーンがあるだけで、またいつも通り画面越しにライブを観るだけなんじゃないのか?

あんなに待ち望んでいたはずなのに、自分の置かれている状況がいまいち信じられなかった。あまり理解もできなかった。本当に今から目の前でライブが始まるのか?あれ?ライブってなんだったっけ?

突然フッと会場の照明が落ち、暗闇に包まれる。

あっ、やばい、始まる。そう身構える猶予を少しだけ長く与えてくれたのは彼らなりの優しさなのだと思う。

そして次に聴こえたのは息を吸う音だけだった。


《12時 時計塔の下新しいワンピースで》


言葉のひとつひとつを大切にゆっくり噛みしめるように歌うその声は、紛れもなくあの声だった。幕はまだあがらない。光もない。暗闇の中で聴くその声に、一気に心臓の鼓動が高鳴る。

《軽やかに、それは軽やかに走り出す》

ゆっくりと吐き出される言葉の合間に挟み込まれる、穏やかなブレス音。こんなに尊い瞬間があってたまるものかと思った。あまりの尊さにたまらず心臓が走り出す。静かに噛みしめるように歌うその声と、自分の内側で途方もなく大きく波打っている心臓の音を比べたら確実に後者の方が大きかった。邪魔だ。自分の心臓の音が邪魔だ。でももうそれを止めることはできない。そうだ、ライブというのはこんなに胸が高鳴るものだった。

《風船手にした子供 秘密の暗号に気づかず
 離した、それを離した 空に吸い込まれた
 わかんないのはクローバーに込められた願い
 夢ならば思い通りになるのにな》

たったこれだけのフレーズが途方もなく長く感じられた。ゆっくりと、ひとつひとつを大切に大切に噛みしめるように紡がれる言葉。1秒が10秒に、10秒が100秒に感じられた。時空すら歪んでいるような気がした。そこには圧倒的な時間の密度があった。

《君がここに居ないことであなたがここに居ないことで
 回ってしまう地球なら別にいらないんだけどな》

その声にもうひとつの声が重なった。ああ、そういうことか。ライブのセットリストの構築にやたら自信を持っているらしいもうひとつの声の主が、この曲を1曲目に持ってきた意図がなんとなく透けて見えたような。この8カ月間、悶々と抱え続けていた巨大な岩のようにズンと重たい気持ちが、たったこれだけのフレーズで粉が吹き飛ぶようにパッと軽く昇華された気がした。どんな乾いた言葉をもってしてもその重さを払拭することなんてできなかったけど、多分これだ。生の声が、その瑞々しい声が、簡単に全てを洗い流していく。君が、あなたが、いなくても回ってしまう地球なんて別にいらなかった。こうしてまたいとも簡単に彼らが生み出す「魔法」にかけられてしまう。

UNISON SQUARE GARDENというバンドはこれだからたまらない。やっていることは誰よりもシンプルで、誰よりも愚直だ。あまりにも真っ直ぐすぎるから難解だし、難解だから真っ直ぐすぎるのだ。だから、彼らが立つステージは彼らにしか構築できない遊園地のように見える。見ても、聴いても、楽しい。自由自在に飛び回り変幻自在の魔法をかけてくる。決して他の誰も真似することなどできない、魔法使いのような存在だ。

《そっと抜け出したパーティーも 大好きだったあの映画も
 未来のパズルに続いてる
 「また、会おう」って言ったフローリア》

映画じゃあるまいし、「また、会おう」なんて言われた後に本当に会えるなんて、そんな夢みたいなことがあるものか。ことさらにゆっくりとゆっくりと、大切に包み込むように最後の言葉が紡ぎ出されたその瞬間、ついに暗闇が動く。隙間から漏れ出す一筋の青い光。それは暗闇を引き裂くように徐々に徐々に幅を広げていく。そこから一斉に呼吸を始めるようにギターの音が、ベースの音が、ドラムの音が漏れ出す。広がっていく青い光、それはまさに新世界の幕開けであるかのようにすら思えた。そしてその光が全てを包んだ瞬間。


UNISON SQUARE GARDENがそこにいた。


「やっと会えた」だとか「念願のライブ」だとかそんな陳腐な言葉では到底表現できないと思った。この場を設けようとしてくれたこと、それに向けて動き出してくれたこと、今この瞬間を生み出してくれたこと、そして今自分がこの状況にいられること。そのすべてにただただ感謝が止まらなかった。もう、「ありがとう」と「ありがたい」しかなかった。ライブというものを体感して「想い」や「行動」や「状況」に対して本質的に感謝の気持ちを抱いたのはきっと初めてだったのだと思う。今までは全部全部当たり前だと思っていたのだ。皮肉にもそれがこの時よくわかった。そして散々あれもこれも「ない」「ない」「ない」と思っていたが違った。

ここにこんなに「ある」じゃないか。

結局これさえあれば何もいらない。目の前から自分に向け放たれる、瑞々しい音。やっぱり自分の中には「ライブでしか潤わない部分」があるのだと確信した。8ヶ月の時を経てすっかり乾ききっていたそこに、他の何をもってしても潤おすことができなかったそこに、突如として瑞々しい音が存分に注ぎ込まれる。それはあっという間に溜め込むことのできる限界を超え、涙となって溢れ出る。何を聴いたらいいのか、どこを見たらいいのかもよくわからなかった。ただただ涙が止まらない。良くも悪くも、マスクが全て吸い込んでくれた。おかげで一瞬にしてわたしは「マスク 濡れ太郎」へと名前を変えた。この曲をこんなに「美しい」と思ったのは初めてだった。青かった、綺麗だった、美しかった。そんな単純な感想しかなかった。

そんな完璧な幕開けを経た後の2曲目を、インディーズ時代の作品から持ってくるあたりがまた彼らしいなと思った。「お待たせェ!!」という最強の挨拶から入ったその曲に、私はもう腕と首を正しく制御する方法を見失った。たった5人ほどしか見えない知らない誰かの後頭部も、突如として激しく動き出す。そうだ、これだ。今私が見ている光景は世界中のどこにもない。ここにしかない。自分しか持っていない自分だけの感覚器官で自分にしかない瞬間を切り取る。そう、これがライブだ。

《約10年前から閉ざしていた心が
 今、絶妙のタイミング そうしてもう一度
 ちょっとだけ世界と仲良くなったあなたは
 今、誰よりも高く、高く飛んだ夕暮れ
 記憶だって スイッチ一つ、輝いてしまえば
 全部特筆すべき存在
 そうだ
 涙キラキラ西の空に光る
 モノクロでは説明できない完全無欠のロックンロールを
 どうせなら この際なら 虹を作ってみよう
 そしたら誰も文句なんかつけらんないから
 言えなかったバイバイを優しさで そっと包んで
 ふざけろ!「いつか終わる、悲しみは」
 どうか忘れないでよ》

田淵ェ・・・まさかこの時が来ると知っててこの曲を作ったのかアアア!?!?と思わず田淵の胸倉を掴み前後に揺さぶりたくなるくらいの完璧なフィット感だと思った。まるで今のために作ったのかと疑ってしまうような、ありとあらゆる様々なシチュエーションに、感情に、変幻自在にフィットしてくる音楽は「最強」なのだ。そして私はそんな音楽が大好きだったのだとやっと思い出した。涙と鼻水と腕と首とその他諸々がもう止まらない。無我夢中、オンガクサイコーである。もうそれ以外の言葉では無論表現しきれない。頭が完全にバカになった。とにかくオンガクはサイコー、それ以外何もないのである。

2曲目が終わって気づいた。もう首が痛い。座りながら首を振ると何かが良くないのだろう。早々に痛めてしまった首の右側を片手で支えつつ揉みながらも腕と首を振る。私は「首 痛め太郎」へと名前を変えた。そしてそこから間髪入れずぶち込まれる《結局世界は僕が救うしかない 手こずります》というフレーズがまた首にキた。おっしゃる通り、今目の前にいるあなたたちこそがヒーローだと本気で思ってしまう。

しかし声を出してはいけないという制約はあるが口が動くのを止められるわけがなく、マスクの下で大口をあけて元気に口パクをしていたがもうマスクが下にずれるわずれるわの大事件である。腕と首を振りながらもずれるマスクをつまんで必死に鼻の上に戻す。このライブ中にずれたマスクを直した回数はゆうに200回を超えただろうか。私は「マスク ずれ太郎」へと名前を変えた。

しかし際限なくずれていくマスクとは裏腹に、この日鳴らされた音楽はもう全部が全部今この瞬間に完璧にフィットしてきてたまらなかったのだ。

INGで少しずつ少しずつやればいいし、世界が壊せそうな気がするから叫びたいし、その「ハッピー」のたった一言で世界が楽しすぎちゃって愛しすぎちゃって本当の意味でハッピーになったし、その曲のあまりに優しい包容力に「あれ・・・?わたしとあなたってともだちでしたっけ・・・??」となったし、いや本当に君が目に映す景色の中いついつでも踊っていてくださいと思ったけど終わるからこそ儚いんですよねと思ったし、まだ世界は生きてるというフレーズの力強さに首がもげそうになったし、久々の最強のドライブでますます首はもげマスクは飛びそうになったし、挙句の果てにここにきてまさかまさかの私がユニゾンにハマるきっかけになった曲を聴けてますます状況が理解できず理性が飛びそうになったし、その曲のイントロがなった瞬間「ああ絶対これで終わりだ」と思ったけど不思議と喪失感はなかった。ただただ全てが美しかった。そしてラストに差し掛かりステージが暗転した瞬間わかってしまった。先に2人がステージから去ってしまったこと。しかし始まりと同じ暗闇の中で、1人だけスポットライトを浴びて歌っている彼の姿はとにかく美しかった。尊かった。何の根拠もないけど、きっとまたこの人たちに会える、この人たちの音に真正面から溺れ、魔法をかけられてしまう日はきっと来ると、そう思えた。

何事もなかったかのようにひらひらと小さく手をふりながらスマートに立ち去る姿すら何かの魔法であるかのように思えた。そして、断じてアンコールはございませんということを伝えるかのように潔く会場に無味無臭の照明が戻る。ステージ上にはマイクを持ったスタッフが現れる。一瞬にして魔法が解けた瞬間である。無論、勝手に退場することは許されない。こんなに小さなホールでも「規制退場」なのである。ずれたマスクを直しながらアナウンスを聞く。


「それでは16列目の方からお立ち下さい。」


自分の両耳を疑った。16列目・・・?その日初めて自分の後ろを振り返る。自分の両目を疑った。語弊を恐れずに言うならば、全く人がいなかったのだ。元から声は出せない状況だったが本当の意味で絶句した。言葉が出なかった。なんだこれは。確かにMCで「チケットの売上が芳しくなく」だとか「本当は1席空けなんだけど今日は2席空け」だとか「人が少ない方が燃える」だとか笑いながら言っていたのだ。それでも「まあ2階席が埋まってないくらいだろう」だとか「だからこんなに隣の人が遠く視界に人がいないのかなんて贅沢で優雅なんだ」だとか「人が少ない方が燃えるなんて彼ららしいなあ」と呑気にへらへら考えていた。絶句した。2階席どころではない。1階席の半分ほどまでしか人がいなかった。そこらの保育園のお遊戯会の方がまだオーディエンスが多いレベルだと思った。16列目までの2席空け。引くくらい人がいなかった。いや、そうだよな。確かにライブ中の拍手のボリュームのなさは異常だった。そこで多少はこの状況に勘づいておくべきだった。そしてその時初めて知った。


この光景を前に、彼らはあの表情で、あの熱量で、音を鳴らしていたのだと。


3人とも心の底から楽しそうな顔をしていた。こんな状況におけるライブだからなのか、自分にとってライブが久々だったからなのかはわからないが、ここまでステージ上の全員を均等に「心の底から楽しそう」だと思ったのは初めてだったのだ。いつだっていい意味でどこかひねくれている彼らの、何ひとつ嘘偽りのない純粋無垢な表情を見た。楽しそうだった。本当に楽しそうだった。見ているこちらが羨ましくなってしまうくらい楽しそうだった。思わず「仲間に入れてくれ」と言ってしまいたくなるような。ああ、大の大人になってもこうして仲間と音が鳴らせるってものすごく幸せなことなんだろうななんてそんなシンプルな気持ちにさせられてしまったくらいには純粋に楽しそうだった。

しかし、何を言おうともこれが嘘偽りなく紛れもなく今の「ライブ」というコンテンツに突き付けられた現実なのだ。もちろん開催地だとか、二部制だったことだとか様々な要因があるとしてだ。まず、その人の立場にもよるだろうが「ライブに行く」ということは大手を振って人様に堂々と言えるようなことではなくなった。少なくとも私の中では。もちろん今日だってそうだ。夫には『なんか座って?見るだけ?のユニゾン?のイベント?みたいなやつ?に行ってくる感じ?みたいな?』と濁しに濁して説明した。嘘はついていない。しかし我ながら異様なすっとぼけっぷりである。「ライブ」の「ラ」の字すら明言することを避けたのだ。友達にも会社の同僚にも今日の予定など一切喋っていない。もちろん今後喋る予定もない。それでいて今日この場にいることができているわけだけども、もちろん立場によっては最初から「ライブに行く」という選択すらできない人もいる。家族、仕事、健康、お金。守るものが多いと人は臆病になってしまうとどこかの誰かが言っていたがきっとそういうことだ。

そのように歯痒く致し方ない状況に置かれている人がより一層増える中で重要となるのは「共有」することであり、その手段だと思う。このような世の中になった以上、今後ますますライブに「行ける人」「行けない人」の二極化が進むことは確実である。そんな中「配信ライブ」という新しい共有の形も生まれているわけだが、実際問題数千円支払ってアーカイブは何日か残るもののそれさえ終わればおしまい。ひとつのアーティストしか推していなければいいが、それが多岐に渡ると1回数千円の出費にすらためらいが発生する。ましてはこの情勢、収入自体が激減し生活が不安定になっている人も少なくない。配信ライブという形態は、良くも悪くも「音楽」だったり「ライブ」というコンテンツが簡単に「消費」されていくことをある種助長してしまうものになり得る可能性があるのではないだろうか。一瞬で勢いよく燃えたものは何も残さず消えていく。一体何が人々の心に残り、何が残らないのか。大袈裟な話になるが、人から人へと言い伝えることで長きにわたり人々の心に残る「伝説」は作られる。そんな中、私はやはり文字という情報伝達手段を信じたい。ライブに「行ける人」がライブに行って、それを文字にして残す。伝える。それをライブに「行けない人」が読んで、ライブに行ったような感覚を味わう。綺麗事であることは重々承知しているが、そんな繋がりが生まれたら素敵だと思うのだ。たとえそれが1人2人であっても、0でない限りは意味があると思うのだ。それが今ライブに「行ける人」の責務ではなのではないかと勝手に思い、今日も変わらず小さな庶民である私はこうして勝手に文字を打つ。

今「音楽」が目の当たりにしている壁はきっと私達が想像しているよりも高く、重く、厚い。しかし、「だからこそ」できることがあると思うのだ。壁を前にして立ち止まるのか、諦めるのか、くたばるのか、策を講じて越えようとするのか。その答えをこの日、彼らのあの表情が教えてくれた気がする。座るだとか、立つだとか、黙るだとか、声を出すだとか、そんな体の動きなどきっとどうでもいい。「座って観るライブ」というのは言い換えれば「尻にイスが付いている状態で観るライブ」ということだ。尻にイスがついていようがいまいが、そんなことは圧倒的な感情の前には何の障壁にもなり得ないことを知った。見るだとか、聴くだとか、感じるだとか、もっと大切なことがあることを知った。いつだって自由なのは「心」なのだ。それさえ持っていればどうにでもなる。私はこの日見た彼らのあの表情を、この日聴いた彼らのあの音を、そしてあの感情の昂ぶりを、決して忘れることはないだろう。



UNISON SQUARE GARDEN「で」よかった。



※《》内の歌詞はUNISON SQUARE GARDEN『クローバー』『フルカラープログラム』『フィクションフリーククライシス』より引用
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