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おとぎ話から考察する「狼青年」の歌詞の意味

Hey! Say! JUMPが織り成す童話の世界に迫る

Honey Bee 狼青年


事件は突然起きた。
10月12日、突如YouTubeに現れた謎の8人組ボーイズグループHoney Bee。
顔が明かされていないにも関わらず、公開されてから2日間で180万回越えを記録している。
女王蜂アヴちゃんさん提供曲、東京ゲゲゲイMARIEさん振付という豪華なコラボレーションとともに、彼らのダンスと歌声に釘付けで、興奮冷めやらない。



どうにかこの思いを、形に残したいと思い、ブログを開いた。



名曲"狼青年"を語るために、
グリム童話"赤ずきん"と(衣装)
イソップ物語の"狼少年"と(タイトル、歌詞)
"三匹の子豚"と(歌詞)
"狼男"(歌詞、タイトル)について紐解いていきたいと思います。



「赤ずきん」
赤ずきんと呼ばれる女の子がいた。彼女はお使いを頼まれて森の向こうのおばあさんの家へと向かうが、その途中で一匹の狼に遭い、唆されて道草をする。狼は先回りをしておばあさんの家へ行き、家にいたおばあさんを食べてしまう。そしておばあさんの姿に成り代わり、赤ずきんが来るのを待つ。赤ずきんがおばあさんの家に到着。おばあさんに化けていた狼に赤ずきんは食べられてしまう。



結末の違い
1. 食べられておしまい。(ペロー童話)
2.満腹になった狼が寝入っていたところを通りがかった猟師が気付き、狼の腹の中から二人を助け出す。赤ずきんは言いつけを守らなかった自分を悔い、反省していい子になる。その後、オオカミは腹に石を詰められて死ぬか、腹を裂かれる前に銃で撃ち殺されるかして、退場する。(グリム童話)




そもそも、赤ずきんとは(諸説ありますが)、フランスの民間に伝わるお話でした。その民間に伝わっていた赤ずきんの原型を、フランスの詩人であったペローが編集し、童話集を出版します。それから100年以上たって、グリム兄弟が赤ずきんを再編集しました。これがグリム童話の赤ずきんです。



赤ずきんの話には、さまざまな人がさまざまな解釈を行っています。
赤ずきんの「赤」から、性的なものを連想し、オオカミは少女をたぶらかして食べてしまおうとする無頼者とみなす解釈が多いようです。
現に、ペローの赤ずきんには、オオカミを「オオカミのおじさん」と称しているところからも、オオカミが単なる獣の類でないのは明らかでしょう。性的なものを連想させる「赤い」ずきんを被った少女とオオカミのおじさんが出会う、オオカミのおじさんは「赤い」ずきんを被った少女を食べたくなる……(参考資料:やっぱりわりと残酷だった!「赤ずきん」)



私が以前読んだ本には、狼は実は赤ずきんのお父さんで、若い頃赤ずきんと同じようにお母さんが狼に襲われ、出来た子供が赤ずきんなのではないかという説を見た事があります。そのためお母さんは街で暮らすことができなかったので、山の奥でひっそりと暮らしていた、という経緯でした。(中学生の時読んだので、少しうろ覚えですが、「本当は恐ろしいグリム童話」という本に収録されていたと思います。)



結末や背景が、時代によって異なるにしろ、赤ずきんを誘惑し、おばあさんに変装し襲おうとした大筋のストーリーは変わりません。



"「僕と俺」とを使い分けて"の最初のフレーズでは、僕=表向きの優しい狼、お花畑を教えてあげる、俺=本性、赤ずきんを食べるためにおばあさんの家に潜むというように、表と裏の顔を使い分けているという意味があるのかもしれません。



歌詞には直接的に、赤ずきんを匂わせるようなフレーズはありませんが、彼らが身にまとっている赤いフードパーカーは、赤ずきんを連想させます。


そして顔を完全に隠している姿は、おばあさんを丸呑みし、人間に扮している狼のようにも見えます。
セットの天井も大きく狼のような形になっており、赤ずきんを見下ろしている狼のように見えます。
どちらにしても隠されたメッセージが衣装やセットを通して表現されていることがわかります。




それでは次に、狼少年を紐解いていきます。



「狼少年」
羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が来た!」と嘘をついて騒ぎを起こす。だまされた大人たちは武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来なかった。そして村の羊は全て狼に食べられてしまった。
(出典:Wikipedia)



このあらすじから転じて、「オオカミ少年」という言葉は、嘘をくり返して信用されなくなった人という意味をもつようになりました。


歌詞で出てくる"俺"(主人公)も、自分を偽りすぎて麻痺をしてしまった狼青年が出てきます。



この物語から学べる教訓として「意味のない嘘をつくことの愚かさ」です。必要のない虚言をくり返すことは何の得にもならないばかりか周囲の人に迷惑をかけることになり、最終的には自分の身を滅ぼします。
そしてもうひとつ、村人たちの行動からも教訓を得ることができます。それは、「先入観に囚われると大事なものが見えなくなる」ということです。最初は、羊を守るために武器を持って外に出ます。しかし、何度も繰り返すうちに、馬鹿馬鹿しくなり、羊を守るためではなく、嘘をつく少年を無視することに重きが置かれていきます。その結果、彼らは大切な羊をすべて失うことになってしまいます。最後に学べる教訓は、「1度失ってしまった信用を取り戻すのは難しい」ということです。





「狼男」
オオカミに変身する能力がある者、或いは半人半狼の怪物を指す言葉。
次のような特徴があるとされている。
1.昼間は普通の人間だが、夜になると狼へと変身し、夜明けが訪れると朝日と共に人間の姿へと戻る。
2.呪法や道具(狼の毛皮を被るという方法がポピュラー的)を使って自らの意思で変身するケースと、満月の光を浴びて変身する外的要因で変身するケース。
狼男は、満月や夜で狼に変身するイメージがありましたが、呪法や道具でも変身するケースがあることを知りました。
「変身」というキーワードは1つの大きな柱になりそうですね。






「三匹の子豚」
イギリスに伝わる民間伝承だったようです。
だから作者は分かりません。再話して、出版されたのが18世紀後半です。(グリム童話の「狼と七匹の子山羊」に類似している点が多くあるとされています。)



原作と童話の違い

最初
【童話】母さん豚は三匹の子豚たちを自活させるために、外の世界に送り出す。
【原作】深刻な経済的事情により、三人兄弟は家を追い出される。

2.展開
【童話】兄さんはわらで家を作り、二番目の兄さんは木で家を作り、末の子はレンガで家を作る。そこにオオカミがやってきて、わらの家と木の家は吹き飛ばされてしまうけど、レンガの家は無事だった。上二人のお兄さんぶたは、レンガの家に投げ込み、オオカミから身を守れた。そして幸せに三匹で暮らしました。
【原作】
わらで家を作った豚は、オオカミに家を吹き飛ばされて、食べられる。
次に木の枝で家を作った子豚。彼もオオカミに家を吹き飛ばされ、食べられます。本当に食べられる。
レンガ家を作った子豚、オオカミの息にも吹き飛ばない家を作ったので、命は助かります。
原作と童話の違いは、家に出ていく理由が原作の方が深刻である(書かれた当時のイギリスの経済状況を表してるとも言われています)という点と、兄豚が死んでしまうところです。



そして、そこから原作では続きがあります。




【原作】子豚をどうしたも食べてやりたいオオカミは、一計を案じて、いいかぶ畑があるから一緒に行かないか、と子豚を誘う。子豚は、行くよ、と返事をする。オオカミと子豚は6時に時間を取り決めるが、オオカミの悪巧みを見抜いている子豚は、5時にこっそりかぶの収穫を済ませてしまう。それを聞いたオオカミは大激怒。じゃあ今度は……とその後もリンゴを取りに行かないかだの、お祭りに行かないかだのと誘っては、こぶたに先を越されたり機転を利かされて、オオカミはこぶたを食べる機会を逃す。
もうカンカンに怒ったオオカミは、レンガの家の煙突から侵入してやって食べてやると言う。それを聞いたこぶたは、大鍋に水を張り、暖炉の火にかけました。そして煙突から落ちてきたオオカミは、大鍋にドボン。そこにさっと蓋をして、オオカミをことこと煮て、こぶたはオオカミを食べてしまう。そして幸せに暮らしましたとさ。
と、まぁカブのくだりは私も初めて知りましたが、最後の「鍋でグツグツ煮る」という展開はどこかで聞いたことがあると思います。
歌詞の中で出てくるのは、「煉瓦の家」というフレーズだけなので、原作と童話の違いはあまり関係なさそうですが、他の童話と同様、狼は悪役で登場し、必ず制裁されて、物語は終結します。
歌詞にも「おとぎ話ならいつか落ちる雷」というように意味深なフレーズが出てきます。ここでいう"雷"は、三匹の子豚でいう"煮えたぎる鍋"のように終結を示す悪役への制裁を指しているのでしょう。




童話では必ず狼は悪役で出てくる理由には、諸説あるようですが、近代になり農耕と牧畜が盛んな時代になり、他の獲物が少なくなった狼は人間の家畜を狙って人間のまわりをうろつくようになったので、人間は狼を恐れかつ憎むようになったようです。





そんなわけで、”狼青年"の最大のキーワードは「オオカミ」と「嘘」、「夜」そして「変身」





そして、この歌には、騙している相手に向けた歌なのか、本当の自分と嘘をついている自分を重ねた歌なのかによって、解釈は変わってくると思います。





それでは考察しています。




"「僕と俺」とを使い分けて 心ゆくまで嘘を吐く"

この”心ゆくまで嘘を吐く”というフレーズには、息をするように嘘が止められない狼少年を連想させます。
ここで、重要なのは、”僕”と”俺”
自分の中に、二面性があることを自覚している主人公。
どちらかというと、”僕”が「外行きの顔」「仮面」「良い自分」で、”俺”が「本当の自分」「悪い自分」という使い分けをしているのでしょう。
”嘘を吐く”のは、相手に対しても、自分にも対しても、という二つの意味があるのではないでしょうか。




"怖いものを知らない真実が冷たく光る"

”心ゆくまで嘘を吐いている”主人公は、とっくに”怖い”という感情が麻痺していることがわかります。
”真実が冷たく光る"のは、
真実がいつまでも自分の影のように付き纏い、ナイフのように自分の喉元を突いているからなのか、それとも真実自体が温度をもっていない残酷な結末なのか。



"臆病なフリしてないで さぁ 面影重ねて迷い込んで"

"臆病なフリしてないで"というのは、
騙している相手に対しても言っているのか、
"怖い"という感情を押し殺してる"本当の自分"に向けて言っているのか。
"面影重ねて迷い込んで"の表現には、
騙している相手とキスをし惑わせているのか、
過去の自分と今の自分を重ねて、自分自身がより一層泥沼にハマっていこうとしているのか。



"きみを護る狩人はとっくに美味しく、ね"

"きみを護る狩人"というのは、
君を守ってくれる"騎士"のことなのか、
はたまた自分を押え付ける"理性”なのか。
しかし、どちらの意味であっても"とっくに"美味しく食べてしまっています。
ここのフレーズは、"赤ずきん"を連想させます。つまり、グリム童話的な結末ではなく、ペロー童話的な結末、誰も助けてくれない結末が待っていることがわかります。



"名前なんていいから好きに呼んで忘れて"

"名前なんていいから好きに呼んで"であれば、好きに呼んでほしいのだなと思いますが、
"忘れて"という言葉に、深い闇を感じます。
つまり"名前なんて覚えるほどの関係じゃない"ということです。
ゲド戦記でも、作中の世界(アースシー)では、人に真の名を教えることはその者の掌中に己の魂を委ねることと同じで、通常、真の名を隠しています。そのように、本当の名を教えないということは、本当の自分を見せていないことが分かります。



"理由ばかり欲しがるアリバイを壊して"

"理由ばかり欲しがる"のは、相手(女)のことでしょう。
"どうして私が好きなの?"とか"どうして私のことを見てくれないの?"と詰め寄る女の言葉を想像します。それを疎ましく思う主人公。

※アリバイ(または現場不在証明)
犯罪等で被疑者・被告人が犯行に関わっていないことを推認させる間接事実の一つ。

具体的に何がアリバイなのかは分からないですが、おそらく君と僕が一緒にいたというアリバイを壊すのでしょう。




"真面目なキス まるで手品のよう
暴くブラウス 床に落ちるベルト"

"真面目なキス"をしているのは間違いなく"僕"
紳士な姿しか見せていない"僕"
"理由ばかり欲しがる"君の唇を、無理やり塞ぐ。
君は驚き、目を見開く。
その隙に"俺"は、意図も簡単に、"まるで手品のように"、服を脱がせる。



"狼少年、もう一度駆け出したらもう帰れない
たとえ誰の涙が胸に光っても"

彼女がどんなに怯えたって、
彼女の"涙が胸に光っても"、
もう止められない。"駆け出したらもう帰れない"
そして、ここで残酷なのが"誰か"と言っているところ。
「名前なんていいから好きに呼んで忘れて」といった俺は、女の名前なんて覚えていないから"誰か"って言い表している。



"遮るものなどなにもない 不実な心が眠るまで
このまま彷徨い続けてゆく僕は、狼青年"

"遮るものなどなにもない"のは、洋服だけじゃなくて、今まで止めていた"理性"とかそういうものも含めて。
駆け出してしまった"不実な心"
それを自分が止めるわけでもなく、"眠るまで"というのは、自然に治まるまで待っているという意味だと思う。そして、止め方も分からない"僕"は、いつまでも"彷徨い続けて"いる。
"狼少年"が成長した"狼青年"なのである。


ここまでが一番。
"僕"を偽っていた"俺"が、"狼青年"として、彼女に牙を剥いたところまでである。




"嘘吐き呼ばわりする側で指から煙を奪い取って
本音を吐くきみに、僕も種明かしを"

"嘘吐き呼ばわりする"というのは、きっと彼女のことで、"側"と言っているので、情事が終わり隣に座っているのでしょう。そして彼女は煙草を吸っている。
そして僕は"指から煙を奪い取る"
"吐く"は、本音と煙。
そして、"誰か"から、"君"と呼び名が変わっているのも特徴。
本音を話してくれた君に対して、自分も種明かし、つまり狼青年であることを打ち明けます。
僕の中で心境の変化があったことが分かります。



"「あいつのキスそっくりでしょう?きみがいつか泣かせた」
さよならは今夜 俺らは街を出るから"

"あいつのキスにそっくりでしょう"の「あいつ」は、おそらく彼女の元カレ。主人公の言い方が少し自慢げに聞こえるのは気の性だろうか。彼女は彼氏を裏切って、僕の元に来た。2人の共通の知り合いでえることは間違いない。そして、"僕"の親友くらいに近しい人かもしれない。
"街を出る"のは、"俺ら"、つまり、彼女と二人。



"怒鳴り声 ドアを背に響く
許さなくていい 窓辺に映る嘘、月"

"怒鳴り声 ドアを背に響く"は第三者が登場したことが分かる。きっと、その元カレ。
狼少年だったら、きっと村人。連日の嘘に嫌気がさして、文句を言いに来たのだ。
その"月"は、"狼男"を連想させます。窓辺に映る自分の顔と、月があがっている夜を見上げているシーン。

"許さなくていい"は、第三者に向けて、嘘をついていた"俺ら(僕と彼女)"のことを"許さなくていい"と言っているのだと思う。



"おとぎ話ならいつか落ちる雷
でも思い上がりかな罪も罰も白々しい
牙を出して戯れたい俺首輪なんかじゃ飼えない
煉瓦の家さえ吹き飛ばして何処へだってふらり"

"おとぎ話ならいつか落ちる雷"というのは、自分が悪役だと分かっているし、幸せな結末が来ないことは分かっている主人公。グリム童話的な結末であれば、かならず悪役に制裁は下る。そう、嘘をつき続けた"俺らへの制裁"
"でも思い上がりかな罪も罰も白々しい"と開き直っているところも見られる。罪と罰すらも、馬鹿馬鹿しいと思っている姿が見られる。
"牙を出して戯れたい"自分は、完全に解き放たれた狼。"首輪なんかじゃ飼えない"と言っているのは、今まで縛り付けてた"理性"のことかもしれない。
"煉瓦さえも吹き飛ばし"は、"三匹の子豚"を連想させる。そして、グリム童話では、煉瓦の家は吹き飛ばせない。それでも、吹き飛ばせると思ってる自分は、不可能なことはないと考えている。



"狼少年、もう一度駆け出したらもう帰れない 帰らない!"

"帰れない"からの"帰らない"、という表現の違いは、"帰れない"の「不可能」という意味に近いが、"帰らない"のは「意志」がある。
自分は狼青年として生きていく意志を固めたように思える。



"狼少年、もう二度と駆け出したからもう帰れない
たとえ誰の涙が胸に光っても
遮るものなどなにもない 不実な心で眠るまで
このまま彷徨い続けてゆく
出来の悪い夢より嘘で手繰り寄せてゆく安らぎへ
ふたり番う僕ら、狼青年"


1番では「不実な心が眠るまで」が
終わりには「不実な心で眠るまで」になっている。
不実な心が眠るまで待っていた"僕"が、最後には、不実な心を受け入れている様子が伺える。



"「俺と僕」との隣り合わせ
さぁ 心ゆくまで嘘を吐いて"


"「僕と俺」とを使い分けて"いた僕は、今では隣り合わせ。
僕と俺の距離が近づき、溶け合い自分を形成していることに気付いていたのでしょう。そして、"俺"を拒否するわけではなく、ありのままの自分を受け入れて、"心ゆくまで嘘を吐く"狼青年として生きることを決意します。

以上、Honey Bee「狼青年」の考察でした。
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