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歌うこと、そして生きること

ニック・ケイヴの映像作品「IDIOT PRAYER」の配信を見て

歌うことでしか生きられない男がいる。
彼の名は、ニック・ケイヴ。1957年生まれのオーストラリアのシンガー。

彼の歌う姿を初めて見たのは、1992年にリリースされた「LIVE AT THE PARADISO」と題されたライヴ映像作品。
会場は、それほど大きくないライヴハウスのような場所。
スーツに身を包んだ彫の深い顔立ちの男が、所狭しとステージを動きまわっている。
時に腕を振り上げ、時に体を折り曲げ、一寸たりとも休むことがない。
体中を絞り上げ、体の底から発せられる激しい叫び。
そうかと思うと、何かを観客に訴えるように、ステージ前方に体を乗り出し、観客に語り掛ける。
彼の言葉はそこにいる全ての観客に向かって放たれ、確実に観客の胸に響いている。
そんな歌い方をするシンガーは、これまで見たことがなかった。

彼の名を世界にとどろかせたのは、彼がボーカリストとして参加した ザ・バースデイ・パーティというバンドである。
ポスト・パンクの担い手として、1981年にアルバムデビューし、アバンギャルドさを全面に打ち出したハードコアなサウンドは、唯一無二の存在感があった。
彼らは、数枚のスタジオ・アルバムを世に送り出した後、1983年に解散。

その後、ニック・ケイヴは、彼を中心とした ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズを結成。
アバンギャルドなサウンドから、よりロック色の強いバンドとして生まれ変わった。
「LIVE AT THE PARADISO」は、この頃の作品である。
ニック・ケイヴの体の底から発せられる激しい叫び。それは、何かロックそのものが持っているどうしようもない本質のように、私には感じられた。

だが、近年になって、激しい叫びは鳴りを潜める。

2009年12月に、ザ・バースデイ・パーティのギタリストであった ローランド・S・ハワードが肝臓ガンで死去。享年50歳。
そして、2015年7月、ニック・ケイヴは最愛の息子を事故で失う。
盟友と15歳の息子の死。

身近な存在を失った後、人の生き方は変わるものだと思う。

今から15年前のことになる。
私の母親が突然、肺炎で亡くなった。その時のことを思い出すと、何とも言えない複雑な気持ちになる。
悲しみよりも先に、私の中では父親を心配する気持ちの方が先だった。
当時、私は結婚しており、両親と別居していた。
だが、母親の強い思いがあって、同居の為の新居を建てている最中だった。
そんな中で母親が亡くなり、伴侶を失った父親は、慣れ親しんだ今の家に残る決断をした。新居が完成しても、父親が同居することはなかった。
伴侶を失い、一人で暮らす父。どんな思いで毎日を過ごしたのだろう。
一年後、母親の後を追うように、父は亡くなった。二人とも70代だったような気がする。

その時から、私は自分の妻の存在を強く意識するようになった。
もし、彼女がいなくなったら、私は生きていくことができるのだろうか。
時たま、そんなことを思うようになった。

ニック・ケイヴは変わっていった。

昨年、最新アルバムがリリースされた。
タイトルは「GHOSTEEN」、訳すと「年若き霊」。
二枚組のアルバムの中に収められた曲は、どれも静寂に包まれている。
激しい叫びは影を潜め、静かに絞り出すような歌声が、私の耳元で響いている。
失ったものを慈しむような静かな歌声。

その静けさを表現したパフォーマンスが、11月20日に配信された「IDIOT PRAYER」である。

このパフォーマンスは、ロックダウン中の今年6月に、ロンドンのアレクサンドラ・パレスで行われた。

広い部屋に置かれた一台のグランド・ピアノ。他には何もない。
何時ものようにスーツに身を包んだ男が一人、ピアノの前に座る。
彼の指がゆっくりと動くと、鍵盤から音が弾かれ、彼の口から言葉がメロディーとなって流れ出す。やがて、彼の言葉は時に優しく、時に強く流れていく。
彼の言葉は留まることがない。歌うことで、何かを受け入れようとしているのか、それとも何かを解き放とうとしているのか。静けさの中で、彼の魂だけが輝いている。
かつてのニック・ケイヴからは想像できないような姿。
時おり、何処か遠くを見つめている。瞳の先には何が映っているのだろう。

彼は、最後の曲を弾き終ると、ゆっくりと立ち上がって歩いていく。
部屋の片隅から射し込んでいる眩い光。その光の中へ彼は消えていく。
後ろ姿だけが何時までも残っている。

誰もいない部屋の中で、ピアノの周りに落ちている譜面。
その譜面に書かれている言葉。

  Once there was a song,the song yearned to be sung
  昔、ある一曲の歌があった
  誰かに歌ってもらいたいと、その歌は切に望んでいた(※1)

歌は男のすぐそばにある。そして、男は歌うことをやめることはないだろう。歌うことが、彼の生きていくことの証なのだから。

  (※1)「SPINNING SONG」の歌詞より引用
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