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社会という「アクアリウム」

文士・藤崎彩織が慈しむ「不自由」

本記事はSEKAI NO OWARIの楽曲「マーメイドラプソディー」、その歌詞が、いかに素晴らしいかを主張するものですが、読み解きは(恐らく)主観にまみれたものです。作詞者・Saoriさん(※小説家としては「藤崎彩織(ふじさきさおり)」と名乗っています)の心中を、客観的な立場から代弁するような、崇高な文章ではありません。

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自由。これほどに心地よい響きをもつ単語が、ほかにあるだろうか。

束縛されないこと、監視されないこと、行動の制限を受けないこと。それが(ほとんど)全ての人間に許されるようになったのは、ごく最近のことである。極端な例を挙げれば、リンカーン大統領の尽力によって奴隷解放が果たされるまで、一部の人たちは気の毒なことに「ごく当たり前の自由」さえも与えられていなかった。

私はどのような立場から、この記事を書き進めるか迷っているのだけど(この時点で「自由」を与えられていることになる)、日本語で記事を書く・日本人としての私は、このように「表現の自由」を謳歌している。当たり前のようなことだけど、それとて一部の国や地域では、未だに認められていないものだ。音楽を聴き(芸術作品に触れ)、何かを受けとり、考察し、このようにアウトプットを果たすまでには、実に多くのことが認められており、その「自由」は先人が必死の思いで勝ち得たものなのだ。

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コロナ禍に見舞われる現代、あらためて私たちは、自由の尊さを感じているのではないだろうか。会いたい人に会いに行けない、出かけたい場所に出かけられない、マスクを外して大声で語り合うことはできない。そういった抑圧のなかで、私たちは「限られた自由」を手に、それぞれの屈託をかかえて生きている。

以上のように、私は前提的に(原則的に)、自由というものが得難く、そして有り難いものだと考えている。それはご理解いただきたい。ライブなどの開催が難しいという厳しい環境下、それでも「楽しめること」を見出している人はいるようだけど、やはりコロナ禍によって失われているものは多いと思うし、人間がポジティブに現況を受け止められるということは、無意識のうちに無数の自由を味わっていることを意味するとも言えるだろう。

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ただ私は「自由人」を自称する人たちに対して、もとより良い印象をいだいていなかった。「何にも縛られていない自分」を標榜する人は、「自由」と「勝手」を取り違えているのではないかと、何となく危ぶんでいた(それは「他山の石」のようなものであり、私自身が自由権を濫用していることもあるはずだと、ふと恥ずかしくなることもあった)。

自由であるためには、極論すれば、ほかの誰かが不自由にならなくてはならない。そういう意味では、自由とは快適なものであり、同時に残酷なものである。自由を与えられる時、そこには「思考停止」「後退」のようなマイナスの選択肢も顕れる。そういう意味で言えば、自由とは誇らしいものであり、同時に厳しいものでもある。

いい歳になった今、批判めいたことを口にするのが躊躇われるのだけど、多くのアーティストは「自由」を題材に歌い・演奏しながら、その実、何かに縛られていたり、自由が持つ負の面・重苦しい一面を見落としていたりするのではないかと、私は考えている。「俺たちは自由だ」「自由って素晴らしい」、そういうテーマの楽曲を好きだと言い切ることは、私にはできない。

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私はSEKAI NO OWARIの作品のなかでは、Saoriさんが作詞を務める楽曲が、とりわけ好きである。Saoriさんはミュージシャンであるのと同時に、文士でもある。これほどに「自由」の響きが似合う存在は、そうそういないと思う。しかしながら言語表現という「壮大な自由」を使いこなせる才をもったSaoriさんは、その代償に苦痛のようなものを日々、感じてもいるのではないか。そんなことも考えてしまうのだ。

自由に羽ばたけるからこそ、時として何かに衝突してしまう。その感覚は、恐らくは甘美なものであり、荘厳なものであり、かつ、苦々しいものでもあるのではないか。Saoriさんが「天才」なのだとしても、それはご当人に充足だけをもたらしはしないだろう。どこまでも羽ばたける翼をもっているからこそ、自分の行動範囲の広さを「怖い」と感じることもあるのが、真なる芸術家のあり方だと思う。

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楽曲「マーメイドラプソディー」に登場する、珍しい生きもの「人魚」は、ことによるとSaoriさんご自身を指しもしているのではないか。どこへでも泳いでいけるということは、「泳いでいけてしまう」ということでもある。気が付けば「陸地」を遠く離れていて、不意に心細くなるという経験が、Saoriさんの日常には溢れているのではないか。そう私は察する。

アーティストが創作に没頭することは、沖に向かって泳いでいくような、孤独な試みだと言えるかと思う。SEKAI NO OWARIという「偉大な陸地(所属先)」を持っていても、励まし合う仲間たち・拍手喝采してくれるリスナーがいても、Saoriさんが「快」しか味わっていない成功者だと考えるのは、恐らくは早計である。

<<アクアリウムと呼ばれるその場所は>>
<<彼女に「不自由」をもたらしたのだと「人」は言った>>

Saoriさんは芸術家である以前に、ひとりの生身の人間である。この世界に溢れる様々な危険や不安、ありふれた悩み、そういったものは全て、Saoriさんの身にも迫りうる。だから彼女を「世俗から離れたスーパースター」だと見なして、華々しいステージの上にだけ(あるいは文壇にだけ)解き放とうなどとしたならば、私たちは「人魚に対して不誠実な人」に堕してしまうのではないか。

SEKAI NO OWARIの作品は、どこからか降ってきたものではない。私たちと同じような弱さを持つ人間が、日常的なやるせなさとも向き合いつつ、その身から絞り出したものである。違うだろうか。

<<ねえ、お願いよ>>
<<どうか押し付けないで>>

「マーメイドラプソディー」で人魚が「押し付けないでほしい」と願うのは、自由を獲得するためにアクアリウムから出るという選択である。誰かを解き放ちたいという「善意」は、その誰かを「心地よい不自由」から追いやってしまう「傲慢さ」でもあるのだ。他者を自由にするために何かを強いる…その自己矛盾に、私たちは時として気付けない。

<<「自由」を唱える人たちは>>
<<「人魚を海に帰すべき」と言った>>

こういったリリックに触れる時、私たちは我が身を省みて、己の善意がエゴの裏返しではないかを、熟慮すべきなのだろう。

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「自由であること」を押し付けられた「マーメイドラプソディー」の人魚は、辿り着いた場所で、かつて自分が身を置いていた「不自由な場所」、そこで会うことのできた人のことを思う。

<<初めて見た硝子の外の世界>>
<<ああ、わたしは貴方に一番に伝えたい>>
<<何て海は広いの>>

私は思う、海そのものは、必ずしも人魚に(あるいは全ての生命体に)自由を与えはしないのだと。他ならぬ人魚、その心のなかから生み出された自由が、海上で輝いたのだと。それはつまり、人がどんな場所にいようと、自由を感じようと思えば感じられるし、そうしようと試みられなければ不自由になりうる、そんな真実をリスナーに告げているのではないかと。

そう考えてみるならば「マーメイドラプソディー」は「他人の物語」などではない。人魚は私たちそれぞれを指しもする。私たちは無意識のうちに、誰かに何かを強要し、また誰かから、何かを強いられて生きている。この世界は(社会は)残酷なほどに広い海原だ。そこにあって自由を享受するには(本当に望むことを行うためには)、主体性が求められる。

<<もう待ってるだけじゃないから>>

そう人魚が決意したように、私たちも「自由に圧倒されない気概」を持っていたい。

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いま私は、この記事を書き終え、一介の鑑賞者に戻ろうとしている。自らの所属する「アクアリウム」へ帰ろうとしている。多くの制約を受ける、冴えない日常生活に戻ろうとしているわけだ。それでも束の間、自由に文章をつづれたこと、その有り難さを胸に刻み付けたい。そして自分を取り巻く環境が、どれほど不自由なものであっても、そのなかにあって一片の歓びを見出すこと、それを手にまたいつか泳ぎ出すこと、それを、あきらめずにいたいと思う。

Saoriさんという「人魚」が、私たちから期待されるイメージに押し出されるのではなく、かといって閉じ込められるのでもなく、ご当人の望む「自由・あるいは不自由」へと泳ぎつけることを切に願う。SEKAI NO OWARIの新曲を(あるいは藤崎彩織さんの新作を)「待っているだけ」の者ではありたくない。アーティストであっても、そうではなくても、私たちはそれぞれに、自由や不自由を強いられながらも生きているのだ。そのプライドを想像力に変え、Saoriさんの心中を推し量るだけのことはしていきたい。

※<<>>内はSEKAI NO OWARI(Saori作詞)「マーメイドラプソディー」の歌詞より引用
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