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うるさい静寂から生まれた鋭くてやさしいアイロニー

SEKAI NO OWARIがスノードームの中で叫ぶ逆説的な「silent」

雪の日の不思議。なぜか風の音は消え、車が走る音も途切れて、いつもなら聞こえるはずの外の雑音がほとんど聞こえない。ベッドで眠ろうと目を閉じている時、まだ眠い目をこすりながらぼんやり起床した時、外から音が聞こえないと「きっと雪が降っている。積もったかな。」と想像する。カーテンを開けてみると予想通り、純白の雪がしんしんと静かに降り積もっている、なんてことは東北育ちのため、冬になると毎年のように経験していた。

真面目に理由を考えれば、雪だから交通量が減るのは当たり前で、車の走行音が消えるのは当然だろう。でもそれだけじゃない。本当に、風やハクチョウの鳴き声など自然界の音も人間が生み出す生活音も雪の日だけは、いつもより耳には届かなくて、すべての音が雪に包み込まれたように静まり返って、束の間、白い静寂が訪れる…。

そんな冬の「silent」な瞬間に聞きたくなる楽曲をSEKAI NO OWARIが届けてくれた。先行配信されていたものの、CDとしてリリースされた12月16日は寒波の真っ只中で、雪がちらつき、降り積もる地域もあった。まるでセカオワの新しいウィンターソングが雪を連れて来てくれたみたいだ。静寂と共に喧騒も引き連れてきてくれた。静かな「silent」という楽曲のはずなのに、私の心はなぜかざわざわ騒がしくなったから。

「silent」に前奏はなく、Fukaseの歌から始まる。これまでも「RAIN」や「umbrella」といったFukaseの歌声で始まるセカオワの楽曲はあった。歌う方はたいへんかもしれないけれど、歌始まりだと聞き手としては出だしで一気に楽曲の世界へ吸い込まれる。Fukaseの歌声はどんな素晴らしい楽器の音色よりも、聞く人の心を惹きつけて止まない魅力がある。

歌始まりの場合、映画に例えると予告編、つまり映画の良いとこ取りというか、ここってシーンを冒頭に持ってきて、映画本編を見たくなるFukaseの巧みなナレーション術を知ることができる。絵本や紙芝居に例えることもできる。Fukaseは絵本や紙芝居を読み聞かせるみたいに物語を語り出すように歌うことができるから、ついつい早く続きを聞きたくなる。読み聞かせの達人だから、聞き手はセカオワが紡いだ物語を早く知りたくなってしまう。

この楽曲のメロディに関して、セカオワ王道キャッチーなキラキラチューンでクリスマスソングらしい旋律が鳴り響く。時折、荘厳な鐘の音、シャンシャンシャンという鈴の音も効果的に使われている。シャララララと流れるウィンドチャイムや鉄琴の一種であるグロッケンシュピールによって奏でられる高音がよりクリスマスらしい雰囲気を醸し出している。物語が始まる部分、AメロではSaoriの柔らかなピアノの音色がFukaseの透明感ある歌声を牽引する。まるで聖なる夜にサンタクロースに扮したFukaseをトナカイになったSaoriがピアノというソリに乗せて引っ張るみたいに。

このようにメロディにおいてもファンタジーな世界を表現するのは得意なバンドだが、意外なことにクリスマスソングは今回が初めてだという。『ROCKIN’ON JAPAN』(VOL.528)内のセカオワインタビューを参照すると、「クリスマスソング」を作ること自体に抵抗があったと。クリスマスソングと言えば定番の名曲がすでにたくさんあって、名曲に挑むには覚悟が必要だったらしい。たしかに言われてみればその通りで、アーティストそれぞれにクリスマスを象徴する楽曲が必ず一曲はあるのではないかと思えるほど、クリスマスソングは世の中に溢れている。しかも名曲揃い。言ってしまえば、クリスマスを歌うことはスタンダードすぎて、目新しさに欠ける。もはやクリスマスのシチュエーションは歌われ尽くされていて、今さらクリスマスのヒット曲を生み出そうとしても、そう容易いことではないと素人の私でも想像できる。

個人的にクリスマスソングの中でも変化球として際立っているように思えた曲は2004年リリース、松本人志が作詞し、槇原敬之が作曲、浜田雅功が歌った「チキンライス」と、2009年にリリースされたBUMP OF CHICKENの「Merry Christmas」。これらは数あるクリスマスの名曲の中でもインパクトのある個性的な歌詞で、これらの曲を超えるクリスマスソングはもはや生み出されることはないのではないかと思っていた。

しかし歳月は流れ、2020年、セカオワの「silent」は新たなクリスマスソングの名曲として台頭したのではないかと確信できた。その理由をこれから述べたいと思う。

セカオワは現実ではひとつの画に収めることが難しい、背中合わせで相反するものをひとつのシーンに共存させる魔法の力を持っている。イメージとしては、虹と太陽は表裏一体で似通っている存在だけれど、決して同じ方角で見ることはできないため、同じ写真の中に収めることはできない。そのように相反するもの同士をセカオワはひとつの画の中に並べて、共存させることができるのだ。その所以をウィンターソングを始めとするセカオワ珠玉の楽曲の中から、いくつか引用しながら見ていきたい。

まずは「スノーマジックファンタジー」の歌詞を見てみることにする。

《ねぇ、私は夏を見たことがないの、 燃えるようなあの夏を、それを見るのが私の夢なの》

“星の降る雪山=スノーランド”で《僕》が出会った《雪の精》は夏に憧れを抱いていた。《雪の精》だから、その夢を叶えようとすれば、溶けて消えてしまう。《僕》は、ただの人間だから、ずっと雪山にいようとしたら、《雪の精》の側にいることを選んだら、凍死してしまう。

《やがて、僕は眠くなってきた 君と一緒にいるという事は、やはりこういう事だったんだろう でも良いんだ、君に出逢えて初めて誰かを愛せたんだ これが僕のハッピーエンド》

対照的な夏と冬は決して共存できない悲しさを持っている。共存できない者同士が一緒にいようとしたら、死んでしまう。死ぬということはバッドエンドのような気もするけれど、愛を知れたからハッピーエンドだと言えてしまう幸せの中に宿る悲しみ。そういうシチュエーションを他のアーティストが歌ったら、ただの架空のおとぎ話に聞こえてしまうけれど、語り聞かせ上手なFukaseが歌えば、おとぎ話もノンフィクション物語に思えて、現実味が増すというか、リアルでそんな世界があってほしいと願いたくなる。

《貴方は「幸せ」と同時に「悲しみ」も運んできたわ 皮肉なものね》

「スノーマジックファンタジー」の歌詞に通じる部分が今回「silent」の中でも描かれている。

《体温で溶ける雪の結晶 触れることが出来ない 貴方は私の知らない時間の中にいる》

夏と冬が共存できないように、温もりと雪も共生できない悲しみを背負っている。あんなに美しい《貴方》みたいな雪の結晶は、ただ遠くから眺めることはできても、決して触れられない。触れたら消えてしまうという切なさ。一般的には悲劇だけれど、セカオワの場合、単なる悲劇ではなく、そこに不思議と温かい世界も作り出してくれる。

《雑音の中、貴方の声だけ心に溶けていく まるでミルクを溢した様なそんな夜》

《貴方》という存在に触れられないとしても、雪が溶けて水となり、地中に浸透するように、もらった言葉や声だけは心の奥底に染み入って、消えることはないという温かさも描いてくれている。ミルクにシュガーが溶けるみたいに、雪が大切な存在を孤独な自分の中に落とし込んでくれる。

「silent」内で歌われている《雪》は一見、《純白の雪》なんて美しいもの扱いされているように見えるけれど、やっぱり相反する意味も持ち合わせている。

《純白の雪が降る 「降るなら積もってね、汚くなるだけだから」》

雪は降っている最中、特に積もっている時だけは真っ白で美しくて、この世界の穢れをすべて包み隠してくれるけれど、溶け出すと一気に世界に汚れをもたらす。雪が溶け出した時、車を走らせると、普段以上に汚れが目立つ。雪解けのぬかるみを歩けばとにかく汚れる。溶け始めると水の滴り落ちる音も聞こえて、静寂どころか賑やかな世界が戻って来る。つまり雪が世界から音さえ消すほどすべてを閉じ込める美しい時間なんて、ほんの刹那の出来事なのである。

そのほんの瞬間的な時間に、相反するものを同じ空間に置き、ひととき共存させてくれるのがセカオワの紡いできた音楽と言える。夏と冬、幸せと悲しみ、体温と雪、純白の美しい雪と汚くなる運命も持っている溶け出す雪など…。

明確なクリスマスソングは「silent」が初めてだけれど、「スターライトパレード」においてもクリスマスを匂わせていて、やはり相反するイメージの言葉が使用されている。

《聖なる夜に“world requiem”を謳うと 星に願うんだ》

クリスマスはキリストが生まれた日で昔からおめでたい日と捉えられがちだが、セカオワの場合、“世界の鎮魂歌”を歌うと断言している。生誕祭を讃美歌でお祝いしましょうという一般論を蹴散らして、“レクイエム”をクリスマスに歌う情景を歌詞にしてしまうなんて、なかなか他のアーティストには真似できることではないだろう。

それが今回「silent」においてはもっと端的に表現されている。この強烈なフレーズを一番目立つサビに持ってきたところが、今までの名曲クリスマスソングを覆したと考えた最大の理由である。

《クリスマスなんて無ければ いつも通りの何にも変わらない夜なのに》

セカオワ初のクリスマスソングと言っているのに、まるでクリスマスを真っ向から否定しているような歌詞にドキっとしてしまった。クリスマスなんて無い方が良いなら、普通なら、じゃあクリスマスソングはやめようと思うはずなのに、敢えてクリスマスなんて邪魔だというようなニュアンスの言葉を選んだFukaseをますます尊敬した。

しかもこの楽曲を作った時期は夏らしい。クリスマスをイメージするには難しい暑い時期に、無理矢理冷たい雪を思い浮かべて、寒い冬に思いを馳せて、天使みたいなやさしい歌声の中で、アンチクリスマスみたいな悪魔の邪念を隠さず本音で挑んでくれたことに頭の下がる思いがした。

聖なる夜だから、邪心なんか忘れて、清らかな旋律の讃美歌を歌えばいいというクリスマスの暗黙の掟を破ってくれたことがうれしい。
むしろ本来のクリスマスの意味が変わりつつある今の時代、クリスマスは単なるみんなで楽しむイベントと化していて、その輪の中に入れない孤独な人たちにとっては、《クリスマスなんて無ければ》という気持ちはずっと抱え込んでいた本音であり、Fukaseくん、よく歌ってくれましたと拍手したくなる。

でもクリスマスを心から楽しめなくて僻んでいる歌というわけではない。

《空を見上げて一人呟いた 消えて欲しいような言葉だけ だけど心の音だけは この雪も奪えない》

雪の降り頻るクリスマス。《街から音が全て奪われていった》はずなのに、自分の心の音は消えるどころか、周りが静か過ぎる分、悪目立ちしてしまって、胸が苦しくなるという状況で、別にクリスマスを恨んでいるとか、クリスマスなんて本当に無くなればいいという気持ちとは少し違う。

《静寂の音が煩くて 今夜はきっと眠れない》

静かなホワイトクリスマスの一人きりの夜、自分の心の声だけ聞こえたらたしかにうるさくて眠れない。でもその心の音は普段は賑やかな雑踏の音でかき消してしまっているだけで、普段から自分の中にある音で、本当は気付かなきゃいけない思いや本音だったりするから、1年の中で1日くらい自分の心の音と向き合う時間は必要かもしれないと、つまりいつもより孤独を感じてしまうクリスマスがあって良かったと、《クリスマスなんて無ければ》と否定的に歌うことによって、逆にクリスマスを肯定している気にもなるのである。

クリスマスに《貴方》と一緒に過ごせないから寂しい、一緒に雪を見られなかったから悲しい、大切な人と過ごせてる人たちが羨ましい、幸せそうな人たちが妬ましい…などそんな《消えて欲しいような言葉》を呟いてしまうということは、《私》の中に大切な《貴方》がいる証拠で、ぼっちには違いないけど、でも《貴方の声》をいつも以上に思い出せる夜だから、《スノードーム》の中に閉じ込めたいほど煌めく大切な瞬間でもあるということかもしれない。

《こんな真っ白な世界の中にいたら 自分だけちょっと汚れてるみたい》

美しい雪が降る聖なる夜に孤独が故、煮え切らない思いを抱えて、心からクリスマスを祝福できない“汚れている自分”と、“穢れなき雪”という対比構造もポイントである。

セカオワが歌う情景はいつでも《スノードーム》にしたくなる瞬間ばかりで、飾っておきたくなる音楽でもある。
その情景には相反する定義や概念が必ずあって、対照的なものたちが共存する奇跡の瞬間を音楽として聞かせてくれる。共生が難しいもの同士をひとつの音楽の中で音符と音符でしっかり結び付けてくれている。
外の雑音、雑踏が孤独感をかき消してくれて賑やかな方が心静かに過ごせること、逆に雪で雑音が聞こえず静かだと心の音ばかり目立って、静寂の音がうるさいという新しい発想のアイロニーを「silent」という新曲内で教えてくれた。

「Dragon Night」においては“戦い”と“正義”という背中合わせで両立なんて絶対不可能と思えるものも、ひととき手を取り合って一緒に歌うことくらいはできるじゃないかと共存が難しいもの同士の共生を音楽で模索してくれている。

《今宵は百万年に一度太陽が夜に遊びに訪れる日》

夜に太陽なんて本来あり得ない光景も、相反するものを共存させることが得意なセカオワが歌えば、《スノードーム》に閉じ込めておきたくなるほど愛おしくて、もしかしたらいつかそんな日が本当に訪れるかもしれないと希望を持たせてくれる。

“正義”が正しいわけじゃなくて、“正義”があるから“戦い”が起きる、“戦い”を休むということはつまり“正義”も休んで、友達のように歌い明かせばいいという「Dragon Night」で示された平和的スタンスはセカオワのどの楽曲にも引き継がれているのである。

「マーメイドラプソディー」では“自由”と“不自由”がテーマとして歌われていて、自由を知らない人魚は人からは不自由と思われる場所でも自由を感じて生きていた。本当の意味で自由な場所に帰された時、孤独が押し寄せてきて、心は不自由になった。不自由と思われる場所はつまり自由を制限されて自らはあまり動くことのできない場所には《貴方》が必ず訪れてくれるから、孤独ではなく、人魚にとっては不自由な場所こそ居心地の良い場所だったという物語調の歌の中でも、“自由”と“不自由”という背中合わせのものがたしかに共存している。
《ダンスホール》にもなる《アクアリウム》内で展開される情景もやはり《スノードーム》の中に閉じ込めたくなる煌めく瞬間である。

「イルミネーション」においては、《純白の街》の中に灯る《緑や赤の綺麗な光》とは対照的に、《汚れたような色》=《鼠色》を登場させ、「イルミネーション」というタイトルなのに、《強いようで弱い でも弱いようで強い君へ贈る色 グレー》とグレー色に華を持たせている。《クリスマスなんて無ければ》と同様、本当はカラフルな“イルミネーションなんて要らない”みたいな皮肉を歌うことによって、隠れた部分や目立たない色が逆に強調されて、物事の本質を教えてくれている。「silent」で雪の降る静かなクリスマスのおかげで、うるさいほど心の音が聞こえてしまったように、「イルミネーション」では“赤、青、黄色”など煌めく色のおかげで、“鼠色”を強調させることに成功した。輝かしいものの陰に隠れている背中合わせのものを思い切り煌めく華やかな旋律に乗せて、輝かしいものと対等に並べて歌ってくれる。

繰り返しになるが、「silent」はセカオワ初のクリスマスソングで、現代のクリスマスの核心をついた革新的な名曲になったに違いないが、単純にクリスマスを歌いたかったわけではないと思う。
華やかなクリスマスに隠された“静かな心の内”の歌を歌いたかったから、“サイレント”というタイトルになり、静けさを強調させるために“純白の雪が降るクリスマス”が必要だったのだろう。

《純白の雪》、《ミルク》、《真っ白な世界》など白色一色で穢れなんて微塵も感じられない煌びやかな世界を歌っていると思いきや、積もらなければ汚くなる雪、消えて欲しいような言葉、ちょっと汚れているような自分という美しさに反するみたいな汚れた世界もちゃんと描いていて、決して綺麗事では済まないのがセカオワの音楽である。

綺麗事な歌詞が似合いそうなファンタジーなメロディだけ聞いていたら、想像もつかないような逆説的な発想の言葉の数々にいつも驚かされる。メロディが正統派ポップスで少しも曲がっていない模範生みたいなのに、歌詞となるとくせが強いというか、風刺や皮肉も多くて、しかもその歌詞は物語調が多いため、一見するとただの想像上のあり得ないファンタジー作品と捉えることができるから、風刺や皮肉をオブラートに包むことができていて、あまり露骨ではない分、誰でも親しみやすく、結果としてヒットするのだと思う。

今回も真っ白な雪や華やかなクリスマス、キラキラのクリスマスらしい旋律に紛れて、穢れなんて程遠い透明感溢れるやさしい歌声に包み込んで、孤独な人たちの心を代弁するかのようにクリスマスに関するネガティブな本音を最高に美しく響き渡るFukaseの高音ボイスで歌ってくれた。

《クリスマスなんて無ければ》とサビで力強く絶叫してくれた。

このインパクトのあるクリスマスをディスっているのかと思わせるような辛辣なフレーズはFukaseが歌うからこそ、意味がある。パンクバンドが世の中に物申す的に歌うことも可能かもしれないけれど、それではありきたりすぎて面白みに欠ける。セカオワみたいな王道ポップスを得意とする良い子に見えるバンドが、歳を重ねても変わらず伸びのある高音で天使みたいに歌えるFukaseが、やさしく《クリスマスなんて無ければ》とひねくれた悪魔が呟きそうな言葉を発するから、より魅力が際立つのである。

「silent」はセカオワが奏でるからこそ、クリスマスの名曲の仲間入りを果たせた。セカオワじゃないと意味がなかった。絵本を読み聞かせるように物語にメッセージを込めて歌えるFukaseがボーカルだからこそ、近年稀にみる現代版クリスマス物語の至極の一曲となったに違いない。相反するもの、対照的な定義や概念を同じシーンで歌うことに慣れていたセカオワが、定番の名曲クリスマスソングたちに果敢に挑戦した結果、鋭くてやさしいアイロニーが含まれたセカオワらしいクリスマスの新しい名曲が誕生したのである。

この楽曲のMVのサビの部分において、Fukaseは笑みさえ浮かべて楽しそうに活き活きと《クリスマスなんて無ければ》と歌っている。ネガティブなフレーズを幸せそうに歌う違和感が心地良い。字面通り、恨めしそうに悲しそうに歌われるよりも、心に刺さる。つまりクリスマスソングらしい煌びやかな旋律にある意味相応しくないシビアな《クリスマスなんて無ければ》というフレーズが乗ることにより、クリスマス風刺感が強まり、静寂がうるさい“サイレント”という逆説的に説かれた曲「silent」が完成したのである。この鮮烈なフレーズがなければ、タイトル通り静かでありがちな「silent」という曲になっていたかもしれない。

「silent」はクリスマスソングであると同時に恋愛ドラマ主題歌でもあり、セカオワにしては珍しく恋愛色が濃い楽曲でもある。
《クリスマスなんて無ければ》というサビが好きすぎて、このフレーズばかり突き詰めて考えているうちにふと気付いた。
このフレーズは槇原敬之の大ヒット曲「もう恋なんてしない」に近い部分があると。

《もう恋なんてしないなんて 言わないよ 絶対》

というように、恋は成就しないと苦しいものだけれど、でも人を好きになれる気持ちや幸せをもたらしてくれるから、失恋したとしても、やっぱり恋って悪くばかり言えないよねということを教えてくれたこの失恋ソングを思い出して気付いたことがある。

クリスマスと恋は似ていて、クリスマスと恋は置き換えることができると。
《クリスマスなんて無ければ》(恋なんて無ければ)と思えるほど、苦しくて幸せなクリスマス(恋)がやっぱりあって良かったということをセカオワは伝えたかったのではないかと。

孤独主義でクリスマスや恋なんて必要ないと強がっていても、結局クリスマスや恋に憧れてしまう人は少なくないだろう。
そんな人たちにお決まりのハッピーな恋人たち向けクリスマスソングや哀愁漂うぼっち感の強いクリスマスソングを聞かせても、前者の曲なら拒絶され、後者の曲なら親しみすぎていて、今さら真剣に聞いてはもらえないかもしれない。

しかしFukaseがクリスマスも恋も本当はあって良かったよね、なければないで寂しいよねという意味も匂わせながら、《クリスマスなんて無ければ》と逆説的に歌ってくれたから、「silent」はどんな人の心にも響くクリスマス恋愛ソングになったのである。「もう恋なんてしない」に倣って“クリスマスなんて無ければ なんて言えないけど”などと“無ければ”の後に真意をはっきり述べてはいない。あくまで逆説を匂わせるだけで、その分、聞き手に想像する余地を与えてくれている気もする。

《いつも通りの何にも変わらない夜》のはずなのに、なぜかクリスマスはひとりきりだと寂しい気持ちに襲われるし、何も予定がないと虚しくもなるけれど、でもやっぱりそんなクリスマスがなければもっと寂しいし、幸せだけでなく寂しい感情も引き連れてくるクリスマスが愛おしくなる気持ちをこの楽曲が思い出させてくれた。つまりクリスマスを否定する痛烈なフレーズで実はクリスマスをやんわり肯定している点が新しいクリスマスの名曲になったと言える一番の理由なのである。「silent」は、ぼっちな歌ではあるけど、静寂や孤独を憂うのではなく、むしろそれらを楽しんでいるようにさえ聞こえる不思議な魅力を持っている楽曲なのである。

愛くるしい天使みたいな歌声の中に秘められた悪魔が囁きそうなフレーズを選んだ、二面性をもったFukaseと、そんな相反するもの同士を共生させる不思議な魔法みたいなパワーを持っているSEKAI NO OWARIの音楽に、この冬またしても心揺さぶられた。

最後に雪の日の思い出。雪が積もると、短く切った割り箸を十字にして、それをタコ糸で結った小さな竿を作ってもらい、雪釣りをして遊んだ。ナンテンの木の葉と赤い実を使って雪うさぎを作った。庭では雪だるま、かまくらも作ってもらった。「silent」を聞いていたら、純粋だった幼い頃の、冷たい雪の日のあたたかい温もりを思い出した。

今朝起きたら、雪が積もっていて、時間が止まったように静まり返る雪景色を出窓から眺めた。真っ白な雪に光が反射して、世界がいつもより綺麗で明るく見えた。無邪気に雪遊びを楽しめていた子どもの頃と比べたら自分の心はすっかり穢れてしまったな…と純白の雪を見たら、そう感じた。

そしてセカオワメンバー4人のマスコット入り、「silent」が流れるスノードームが欲しくなった。雪が見える出窓に飾りたいなんて密かに思い描いている。静けさをまとった雪がちらつく今夜は、セカオワの「silent」にときめく心の音がうるさくてやっぱり眠れそうにない。
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