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この世に音楽は必要か

flumpool 10th Tour 「Real」にみる

この世に音楽は必要か。
今年ほどこのことについて考えた年はない。
今もまた、こうしてぼんやりと考える。
午後5時、夕日が名残惜しく沈んでいこうとしている。オレンジ色が空の隅っこのほうで微かに滲んで、まもなく暗くなる時間だ。
私は愛犬の柴犬を連れ、イヤホンで音楽を聴きながらヘッドライトが通り過ぎてゆく道を歩いている。
今ちょうど流れている『車窓』の優しい歌声が、夕方の雰囲気に合っていて、勝手に"エモい"気持ちになった。


犬の散歩ですら、音楽を聴くことをやめられない私にとって、こんな疑問は愚問なのかもしれない。
けれど、世の中の人たちが全て、私のような人であるわけではない。そんなことはとっくにわかりきっていることだ。むしろ音楽なんて大嫌いだという人もいるだろう。
特に今年は、音楽に限らずエンターテイメント自体の必要性が問われ、それを議論する機会さえ与えられなかった気がする。エンターテイメントは"後回しにされるもの"、"見捨てられるもの"であったのだ。ときに虐げられ、不要不急だとも言われた。つまりは、ストレートに言えば、"どうでもいいもの"なのだ。
ただ純粋に音楽を愛する人、純粋に音楽に邁進する人たちが悪く言われることもあった。かつてライブハウスが批判の的になったことも、記憶に新しいだろう。
たしかに、音楽は、"普通に健康に"生きる人にとって、命に関わることでもないし、生きていく上でないと困るものかと言われればそうではない。音楽なんて聴かなくなって、充分生きていける。
さらに言えばライブやコンサートなんてものは、一生のうちに一度も行かない人だっているわけで、興味のない人からすれば、あってもなくても"どうでもいいもの"でしかない。そうでないとしても今年は、人命に関わる一大事だった。だからライブやコンサートやフェス等が延期・中止になることはやむを得ない。仕方ない。音楽よりも大衆の命のほうが大切だと解っていても、音楽を愛する者にとっては煮え切らない気持ちがあっただろう。仕方ない、というたった一言で済ますことが、どうしようもなく悔しくても、仕方ない、これでしかないのだ。
というかそもそも、コロナ云々に関わらず、音楽を聴くことはあっても、実際に生で聴くほどではないという人が多くいるのも事実だ。
ほんとうに無慈悲だ。無慈悲だけどこれが現実なのである。

しかし音楽を愛する1人として反論させてほしい。
大衆にとって"どうでもいいもの"であったとしても、誰かにとっては"かけがえのないもの"なのだ。生き甲斐かもしれない、生きる希望かもしれない、命綱なのかもしれない、いやいやむしろ命より大切なものなのかもしれない。それは本人にしかわからないことだけど、少なくとも私は、生き甲斐で人生そのものだと思っている。かつては命綱だったこともある。たとえば、学生時代に何もかもが嫌になって自暴自棄になっていたとき、flumpoolの『大切なものは君以外に見当たらなくて』という曲に何度救われたかわからない。この曲を聴くために生きていた、というより、自分以上にflumpoolのために生きていたと言っても過言ではないくらいだ。新曲を聴くために、CDをゲットするために、ライブに行くために、というように。結果、flumpoolのために生きていたことは自分のためだったのだ。これはきっと今も変わらないと思う。
同じように、自分にとって好きなもの・人がその人にとっては何よりも大切というケースはよくある話だろう。もはや依存の域に達していることもしばしばある。
そこまでいかなくとも、CDを買うため、グッズを買うため、ライブに行くために仕事をしているといった人は大勢いるし、1年に1度のフェスに全てを懸けている人もいる。つまり音楽は生活の一部であり、"普通に健康に"生きていくために必要な生き方のひとつなのだ。

私たちは、オレンジ色に滲んでいく夕方の空を見て美しいと思うように、生まれた赤子を見て愛おしいと思うように、ひとつの音楽に美しさや愛おしさを感じるのだ。そしていつか、音楽はその人の骨となり血となり、その人を形成するものの一部、もしくは大部分になるのである。

それにどんなに音楽に興味がない人であっても、背中を押してもらった、雰囲気を作ってもらった、想いを伝えるツールにした、家族や友人と盛り上がったなど、1曲にお世話になったことはあるかもしれない。思い出を脳裏に呼び起こすような、思い入れのある1曲があるかもしれない。
もっと近いところで言えば、音楽は、ドラマや映画といった物語に色と幅を持たせるし、喋る人に彩りを与える。
もはや好き嫌い以前に、音楽は無意識のうちに人間の側にあったのだ。遠い昔からずっと。

それなのに、いざ一大事だというときに真っ先に切り捨てられる。これだけ長いこと音楽の有り難みを説いても、結局は"どうでもいいもの"だからである。結局は嗜好品にしかすぎないのだ。
私はただ悔しかった。音楽を愛する全ての人の思いを踏み躙られたような気がして、ただただ悔しかった。しかも相手はウイルスという目に見えないどうしようもない相手だ。反撃のしようもないから余計に悔しい。
仕方ない、わかっているけれど。喚いたってどうしようもない、百も承知だけど。だって音楽より命が大切だもの。わかってる、そんなことわかってる、仕方のないものは仕方ないと言い聞かせて、心のつかえに蓋をして身を潜ませるしかなかったのだ。
そうやって、今年行く予定だったライブが延期・中止になるたびに、生きる希望がまたひとつ消えたと意気消沈しながらも、奥歯を食いしばって今日まで過ごしてきた。

flumpoolの今年のツアー「Real」も本来なら夏頃から始まる予定だった。
もちろん私も、コロナが蔓延するまではその日をいまかいまかと待ち侘びていた。それが延期となり、10カ所前後行く気でいたこのツアーも、年内は1カ所に留まった。
それが先日の三重公演だった。
行ってもいいものか、もちろん葛藤はあった。こんなにも晴れ晴れとしない楽しみはなかったかもしれない。それでも私は行くことを選んだ。今思えば、その選択をできた私はとても恵まれていたのだ。この日こそライブに行ける有り難みを実感した日はない。恵まれていることに感謝して、一瞬一瞬を噛み締めようと思った。

そして2020年12月13日、三重県四日市市文化会館。
待ちに待ったflumpool。というか、ライブ自体が1年ぶりだった。
連絡先の提出、検温、手指消毒、ソーシャルディスタンス、マスク着用、声出し厳禁と戸惑うことも多かった。それでも会場に集まった人たちの顔はどこか浮かれ気味で、この暗かった1年に光がさすような心地だったことを覚えている。
序盤は戸惑いだらけの雰囲気で右往左往する私を含めたオーディエンスだったが、メンバーがしっかり引っ張っていき、1曲、また1曲と終わっていくたび、会場の雰囲気は暖まっていく。
MCのスベり具合といい、いつもの調子でこなしていくflumpool。時に力強く、時に優しく。
今回は一段と優しさが色濃かった気がする。というのも、隆太さんは何度も私たちを肯定して気遣ってくれた。ここに来た人たちの勇気はもちろん、来ないという選択肢を選んだ人たちの勇気も全て、まるごとひっくるめて受け入れてくれたのだ。
「今までよく頑張ったね」
彼は優しく微笑みながら言う。続けてこう言った。
「こんな時代になってしまったけど、今日この時間を選んでくれてありがとう、来るという勇気を持ってくれてありがとう」
隣と後ろで、元気さんも一生さんも誠司さんも穏やかな顔をしていた。
そしていつものように、flumpoolらしいあたたかい雰囲気で音楽を奏でる。
その瞬間、私の心にあった葛藤がじんわりと消えていく音がした。私が選んだ選択肢は間違いではなかったと。それが決して多数決で言えば正解ではなかったとしても。
左右をきょろきょろしながら何かに怯え、小刻みに震えていた手を、彼らはしっかりと掴んでくれた。そしてそのうちに震えが止み、安堵を覚えるのだ。まるで、ひとりぼっちの子猫が、やっと母猫を見つけ安心して眠りにつくように。そうしてまた地に足をしっかりつけて歩いてゆけるのだろう。

終わる頃には、今までと遜色ない、は言い過ぎかもしれないけど、負けないくらい盛り上がっていた。そして何より、ここに集まった人たちの帰り際の目が、美しく輝いていたことは印象深い。
声は出せなくても、各々身振りや手振り、手拍子で一生懸命に応える人たちの姿には、flumpoolへの愛をこの上なく感じたのだった。
それに、いつもなら歓声が飛び交う会場で、誰1人声を出さなかったのは、ルールは守らなくてはいけないという責任感とともに、flumpoolの未来を、音楽の未来を、心から信じているからだと私は思う。

堂々と力強くパフォーマンスする彼らも、本当は、葛藤があったかもしれない。でも彼らはそんな姿を一切見せなかった。それどころか、会場にいる誰よりも楽しんでいるように見えた。まるでこの、今までにない異様とも言えるライブを逆に楽しむように。彼らは今を楽しんでいたのだ。もちろん会場も、自分自身もまたそれに続いていく。
いつ再延期・中止となるかわからない状況は今も変わらないけれど、延期してでも、なんとしても開催するという意地がflumpool側にはあった気がする。それだけ今にかける思いが、まさしくflumpoolの「Real」を届けたいという思いが、彼らには強かったのだろう。
そうしてはっとした。
そうか、私はそんな彼らを、そんな会場を、そしてそんな自分自身をみるためにflumpoolを、音楽を追い続けてきたのかもしれない。そして今、こんな時代の今だからこそ、それが必要だったのだ。この暗く辛いときを乗り越えるために。


今、音楽という味方を手に入れた私が、これを読んでくれている人に伝えることがあるとするならば、たったひとつだ。
生きろ。何があっても。泣きじゃくっても弱くても辛くても、逃げてもいい、負けてもいい、とにかく生きろ。
私が言うのもおかしな話だが、自分に言い聞かせるためにも、乱暴であっても声を大にして言いたい。
あなたが、私が、明日、生きて目を覚ますなら、必ず音楽は、あなたの、私のそばにあって、今までもこの先も、心に寄り添い続けるはずだ。そして、あなたが生きていることを肯定し続け、あなたの人生に彩りと勇気と根性と優しさと愛情を与えることだろう。
音楽は絶対に消えやしない。それがどんなに青くさいと嘲笑われても。


<いつだって 苦しくて 狂おしくて
諦めたい瞬間は来る
迷惑って思うなって 忘れないで "僕ら"が待ってる
片方で泣いたって 片方で笑えるなら生きてゆける
大丈夫 胸張って 優しい手を 
ただただ握り返して>
『HELP/flumpool』


諦めない彼らと私たちがいる限り、いつかきっと、きっと、大好きなバンドの姿を、大好きなアーティストの姿を、大好きなflumpoolをこの目で堂々と観られるから。そしたらこの手を高く高く伸ばして、同士と共に高らかに歌おう。
音楽を愛し信じる人たちが、いや、この暗く辛かったこの1年を耐え抜いた全ての人が、来年こそは楽しかったと言える1年になりますように。切に願う。


イヤホンから流れる音楽がまた1曲と終わる頃、空には星が瞬いていた。
益々冷え込んできたしそろそろ帰ろうか。
そっと愛犬のふわふわした頭を撫でる。愛犬は目を細めてそれを受け入れた。



この世に音楽は必要か。
答えはもちろんイエスだ。
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