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捨て猫みたいな私が猫色に染められた幸せで何気ない日々

あいみょんが描き出すやさしい幻・信じたくなる嘘に命を吹き込んだDISH//・北村匠海

私はうちの猫の本当の名前を知らない。うちで飼い始めたのは10年ほど前からで、元々は近所の家の猫だった。そこの家では野良猫なのか、飼い猫なのか判別しづらい多くの猫たちがゴロゴロたむろしていて、気弱で臆病な猫にとっては快適な場所ではなかったらしい。その家に住んでいた飼い主のおばあさんが亡くなり、もう一人の住人の方は仕事で留守にしていることも多く、つまり守ってくれる人がいなくなってしまい、ついには逃げ出して来たというのが私の憶測である。

しばらくは近所を彷徨う放浪猫だった。時々うちにも遊びに来て、にぼしを与えたりしていたけれど、「にゃん」とも鳴かなかった。もしかして声を出せない猫なのかと思うほど静かな猫だった。餌をあげても絶対触らせてもくれないし、とても警戒心の強い猫だった。人間の勝手な偏見で、その猫は端正な顔立ちな分、気取っているようにも見えて、ぱっと見少し怖いというか、目つきが悪く見える時もあったりして、なかなか歩み寄れなくて、最初のうちはお互い距離のある関係だったと思う。

玄関までは餌を置けば入ってくれるようになった。でも食べればすぐに外に出てしまう。餌で釣るようにして、居間までおびき寄せたり、少しずつ距離を近づけたつもりが、でもやっぱり「にゃん」とも鳴かないし、決して触らせてはくれなかった。
それに放浪しているとは言え、元はよその家の猫だから、勝手にうちの猫にするわけにもいかない。見守ることしかできなかった。

他の猫たちとはうまくいかなくても、人間たちとはまぁまぁうまく付き合っているらしく、うち以外の近所の家でも餌をもらっていたらしい。世渡り上手というか、人の心が分かる、空気の読める猫だなと感心していた。隣の家では「ハナちゃん」という名前で呼ばれているのも聞いたことがあった。

ある時は、自分が生んだ子どもなのか、子猫を一匹連れて来たこともあった。しっぽでじゃらして遊ばせたり、良き母親という感じだった。その後しばらくして、娘猫も子猫を連れてきたので、つまりはおばあちゃんという立場になっていた。孫の猫はとてもかわいくて、おばあちゃんとして娘にしていたのと同じように、しっぽで遊ばせたり仲睦まじい微笑ましい姿を見せてくれたりもしていた。娘猫と孫猫は近隣の家の飼い猫になっている様子だった。

その頃になると、自ら家の中に入りたがるほど、うちの家族にも慣れて、でもやっぱりよその家の猫だし、飼うわけにはいかないということで、母は猫を家の中に入れないように、ペットボトルなどでバリケードを作ったり、無駄な抵抗をしていた。猫のジャンプ力は侮れない。そんなバリケードは悠々と飛び越えてしまうことができるのに。

あれは夕焼け空が美しい夏の日のことだったと思う。
(※以下、DISH//「猫」の歌詞を所々で引用する。)

《夕焼けが燃えてこの街ごと 飲み込んでしまいそうな今日に》

台風が接近していて、夜になると雨風が強まった。猫がやっぱり家の中に入りたがって、車の下でじっと待ち構えていた。さすがに不憫に思った母が、一晩だけのつもりで家の中に入れて、泊まらせたら、帰らなくなってしまった。
仕方なく、うちの猫として飼うことに決めた。本当の名前を知らないので、とりあえず猫だから「にゃん」という単純な名前をつけて、その日以来、うちの猫、「にゃんちゃん」になった。(後日、事情を話して、元の飼い主さんの許可ももらい、正式に我が家の猫になった。)
声はとても小さいけれど、キレイな声で「にゃん」と鳴いてくれるようにはなった。少しずつ頭など撫でさせてくれるようにもなった。

それから10年の月日が流れ、今となっては、大きい声で「にゃんにゃん」、「にゃあにゃあ」うるさいくらい鳴いて、餌をねだるし、自ら頭を人間の足に摺り寄せてくる。父が椅子に座っていれば、父を椅子代わりにするみたいに、膝元に乗っかるし、母が眠っていれば、布団の中に入って、一緒に眠る。妹が散歩していれば、まるで犬みたいについて歩って、一緒に散歩をする。私の元には基本的にはおなかが減った時に来てくれて、部屋のドアをカリカリ爪で開けようとする。スライド式の軽いドアなら、爪を引っ掻けて、簡単に開けてしまう。猫の爪があんなに丈夫なんて知らなかった。

しかし我が家はそんなほのぼのしたムードが続く家庭ではないので、定期的に起きる妹の癇癪や騒動の時は、いち早く察知して、安全な場所に隠れるか、外へ逃げ出す。絶対向かっていくことはしない。人間たちのちょっとした異変にすぐ気づき、自分の身の安全を確保する。言い争ってばかりの人間なんかよりずっと賢い猫だといつも感心する。

《明日が不安だ とても嫌だ だからこの僕も一緒に 飲み込んでしまえよ夕焼け》

何事もなく、明日を無事に迎えることができるのか、うんざりする家庭内にいて、家族にとって唯一の救いが猫だと思う。妹が大声で叫んでいると、大きな音を嫌う猫は私の部屋に助けを求めて、入りたがるので、布団の上にちょこんと乗せる。ゴロゴロ喉を鳴らしながら、布団を踏み踏みする。騒がしい音が聞こえるけれど、猫が近くにいてくれるだけで、なんとなく癒された。目を逸らしたくなる現実を忘れることができた。
それは私だけでなく、家族も同じことで、家庭内で衝突があった時は、父も母も妹も、それぞれ“猫”という存在に救われていた。猫を撫でれば、嫌な気分が晴れる気がしたし、禍根を軽減できる気がしたし、猫に話し掛ければ、話を聞いてくれているみたいで、慰められた。みんなそれぞれ都合の良いように、猫と会話していると思う。「にゃん」しか言わないから、人間にとって都合良く解釈できる返答で、「そうだね」って肯定して慰めてくれている気がして、いつしか我が家で一番愛される存在になっていた。

本当は「にゃん」という言葉には「また言い争ってるの?」とか人間に呆れる心情が込められているかもしれないのに、自分の言葉に寄り添ってくれていると勝手に思い込む人間って単純だなと思う。
だけどこうなると、もっと都合良く考えてしまうもので、そもそも本当の名前も知らないこの猫、この子、にゃんちゃんは破綻しかけている家族を救うために、誰かが猫になって、現れてくれたんじゃないかとさえ考えるようになった。

《猫になったんだよな君は いつかフラッと現れてくれ 何気ない毎日を君色に染めておくれよ》

うちの家族を助けるために、気をもんだご先祖さまの誰かが、猫になって仲裁してくれているようにも思えるし、老人ホームに行ってしまった祖母が心配して、猫になって見守ってくれている気もする。昔、一緒に遊んでいた野良猫たちの生まれ変わりのような気もする。とにかく、うちの猫は特別でかけがえのない存在になってしまった。

ごく稀に、家の中で猫と私の二人きりの1日があったりする。そんな時は頼れる人間は私しかいないので、いつも以上に「にゃあにゃあ」うるさい。何か言葉を話しているようにさえ聞こえる時がある。同じ「にゃあ」でもいろんなパターンがあるから、たまに「お母さん」とか「お姉ちゃん」とか空耳だけど、何か会話しようとしているなって思える時がある。特に二人きりの時は。でも結局は猫と人間なので、完全に言葉を理解し合うことは難しい。言葉なんて使わなくても、分かり合えることは多いけれど、でもやっぱり可能なら、ちゃんと猫語も理解できたらいいのに、または猫が人間の言葉をしゃべってくれたらいいのにと考えてしまうこともある。もしもこの子が猫じゃなくて、人間だったら、愚かな私たち家族にどんな言葉をかけてくれるだろうと想像することもある。

《若すぎる僕らはまた1から 出会うことは可能なのかな 願うだけ無駄ならもうダメだ》

1日中、一緒にいるどころか逆に、何日も会えない時もある。特にここ数年は実家に寄り付けないことも増えたので、一人で借りている部屋にいると、誰とも会えないことはそれほど苦にはならないのに、猫に触れたい衝動に駆られる時がある。これは猫を飼ってみないと分からないことだった。野良猫たちと遊ぶことはあっても、猫を飼ったのは初めてのことで、こんなに長く猫と一緒に過ごしたことはなかった。だから、あのもふもふの何とも言えない絶妙な柔らかさで触り心地の良い毛並み、命の温もりを感じられるやさしい瞬間は他の何物にも代え難くて、例えば部屋に猫の置物や肌触りの良いクッションを置いてみても、本物の猫には全然敵わなくて、一人の時は猫ロスに陥る。

ほんの数日会えないだけで、この調子なんだから、猫が死んでしまって、触れられなくなったら、ペットロスになってしまうなと今から怯えていたりする。
我が家に来て、10年以上、その前から生きていたので、少なく見積もっても13歳にはなっているはずで、高齢猫に差し掛かっている。
バレンタインハートなんて名前だけ聞けばかわいらしい心臓病を患っていて、特に冬場は後ろ足がもたつくようになったし、若い頃と比べて咀嚼も難しくなっていて、11歳以上を対象にしたペットフードしか食べられなくなった。あんなに硬いにぼしをかじっていた時期もあるのに。木登りだって得意だったし、足の速さはオリンピック選手かと思えるほど、俊足だったのに。猫との思い出が増えた分、絆が深まった分、それだけ年月は流れていて、猫と過ごせる時間はとっくに折り返しているんだと思うと、いずれ嫌でも味わうことになる喪失感を想像することもつらい。

《君がいなくなった日々は 面白いくらいにつまらない 全力で忘れようとするけど 全身で君を求めてる》

こんな風に考えてしまう時が遠くない将来に待っているのかと思うと、思わずため息が出る。
その時は新しい猫を飼えばいいなんて、そう単純な話でもない。うちの猫はペットショップで売られていた猫じゃないし、子猫のうちに誰かから譲渡された猫でもない。他の家の猫で、そこから逃げ出して、放浪して、うちの子になりたいとあの台風の夜から、自らの意志でうちに住みついた猫で、そんな猫、この世に一匹しかいなくて、他の猫とは違う。替えの猫なんていない。猫カフェにいるような誰にでも身を委ねる猫でもない。しかも誰かが我が家を助けるために猫になりすまして来てくれたのかもしれないし。

飼い始めた頃、若かった猫は、まるでお礼と言わんがばかりに、軒先に小さなネズミと野花を置いてくれた。ネズミはかじられていて、無残な姿だったけれど、花まで添えられていて、気が利く猫だなと思った。(野花は偶然かもしれないけれど。)
元々外に慣れていたせいもあり、トイレは必ず外にしたがる。雨でも雪でも、外に出る。室内にトイレを用意してあげても結局慣れることはなかった。そんな半分野良みたいな猫はペットショップで売っているわけがない。

ある時は「ハナちゃん」と呼ばれ、普段は「にゃんちゃん」と呼ばれる。でも本当は、亡くなった飼い主のおばあさんも別の名前で呼んでいたはずで、本当の名前があるわけで、でもその名前は知る由もなくて、そんな猫、この世に一匹しかいない。

生まれた時は、お母さん猫と一緒だったはずで、いつか引き離されて、離れ離れになって、でも自分も母親になって、娘を育てていた時期もあって、それから孫もいて、おばあちゃんにもなっていたわけで、猫としての生涯も全うしたと思う。

娘の方が先に死んでしまって、孫もいつの間にかいなくなってしまった。(最近、遠くで似た猫を見かけたけれど。)どの猫よりも長生きしている。当時、反りが合わなかった猫の集団の中では断トツで寿命が長い。そんな猫、他に替わりなんていない。

精神を病んでいる病人がいるから、誰も寄り付かないし、こちら側も迷惑掛けるから誰も来ないでくれと他者を拒絶していて、とにかく世間から見放され、見捨てられてボロボロのダンボール箱に入れられて漂流している野良猫みたいな我が家に来てくれて、家族のことを拾って救って助けてくれた猫はこの子しかいない。
うちの家族が猫を拾ったわけじゃなくて、うちの方が猫に拾われて、選んでもらえたんだと思っている。

家族には八つ当たりする病人でさえ、猫には一度も八つ当たりしたことがないし、心を許していて、猫を溺愛している。誰にでも当たり散らす、病気の妹に怒られない存在って本当に珍しい。空気が読めるからこそできることで、尊敬に値するすごい猫だと思う。

そんな猫はこの世に一匹しかいないから、愛しいし、尊いし、別れの時を想像すると、本当につらい。

《君がいなくなった日々も このどうしようもない気だるさも 心と体が喧嘩して 頼りない僕は寝転んで》

うちの猫はもしかしたら、また猫になって現れてくれるかもしれないし、今度は人間になって、現れるかもしれない。もしも私がロスになって、寝込んでしまっても、違った形で再会できたらどんなに幸せだろうと、陽光が射し込む窓辺でいつものようにまどろむ猫を眺めながら、思い巡らせてみる。

《会いたいんだ忘れられない 猫になってでも現れてほしい いつか君がフラッと現れて 僕はまた、幸せで》

そんな嘘みたいな子供だましの話を純粋に願いたくなる、信じてみたくなる楽曲がDISH//の「猫」。

2020年、THE FIRST TAKEでDISH//のボーカル・北村匠海が歌う「猫~THE FIRST TAKE ver.~」の動画がバズった。まっすぐな眼差しで心を見透かしてくる猫みたいな、魂の籠もった透明感と伸びのある歌声に心奪われた。作詞・作曲は誰なのかと調べてみると、あいみょんと知った。あいみょんか…やられたと思った。しかも元々は2017年8月16日にDISH//「僕たちがやりました」のカップリングとしてリリースされており、考えてみれば大ヒットしたあいみょん「マリーゴールド」よりも1年以上前にあいみょんが作った楽曲ということになる。

「猫」を知ってしまったからには悔しいけれど、あいみょんを好きにならざるを得ない。あいみょんってそれこそ猫やマリーゴールドみたいに、誰からでも愛でられて、気さくな感じの人柄で、老若男女問わず、みんなから好かれていて、あいみょんを嫌いって言う人を聞いたこともなくて、音楽の才能もみなぎっていて、家族とも仲良しエピソードも聞いたことがあったりして、つまり自分と真逆で、性格的にかけ離れているから、ひねくれ者の私は、あいみょんというシンガーソングライターを避けて、あいみょんの楽曲はあまり聞き込まないようにしようと意固地になっていた。

それなのに、フラっと現れた「猫」という楽曲にはまんまとはまってしまった。聞いているうちに、脳裏にちらつく猫の影を追い掛けたくなったし、触れたくなった。何度も繰り返し聞いていたら、片意地を張っていた自分が馬鹿馬鹿しくも思えた。何、勝手に意地を張っていたんだろうと。捨て猫みたいな自分の心をあいみょんの嘘みたいにやさしい音楽が拾い上げてくれた気がする。

私は「猫」という楽曲を自分の家の猫と重ね合わせて長々と話してしまったけれど、実際は失恋ソングであり、痛々しい心情が、1人きりの帰り道や1人きりの夜の描写とうまくリンクしていて、《僕》を取り巻く外の情景や心の内側の情景が鮮明に歌われている。失恋して立ち止まりたくなる《僕》の時間とは裏腹に夕焼け空や街の様子、日常の時間はいつもと変わらないスピードで目まぐるしく進んでいく。

《明日ってウザいほど来るよな 眠たい夜になんだか笑っちゃう》

《君》を忘れられなくて、《想い出巡らせ》1人だけ時間に置き去りにされて、ますます孤独に陥っている時、フラッと現れてくれる《猫》。《猫》というやさしい幻。温かい嘘。信じたくなる希望の物語。

失恋という絶望的な心情、1人になってしまった不安感、馬鹿馬鹿しさ、虚しさ、思わずため息が出てしまう気だるさを描きながらも、決して悲しくつらい気持ちになるばかりの歌ではない。《矛盾ばっかで無茶苦茶な僕》がもがき、あがいた結果、《猫になったんだよな君は》、《猫になってでも現れてほしい》と《君》を《猫》と置き換えることができて、本当はあり得ない話だけど、そんな嘘みたいな話も信じて未来に向かって進もうとする希望溢れる失恋ソングだから、温かくてやさしくて聞いていると救われる。

《君がもし捨て猫だったら この腕の中で抱きしめるよ ケガしてるならその傷拭うし 精一杯の温もりをあげる》

たぶん現状で捨て猫なのは《僕》の方だし、抱きしめてほしいのも、ケガをしているのも、傷を拭ってほしいのも《僕》の方で、先程うちの猫の話をした通り、《猫》ってか弱そうで、ついつい守ってあげたくなるし、助けてあげなきゃって人間は上から目線で見てしまうけれど、《猫》と出会って救われるのは大概人間の方だ。

腕の中で抱きしめていると、命の温もりを教えてくれるし、傷の手当など猫のために何かしてあげると、こちら側の心の傷を猫が癒してくれる。猫と出会うだけで、一緒に過ごすだけで、言葉は通じなくても、“与え-与えられる”という関係性が生まれて、それは理想的な恋愛にも似ている。実際の恋愛では尽くし過ぎたり、与えられ過ぎたり、バランスをとるのが難しくてダメになることが少なくないかもしれないけれど、相手が《猫》だとけっこううまくバランスを保てて、良い関係性を維持できる場合が多い。

だからかもしれないけれど、《僕》は人間の《君》と再会を願うのではなく、《猫》になった《君》との再会を願う。たぶん人間の《君》とまた出会えても、同じことの繰り返しで、いずれダメになるって分かっているから、忘れられない《君》と末永く良い関係を保てる手段として《君》を《猫》に変身させたのだろう。

それはあいみょんのやさしさだと思う。あいみょんって常に幻想的なおとぎ話を歌詞として書いているわけではない。むしろリアリティある心情を現実風景と重ねて歌う場合が多く、「猫」や「マリーゴールド」は忘れられないリアルな《君》の幻影、人間の比喩に過ぎない。比喩に過ぎないはずなのに、あり得ない幻なのに、やさしいあいみょんが描くと、その比喩や幻が本当に動き出す。命が宿って、嘘や夢なんかじゃなくて、いつか本当にそうなるんじゃないかと期待してしまって、希望がちらつく。

《何気ない毎日を君色に染めておくれよ》

やけになった《僕》がそう願っただけで、本当に明るい未来の兆しが見え始めたように、私はうちの猫と過ごす何気ない日常が、あいみょんが手品でも披露するようにさりげなく登場させた《猫》によって、かけがえのない日常に変化した。猫と過ごす時間があいみょん色に染められて、ますます大切な時間に変わった。

あいみょんって何でもない日常にさりげないやさしさや希望を歌にして、プレゼントしてくれる。そうなったらいいよねという夢を、他の人が書いたら陳腐な作り話にしかならないような夢もあいみょんの手にかかれば、なぜか夢も夢じゃなくなって、実現する現実の話になる気がする。魔法とか神業って、邪心を持っている人は使えないパターンが多いように、あいみょんには邪心なんて見当たらないから、素直な裸の心を歌ってくれるから、人間を猫に変身させることも不可能ではないんじゃないかと信じてしまう。こじらせた恋愛を修復してくれるやさしい嘘に頼りたくなる。明るい未来を信じてみたくなる。

だから私はあいみょんには負けたし、敵わないって思った。あれだけみんなから好かれるあいみょんを、あいみょんの歌を好きになんてなるものかと突っぱねていたのに。人間に捨てられて、信じる気持ちなんて忘れた捨て猫みたいに生きているつもりだったけれど、あいみょんのやさしい音楽に触れたら、信じたい気持ちを思い出すことができた。ひねくれ者の私は、素直でまっすぐな心を歌えるあいみょんが苦手だったけれど、その素直でまっすぐな心で描く物語によって救われてしまったから、負けを認めざるを得ない。ひねくれ者が人間が猫になる話を考えたところで偽善過ぎて、リアリティに欠けると、自分でうんざりしていたけれど、心の美しいあいみょんみたいな人が描けば、人間を猫にすることも容易いことなんだと、信じられる物語になるんだと、人の心を救うことができるんだと知った。あいみょんの人柄が反映されている、あいみょんの音楽にはひねくれ者のがんじがらめの心さえ緩和させる効能もあるんだと。

「猫」に関して、あいみょんが歌うセルフカバーも聞いたが、もちろんあいみょん本人がギター1本で歌う「猫」も良かった。でもやっぱり「猫」はDISH//・北村匠海が歌うバージョンが個人的には好きだ。おそらく北村匠海の声質が「猫」という楽曲の世界観とぴったり合致していて、失恋で傷付き、影を潜める心情や、それでも前向きに進んでいくたくましさが歌声から感じ取れるから、「猫」はDISH//への提供曲で本当に良かったと思う。

猫って犬と比べたら従順ではない。気分が向かない時は、たとえ飼い主であっても、無視するし、嫌そうな顔もする。ツンデレで、人間の方が猫の機嫌に合わせることが多いかもしれない。なのに、最強にかわいいと思える。
あいみょんも、北村匠海も人気者には違いないけど、媚びるような歌い方はしないから、「猫」という楽曲は二人にぴったりなのかもしれない。突き放すことなんてしないけど、べたべた重苦しい感じの歌い方でもないから、心にすっと入ってくる。足音を立てずに忍び寄って、いつの間にか隣で眠っている猫のように、気付けば近くにいてくれて、なんだか猫を撫でるみたいに繰り返し聞きたくなる楽曲だと思った。何とも表現し難いやさしい感触の音楽だと、珍しく温かく幸せな気持ちになれた。ひねくれ者でもそう素直な感想を述べたくなる「猫」だった。

きっと猫がいなくても、生きていける。28年くらいは猫を飼わずに生きていたんだから。でも猫がいた方がやさしい気持ちで過ごせるし、生活が潤う気がする。あいみょんの曲も同じで、たぶんあいみょんをスルーして聞かなくても生きていけるけど、でもあいみょんが作った曲を聞きながら生活した方が、心穏やかに暮らせると思った。ひねくれ者の自分も少しは良い人間になれる気がした。幻や嘘と分かっていても、時にはそれらを信じた方が幸せになれる場合もあるということを猫やあいみょんから教えられた。

それにしてもうちの猫の本当の名前は何て言うのかな。最初の名前を知りたいから、私も猫になって、うちの子・にゃんと話してみたい。
「初代飼い主のおばあさんからはなんて名前で呼ばれていたの?」
「本当は名前なんていらないのに、人間が勝手に名前をつけているだけよ。」
とにゃんはため息交じりに話し続けた。
「〇〇ちゃん、ハナちゃん、にゃんちゃん…別にどの名前だって構わないわ。だって私は誰のものでもない、ただの猫だもの。猫として、おいしいものを食べて、たくさん眠れたらそれで幸せ。」
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