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深い眠りから覚めるように

ヨルシカ 配信Live「前世」

終わった瞬間、すべてが幻だったような気がした。どこか遠くへ飛ばされていたような。どこにいたんだろうか。海の底かもしれないし、或いはもっと遠い、誰かの記憶の世界にでも。

しばらく動けなかった。重力から解き放たれて、全身が浮いているようにふわふわした感覚。脳が溶けていくような感覚。

ヨルシカの配信ライブは圧巻だった。


私は配信ライブを見たことがなかった。ライブとは、アーティストと同じ場所で、曲に合わせて手を振り腕を振り、前後左右と密着させ、揉みくちゃにされながら、滝のように汗を流しながら、会場が一体となり、熱気に包まれていく、あのキラキラした特殊な空間しか知らない。

パソコンの前で一人鑑賞するだけの配信ライブに、ライブならではの幸福感を得られるだろうか。楽しみを見いだせるだろうか。DVDと同じではないだろうか。不完全燃焼で終わるのではないか。配信ライブに対しそんな穿った見方をしていた。

だが、ヨルシカの配信ライブ「前世」は、そんな私の偏見を木っ端微塵に破壊した。


ヨルシカは顔や詳細なプロフィールを公表していない。だからこそライブがどのような形になるのかそれだけでも多大な興味を惹かれた。本人たちがそのまま登場してくるのか。仮面でもつけて歌うのか。いったいどのようなステージになるだろう。もしこの機を逃せば、今後ヨルシカのライブに参戦できるかはわからない。チケットは高い倍率で争奪戦になる。だとしたら、世の中がこのような状況だからこそ実施に至ったであろう配信ライブ、それも購入申込みさえすれば確実に見れるこのライブを、見ない選択肢などどこにもなかった。


18時半開場、19時開演。

開場後、真っ黒の画面に「開演までしばらくお待ちください」の文字。

焦らされる。配信ライブとてこの焦らしも会場ライブ同様だ。たっぷり焦らされたのち、画面は唐突に海の中に切り替わった。暗くはない。光が射している。そこまで深くはない場所だ。エイやサメ、無数のイワシが悠々と泳いでいる。トクン、トクン。心音のように、画面から波打つ音が聴こえる。トクン、トクン。


もうこの時点でヨルシカの世界観に呑まれている。いったいここはどこだろうか。何が始まるのだろうか。しばらくすると、魚たちは進行方向とは逆に戻っていく。映像が巻き戻されるみたいに。時間が戻っているのだ。刻々と時は進んでいるが、目の前の映像では時間が戻されていく。おそらく、「前世」に誘われているのだと思った。今から私たちは「前世」に向かうのだと。


それはこれまで経験してきた会場ライブの高揚感と同じそれだった。或いはそれ以上だった。今からとてつもないことが起こる予感に震えた。心拍数が限りなく上昇した。いつ始まるのか、高まる期待が爆発する寸前になったところで、闇を切り裂くようにバイオリンとチェロの音色が鳴り響いた。

そしてマイクを右手に持った髪の長い女性が「藍二乗」を歌い出し、始まったのだ。息を飲むと同時に、爆発する寸前まで溜め込まれていた期待が一気に喜びで解放される。

suisが、そこで、歌っていた。



初めて観たヨルシカのライブは、なんというか、筆舌に尽くしがたい。だがそんなことを言ってはこの文章が終わってしまうので、もう少し頑張って、この途方もない余韻の正体を探っていきたい。


私含めほとんど多くのファンが注目していたことの一つが、本人たちはどのように登場するのかということだったと思う。仮面や幕裏でなどといった安易な想像を働かせていた自分を呪いたくなる。

suisも、n-bunaも、堂々とそこにいた。「堂々と」という表現が適切かどうかはわからないが、それはヨルシカのコンセプトを守る上で最大限の露出だったように思い、そう表現させてもらう(といっても今後、会場ライブで拍子抜けするくらいあっさり出てくるような気もしている)。


灯りに照らされてsuisの手も腕も、髪の長さも、着ている服もつけている指輪もわかる。椅子に座って右手にマイクを持ちながら左手を小刻みに動かし、歌っていることもわかる。suisの足が映るたびに何度もドキッとさせられた。裸足だった。膝下までの長いワンピースと裸足のsuis。裸足なのは海の中にいる(演出・或いは設定の)為だろうか。それはまるで人魚のように美しかった。



また私はてっきり、配信ライブはライブハウスのステージやレコーディングスタジオのような場所で行われるものだと思っていた。水族館での演奏はまったく予想だにしないことであり、それが心地よかった。ただ単純にオーディエンスのいないライブ映像を流すという配信ライブではなく、オーディエンスが目の前にいないからこそどのように楽しませるかが考え抜かれていた。


「ただ君に晴れ」「ヒッチコック」はsuisが場所を少し移し、小さな丸テーブルが置かれた小さな部屋のセット(それはレトロな喫茶店のようだった)で、小さなテレビの前に座って歌われた。テレビにはギターを弾くn-bunaが映り、それを見ながらsuisは体を揺らして楽しそうに歌っていた。

新曲「春泥棒」ではピンク色に照らされた水槽と魚の群れがとても綺麗だった。水中を舞う桜吹雪のように、美しかった。

suisが唯一立って歌ったのが「ノーチラス」だ。この曲はヨルシカの始まりの曲としてsuisがツイートしていたのを覚えている。「深い眠りから覚める曲だよ」とn-bunaはsuisに話したらしい。そのバラードを歌う彼女を、n-bunaは手を止めて見つめていた。二人の光景はエルマとエイミーを想起させた。続けて「エルマ」が歌われたのは、それを意図してのことだろうか。



n-bunaの紡ぐ言葉にはときにハッとさせられるし、心臓を貫かれてしまうほど刺さることもある。「春泥棒」で「花開いた今を言葉如きが語れるものか」と歌っていたのが印象的だった。言葉を"如き"と切ってしまっていたのが。

ヨルシカの歌詞にはたびたび「言葉」が出てくる。<言葉って薄情だ>(憂一乗) <君の言葉が呑みたい(思想犯)> <言葉をもっと教えて(花に亡霊)>などなど。


ヨルシカは言葉を紡ぎながら 、研ぎ澄ました言葉を選びながら、言葉以上のものをいつも探しているように思える。思考を限りなく言語化しようとも、目の前にあるものを言葉で表そうとも、震わされた心を語るには言葉では足りない。それでも。もうすでに私はヨルシカの言葉に間違いなく感性を揺さぶられている。彼らが追う言葉以上のものを知りたい。それはきっととても綺麗なのだろうと思う。



今回のLiveでラストに歌われたのは「冬眠」。ヨルシカの歌詞には季節がよく出てくる。<秋になって 冬になって/長い眠りについたあとに/雲に乗って 風に乗って/遠くに行こうよ><ここじゃ報われないよ>と冬眠は歌う。<ここじゃ報われないよ>と何度も歌うのがやけに響いた。めぐる季節の中で私たちは生きていく。生きていかなければならない。そんなメッセージのようにも感じた。

終わった瞬間幻のように思えたこの「前世」は、たしかに幻想的で、美しく、鮮やかで、それでいて儚く、切なさすら感じた。予想を超え、期待を超えた、とてつもない一つの作品を観た。

ライブ後の余韻は未だ解けず、ふわふわした宙に舞う感覚が残っている。この文章を書き終わりライブに抱いた感情に整理をつけ終わった後には、足をしっかり地面につけて、前を見て「現世」を歩けそうな気がしている。深い眠りから、覚めるように。
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