4401 件掲載中 月間賞毎月10日発表
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

禍福は糾える縄の如し、または〈のぼりくだりのエブリデイ〉

宮本浩次と出会った2020年

「コロナ禍がなかったら」。
その続きを求められたら、大抵の人はネガティヴな言葉を口にするだろう。
かく言う私も、きっとそうだ。
コロナ禍がなかったら、ライブに行けた。旅行ができた。友達に会えた。残業ができなくなって収入が減ったりせずに済んだ。
しかし「コロナ禍がなかったら」得られなかったであろう、ひとりのアーティストとの幸福な出会いが私にはあった。
宮本浩次、言わずと知れたエレファントカシマシのフロントマンのことだ。
もちろん彼のことは以前から知っていたし、テレビで偶然見かければ好感をもってその歌を聴いていた。2020年8月8日、NHKで「ライブ・エール」という番組が放送された時も、最初のうちは同様だった。ステージを飛び出し、ホール内を縦横無尽に駆け回るパフォーマンスと愛嬌たっぷりに変転する表情が微笑ましく、自宅の居間で家族と二人、楽しく見ていた。
やがて松任谷由実と出演者総出で『やさしさに包まれたなら』を歌うという場面になった。曲が始まると宮本浩次は具合でも悪いのではと不安になるほど深い前傾姿勢を保ち続ける。が、ソロパートの番が巡ってくるや面を上げ、よく通る声で見事に歌ってみせたが、すぐにまた頭を垂れてしまう。挙句に、次のユニゾンの歌い出しが明らかに遅れた。申し訳ないがその一連の流れがあまりにも可笑しくて可笑しくて、私達は声を上げ、手を叩いて笑った。
それはもちろん揶揄めいた笑いではなく、彼の一生懸命で健気な振る舞いからもたらされた、愛おしさを含む温かい可笑しみだった。
その瞬間に、ふと気付いたのだ。
緊急事態宣言以降、こんなふうにお腹の底から笑ったことは一度もなかった、ということに。
宮本浩次が意図せずして届けてくれた〈久しぶりの笑い〉は、こうして私の心の宝物になった。
我ながらいささか奇妙な始まりだと思うが、きっかけなんて多分、いつだってそんなものだ。

それからはあっという間で、ちょうどニューシングルが発売されると知ってそれを予約し、ネットで情報を渉猟し、サブスクでアルバム『宮本、独歩。』の楽曲を聴きはじめた。後日CDも購入したが、このような時の導入として、思い立ったらすぐ聴けるサブスクはとてもありがたい。おかげで気に入りの曲となった『ハレルヤ』と『冬の花』、『夜明けのうた』などを通勤中に繰り返し聴く日々が始まった。その頃、東京都内にある私の職場は時短勤務となっており、早く退社できるのを良いことに少し遠くの駅まで歩いて帰ることにしていた。その道すがら『夜明けのうた』を聴く時間が特に好きだった。初めて聴いた時には本当にこれがあの宮本浩次の声なのかと、俄には信じられないほど優しく澄んだ歌声に驚かされた。聖歌のような崇高ささえ湛えたこの曲を耳にワルツのリズムで歩いていると、やがてじんわり、ほろりと泣けてくる。
〈ああ さようなら わたしの美しい時間よ〉
意識するにせよしないにせよ、コロナ禍の中で都内に通勤するという緊張感の中で失われたものに想いを馳せる。そして、こぼれた僅かな涙によって少しだけ心が解れ、浄められるように感じた。
私はこの先もずっと『夜明けのうた』を聴くたび、あの晩夏から初秋にかけて歩いた東京の町の景色を思い出すことだろう。

そして季節は巡り、10月。私はエレファントカシマシの日比谷野外大音楽堂ライブを配信で観た。宮本浩次は「今日は配信もあります!」などという特別感はおくびにも出さない通常運転で、原点回帰の”これぞエレカシ”なステージを見せてくれた。感染拡大のためソロツアー中止を余儀なくされた時も、その後いくつかの場でコロナをめぐる困難について尋ねられた時も、その頃の彼は「コロナ」という単語を口にすることはなかった。困難というものはコロナに限らずどこにでも転がっているものじゃないか、とでも言いたげだ。
ただ野音においても、部屋に独り居ることを歌ったいくつかの楽曲は、自粛期間のありようを鮮明に想起させてしみじみと胸に迫るものがあった。「リアリティがあります、今こそ」と呟いて歌い始めた『晩秋の一夜』のように。

その秋以降、私が最も頻繁に聴いているエレファントカシマシのアルバムは『MASTERPIECE』だ。どこかノスタルジックなサウンドとメロディの美しさが際立つ楽曲が多く、バランスが良い。聴いていてとても落ち着く。しっくり来る、肌に馴染む、そう表現してもいい。
暫くしてレビューを確認してみたところ、このアルバムの収録曲のほとんどが宮本45歳、すなわち現在の私の年齢の時の作品であることを知って鳥肌が立った。
図らずも『MASTERPIECE』に共鳴することは、宮本浩次に遅れること9年、人生の同じ季節を辿り歩くことを意味していた。自分が何故このアルバムに強く強く惹かれてやまないのか。その理由が今は、はっきりと判る。

極めて私的な話ばかりで恐縮だが、この出会いは今は亡き父の計らいではないかと思っている。父は私が中学生の時に単身赴任で家を出て、そのまま帰らなかった。最後に会ったのはいつだったかと指折り数えてみたところ、当時の父の年齢が54歳であったことがわかって慄然とした。そう、今の宮本浩次の年齢と同じなのだ。道理で時折その姿に、まったく似ても似つかぬ父の面影が重なるわけだと得心した。
父は挫折から立ち上がることができず、失意のうちに生涯を終えた。宮本浩次は不遇のときも諦めることなく、ひたむきに挑戦を続けてきた。そして遂に、カバーアルバム『ROMANCE』で人生初のチャート1位を獲得し、大きな花を咲かせた。それは父が最後まで夢見た成功の形だったかもしれない。長所も短所も何もかも父譲りな私は、会わずとも話さずとも、その晩年の無念と孤独と悲しみを知っているつもりだ。父は、本当は自らの背中で私に見せたかったものを、宮本浩次に仮託して手渡してくれた…そんな風に感ぜずにはいられないのだ。

実のところ、彼に対してこうしたパーソナルな思い入れを抱く私のような者は、とても多いのではないかと推測する。何故か。それは宮本浩次の歌の表現というものが、人間が生きる道程のあらゆる場面、感情のあらゆる機微を遍く掬い上げており、これまでに発表された膨大な数の楽曲のどこかに必ず〈これは私のことだ〉と感じさせるものが見つかるからだと思う。それも痛切に。
そんな歌をひとたび発見すれば自分ごととして受け止めざるを得ず、どうしようもなく心揺さぶられる。〈これは私のための歌だ〉とばかり、のめり込んで聴いてしまうのだ。
それは取りも直さず、宮本浩次が自身のすべてを衒いなく歌に捧げてきたことの証左ではないか。ひとりの人間の煩悶、憤怒、懊悩、その先に星のように輝く瞬間の喜び。何もかもが歌になっている。時に痛々しいほどに露わな魂を刻みつけられた歌が、聴く者の心を動かさないわけがない。
『ROMANCE』のスマッシュヒットにより、宮本浩次の歌唱の魅力はかつてない勢いで周知されつつある。しかしこれを機にソロのオリジナル曲やエレファントカシマシの楽曲へと興味を深める人がどれほどいるか…と訝る声も聞くが、杞憂であろうと私は思う。宮本浩次の歌声は、「うた」は、それがカバーであれオリジナルであれ、いつ何時でも「宮本浩次その人」であるからだ。

この『ROMANCE』もまた「コロナ禍がなかったら」生まれなかった名盤だ。カバーアルバムの構想は元々あったというから、コロナ禍がなくてもリリースはされた筈だが、本作とは全く色合いの異なるアルバムになっていたに違いない。それはそれで成功した可能性はもちろんあるが、ただ虚心に名曲と向き合い、デモのつもりで吹き込んだ音源があれほどの凄まじい密度とパワーを持ち得たのも、緊急事態宣言という特殊な状況によるところが大きいだろう。
2020年の宮本浩次が身をもって教えてくれたことは、「禍福は糾える縄の如し(=何が幸いするか分からない)」、これに尽きると思う。
彼がTV番組に生出演した際の発言「生きてると、のぼりくだりのエブリデイ」も、つまりはそういうことだろう。
目の前で起きている事象が幸いであるか、そうでないか。究極的には、すぐには判断できない。いま災いと思えたことが、時を経て全く違う見え方をする場合もある。だから我々人間ができることは、なるべく淡々と、のぼりくだりの毎日を過ごしてゆくのみなのだ。

2021年の幕開けは、"新年特別映像"と銘打たれ、初日の出の時刻に合わせて公開された『夜明けのうた』のミュージックビデオだった。
昨年、職場から駅までの道を歩きながら幾度となく聴いては心洗われたあの曲で新しい年を迎えられたことが嬉しく、またこの映像によってもっと多くの人に『夜明けのうた』が届くであろうことを思い、晴れやかな気持ちに満たされた。
〈夢見る人 わたしはそうdreamer〉
静謐な薄闇の中で宮本浩次が掲げる小さなランタンは、世界に希望の灯を点すという大きな野望に燃えていた。
いまだ出口の見えない情勢は続いているけれど、どうかその野望が、更なる夢が、叶えられることを願ってやまない。
私は間もなく誕生日を迎え、『MASTERPICE』の季節から一歩踏み出すことになる。年齢を重ねてゆく不安はやはりある。でも、9年先の人生の素晴らしいお手本に出会えた。こんなに心強いことはない。これからも私は、宮本浩次の旅してきた道を音楽で追体験するとともに、その背中を追いかけ、その歌声を道標に、歩みを止めない〈夢見る人〉でありたいと思っている。
  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい