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それでも止まることなく刻み続ける時間~HYDEさんと共に~

祖父と『HYDE LIVE 2020-2021 ANTI WIRE』仙台公演を見送ったこと

祖父は最期まで腕時計を身に付けていた。パジャマ姿のまま、布団に寝かされていた祖父が納棺される時、納棺師がその腕時計を外してくれた。形見となった腕時計を叔母は大切そうに白い布で包んだ。その時計はまだ時を刻んでいた。

《無情な時計の針を 痛みの分だけ 戻せたなら あぁ、おかしな君との日々を あふれるくらい 眺めるのに》

祖父は時計が好きだったと思う。規則正しい生活を送っていた祖父はいつでも時間を気にしていた。仕事場には大きな古時計、居間にも寝室にも時計は欠かさず、腕時計も肌身離さなかった。でもまさか老人ホームにいる間も腕時計を付けていたなんて、知らなかった。どんな思いで、毎日その腕時計を眺めていたのだろう…。コロナ禍で誰も会いに行けなくなって、家に一時帰宅したかったかもしれないのに、結局帰っても来られなくて、退屈な日々を過ごしていたかもしれない。時計の針を見つめながら、過ぎていく時間を心拍音のように感じていたかもしれない。

《窓の中の僕は グラスの水に 差した花のよう 淡い陽射しに揺れて まどろみの底 気づく夏の気配》

祖父は農業の傍ら、自宅敷地内にある大きな長屋で稲わらを使って縄をなう仕事を生業としていた。春になると田畑を耕し、初夏にはジャガイモや夏野菜を収穫していた。だから何となく、夏場は畑にいたイメージが強い。朝露の雫に濡れたツユクサの青色の花が咲く早朝から、麦わら帽子をかぶって長靴を履いて黙々と畑仕事をしていた。長屋やわらを置く小屋類は大工をしていた親戚と一緒に自作したんだと生前、祖父は自慢気に語っていた。祖父の父は鍛冶屋だったらしく、祖父も手先が器用だった。長屋には鍛冶屋みたいに何でも道具が揃っていて、材料さえあれば何でも作ってくれた。うちでウサギを飼い始めた時は、ウサギ小屋を作ってくれた。古いブラウン管テレビの木枠部分を使って、緑色のワイヤーを張り巡らせた窓をつけた小屋を二羽のウサギのために作ってくれた。

縄は本格的な専用の機械を使って、なっていたため、なかなかうるさい轟音が鳴り響いていた。祖父の家と私の家は畑を隔てて数十メートルの場所に位置しており、朝の定刻になるとその機械の音がうちにも聞こえてきた。ある意味、騒音にも近いけれど、物心ついた頃から聞いていたその音だけは、あまり苦にならない音だった。祖父が働いている証、祖父が刻む音だからうるさくても好きな音だった。

薄暗い長屋で唯一、日差しが射し込む窓際に置かれた縄をなう機械を黙って扱う、帽子をかぶって青いつなぎ服を着た祖父の姿が忘れられない。轟音と共に機械はずっと回転している。手を挟まれたら危ないからと、幼い私はあまり近寄らせてはもらえなかった。代わりに長屋中に舞い散った稲わらの屑をほうきで掃いて遊んでいた。ちゃんと掃いていたからちょっとした手伝いにはなったけれど、掃除というよりはやっぱり遊び感覚に近かった。稲わらにたまに紛れ込んでいる稲穂のお米目当てに、スズメがそれをついばみにやって来たり、わらは温かいから、野良猫がねぐらにすることもあった。祖父の職場である長屋は孫と鳥と猫の秘密基地にもなっていた。

長屋は祖父と祖母が扱う機械が二台置かれている以外に、大きなトラックが入るスペース、それから孫たちの自転車などを置く場所、米を保管する鍵のかかる部屋に、鍛冶屋をする職人テーブル、それから古時計がかけられている側の梯子を上った先の二階にも収納部屋があった。本当に秘密基地みたいだった。私は長屋で過ごす時間が好きだった。時計のように正確に刻まれる祖父が縄をなう音と、それから稲わらの感触と匂いが漂う空間で、遊ぶ時間が好きだった。甘党の祖父は休憩時間になると、舐めているうちに色が変わる飴玉を私にもくれた。近所の駄菓子屋で売っていた、ただの飴玉なんだけれど、長屋で食べる祖父の手からもらう飴はとびきり甘くておいしかった。

《優しい季節を呼ぶ 可憐な君は 無邪気になついて そっと身体に流れる 薬みたいに 溶けて行ったね》

一緒に暮らしていたわけではないから、適度な距離感もあって、だからなおさらあまり悪い思い出はない。家で何かつらいことがあっても、祖父の元へ行って、飴玉をもらえば元気が出た。私にとって長屋の作業テーブルの上に置かれていたあの飴玉は元気になれる薬みたいなものだった。職人気質でシャイで口下手な祖父とはあまり会話をするわけではなかったけれど、でも一緒にいるとなぜか心が安らいだ。手品みたいに道具を操って、ちょっとしたおもちゃを作ってくれたり、縄を均等になう祖父の手は魔法みたいだと思った。

私はそんな祖父の手を最期に握ることさえできなかった。突然亡くなったため、誰も死に目に会えなかった。納棺されるまで一晩時間があったのだから、もっとちゃんと祖父の手の感触を確かめておけば良かったと少し後悔している。でも突然過ぎて、祖父の死を実感できないまま、私の心とは裏腹に、火葬に向けて時間は粛々と流れた。祖父の手の感触を確かめるタイミングは完全に逃してしまった。納棺前に、冷たくなったおでこに触れるのが精一杯だった。

《This scenery is evergreen 儚いほど途切れそうな その手をつないで 離さないように》

悲しいと同時にしっかりしなきゃと思った。泣いてばかりもいられなかった。実の娘である私の母が何もできない分、自分が母の分まで祖父を見送らないといけない、全部目に焼き付けないといけないと思った。

母は病気の妹の世話があるため、納棺前、誰も来ない隙にほんの数分、妹と一緒に祖父の死に顔を見たきりで、葬儀にも何にも一切参列できなかった。火葬まで三日間も時間があったし、無理すれば来られないこともなかった。でも母に依存している妹が必ずついて来てしまう。厳粛な場で、妹が騒ぎ出したら皆に迷惑を掛けるからと、母は親の葬儀なのに身を引いた。うちの事情を詳しくは知らない親族からは母が来ないことを不思議に思われた。私が、お姉さんが妹さんの面倒を代わりに見れば済むんじゃないかと思っていたと言われた。でも妹の場合、誰でも良いというわけでなく、母しか信じていないし、私のことは敵とみなしているため、一緒に留守番していることは不可能だった。そういう事情を理解されていないことがつらかったし、少し悔しかった。

《This scenery is evergreen 緑の葉が色づきゆく 木漏れ日の下で 君が泣いている》

母は親が死んだというのに、家で妹といつも通りの日常を送っていたから、近所の人たちからも不思議に思われていた。私は火葬の朝、泣きながら母に訴えてみた。親戚や近所の人たちからあまりよく思われていないし、騒がれてもいいから、どうなってもいいから、私が妹を見てるから、お母さんが火葬に行けばいいと。せめて火葬される前、一目でいいからキレイに死に化粧された祖父の顔を見てきたらと。

でも母の気持ちは揺るがなかった。他の人たちには理解されないかもしれないけど、おじいさんだけは分かっているからいいんだと。いつも「(妹に)隠れて来たんだべ?」って老人ホームに行った時は口癖みたいに言っていただろうと。妹の病気のことはもちろん知っていたから、母や私がこっそり祖父に会いに行った時は、必ずそんなことを言っていた。「隠れて来たんだべ?〇〇〇(私の妹)は大丈夫か?」と心配してくれていた。祖父だけは母の状況や気持ちを察してくれているはずだから、火葬も葬儀も行かなくて大丈夫、死に化粧された顔なら大体想像できるから見られなくてもいいんだと、母はとうとう行かなかった。

《This scenery is evergreen 可哀想にうつむいてる 悲しい瞳を ぬぐってあげたいのに》

早朝、安置されている会場へ早めに赴き、誰も来ないうちに祖父の顔を見つめながら、心の中で祈った。結局、母を連れて来られなくてごめんなさいと。病気じゃなかったから、本当は妹も来れたはずなのに、二人ともお見送りできなくてごめんなさいと謝った。私が三人分、おじいさんのお見送りをするからと、安らかに眠っている祖父の顔を見ながら、約束した。

《近づく終わりに 言葉ひとつ言い出せない This scenery is evergreen 愛しい人よ》

叔母からはよくそんなに何度も死に顔を見られるねと驚かれた。自分は頭に残ってしまうから、あまり直視できないと。私は母のためにも記憶しなきゃいけないと、頭に残さないといけないと必死だった。でも時は無情なもので、あんなに何度も見たはずの祖父の死に顔さえ、時間と共に私の記憶から薄れてきている。

病気や事故で苦しんだような姿ではなくて良かった。眠っているようにしか見えなかった。この歳にしては珍しく、昔から祖母以上に肌の手入れをしており、自ら保湿クリームを塗っていたため、亡くなっても本当にキレイな肌だった。死に顔を見に来てくれた人たちからも肌のつやに関して褒められていた。最後のお別れで、まだつやが残っている顔の周りに花を添えた時、目を覚ましてくれないかなと思った。目を覚ますんじゃないかと思った。ちょうど縄をなう仕事を始める朝の時間帯でもあったから。仕事しなきゃって起きてくれるんじゃないかと思ったけど、やっぱり眠ったままだった。

祖父が息を引き取った日、青空の下、雪景色が広がる寒い一日だった。通夜の前の日はまた雪が降り積もり、通夜も火葬・葬儀の日も雪が凍り付いて寒い日々が続いていた。祖父が骨になってしまった日、夕方、雲間から太陽の日差しが射し込んで、天使の梯子が見えた。あの光の道を辿って、祖父は空に旅立ったんだと思った。火葬場では叔母と一緒に控え室で親族の対応に追われ、煙を見ることもできなかった。やっとひとりになって落ち着いて、空を見上げたら、いつも以上に夕日がキレイに見えて、涙が込み上げた。その日の夜、やっぱり凍てつく寒さの中、夜空には満天の星が輝いていて、いつも以上に瞬いて見えて、やっぱり泣けた。

祖父が最後に食べたものは何だったんだろう…最後にお風呂にゆっくり浸かれたのはいつだったんだろう…納棺前に顔剃りはしてもらっていたけれど、沐浴もさせてあげたかったな…なんて様々な思いが脳裏を駆け巡って、私はひとりで泣いていた。

祖父はたくさんの道具を使いこなして、家族のためにたくさんの物を作ってくれたけれど、時計以外、自分の所有物に執着する人ではなかった。何十年も連れ添った自分の相棒みたいな縄をなう機械だって、体力の限界で扱いきれないと悟った時、潔く手放した。機械がなくなり主もいなくなり、今はがらんとした寂しい空間が広がる廃れた長屋になってしまった。機械以外も老人ホームに行く前、自分の物は自分で始末しており、形見の品はそう多くはない。けれど、祖父の家には建具などに祖父が修繕した痕跡がたくさん残っていて、今でも祖父の面影を感じることができる。

祖父の火葬からちょうど10日後、2021年1月24日、『HYDE LIVE 2020-2021 ANTI WIRE』トークネットホール仙台公演に行く予定だった。チケットが取れた去年はもちろん行く気満々だった。けれど地方なら大丈夫だろうと思っていたコロナ患者が宮城でも徐々に増え始め、特に仙台や実家周辺で流行し始めてしまい、健康にあまり自信のない自分が行っていいものかと悩み始めていた。

そして追い打ちをかけるように、祖父が亡くなってしまった。身体だけでなく、心も弱っている現状で行っていいものかますます悩んだ。きっとライブに行けば心は元気になれる。HYDEさんから元気をもらえる。さっきまで歌詞を引用していた「evergreen」もセットリストに含まれていそうだから、(※実際含まれていた。)聞いたら祖父の弔いにもなるだろうし、やっぱり行こうかなとかさんざん悩んだ。

でも行かないことにした。理由はいろいろあって、ひとつは、母は死に化粧された親の顔を見ることさえ我慢したから、私も一度くらい我慢しなきゃいけないことがあると思ったから。もちろんこのご時世、コロナで亡くなったら、死に顔も見れないまま、骨になってからしか対面できない境遇の死は少なくない。母の場合、一度でも死に顔を見られたんだから、恵まれているとも考えられる。でもせっかくコロナじゃなくて葬儀も執り行えたのに周囲からいろいろ言われながらも、列席できなかった母の気持ちを考えると、まだ喪中だし、私だけ呑気にライブを楽しんではいけない気がして、行くことを諦めた。それに母の言葉じゃないけど、20年も通いつめたHYDEさんのライブなら、見られなくても想像できるから大丈夫と強がって自分に言い聞かせた。(本当は想像だけじゃ満足できないけれど。)

もうひとつはそのコロナ。祖父は高齢で高熱で突然亡くなったものだから、亡くなった後、念のため検査された。陰性だったから、葬儀を執り行えたのだけれど、そのことを知らない人の中にはコロナで亡くなったらしいとか噂を立てる人もいて、一部で祖父はコロナで死亡したことになってしまっていた。陰性だったし、違うのに。妹を刺激しないために、あまり大勢に知られないように、遠くない親族だけでひっそり葬儀をしたこともコロナの噂に拍車をかけたのかもしれない。とにかく、コロナに敏感になっている世の中ではあらぬ噂を吹聴される場合もあるという世知辛さを知ってしまったから、ライブに行くことも躊躇してしまった。

もしも心身弱っている状態の私がライブに行って、コロナじゃなくても風邪みたいな症状が出てしまったら、それこそまたよくない噂を立てられてしまう。自分だけで済むなら良いけど、有観客ライブを成功させるために、考えられるすべての安全対策をとって、準備をしてくれているHYDEさんやライブスタッフの方々を悲しませるような事態にはしたくないと思い、ライブに行くことを見送った。

VAMPS時代も含めて、HYDEさんがソロ活動を始めてから開催されたツアーは仙台公演があれば、欠かさず足を運んでいた。関西に遠征したこともあった。この20年、一度だって見送ったことはなかったのに、初めてHYDEさんのライブに行くことを断念してしまった。仙台なら近いから行けて当たり前と思っていたけれど、全然当たり前のことではなかった。東日本大震災の年、本当はあったはずのラルク仙台公演がなくなって、ライブに行けることが当たり前のことではないと思い知らされたはずなのに、また忘れてしまっていた。その後もHYDEさんが当たり前のように仙台にも来てくれて、当たり前のようにライブしてくれていたから、ライブに行けて幸せという気持ちが薄れてしまっていた。

震災から10年、コロナ禍真っ只中の今年、改めてライブに行けることが当たり前のことではなく、どんなに幸せなことなのか、気付かされた。HYDEさんがソロライブを始動して20年、私は身内の不幸と重なることもなく、自分も健康で、ライブを楽しむ余裕があったことがどんなに恵まれていて、奇跡的で、幸せなことだったか、痛感させられた。
今回は逃してしまったけれど、HYDEさんはきっとまた仙台に来てくれる。コロナが明けたら、私が東京に行くことだって可能だろう。二度とライブに参戦できないわけでないんだから、それまで元気でいようと思った。

偶然だろうけれど、HYDEさんはコロナ禍になる以前、ツアー『HYDE LIVE 2019』の時から“NEO TOKYO”という架空の新しい仮想都市で、ライブパフォーマンスを繰り広げていた。すでに新たな世界を模索していたかのように。バンドメンバーはマスクで顔を覆い、HYDEさん自身も口を激しく強調するように、口紅を塗りたくっていた。まるでコロナ禍に陥る世界を予見していたかのようだ。もちろんそのようなマスクやメイクは単純に、世界で通用する音楽を目指して、海外で戦うための武器というかアイテムだと、目を惹かせるための手段だというような趣旨のインタビューを読んだことがあったから、考えすぎなのだけれど、たまたまコロナでマスクや口元を気にする世の中になってしまった今だからこそ、ますます意味深いものとなった気がする。

コロナ禍で口元を隠さざるを得ない日常になってしまったからこそ、コロナに立ち向かうように、あえて口元を強調して、でもオーディエンスの安全には配慮してくれながら、ライブで歌い続けてくれているHYDEさんは勇者のように見える。
きっと有観客ライブの場合、やろうとしたら非難されることも多いだろうし、刻一刻と変動し続けるコロナ情勢にも臨機応援な対応を求められ、直前になって中止・延期を免れられなくなる場合もある。(実際、大阪公演は延期になってしまった。)
いろいろなリスク、不安を抱えながらも、有観客ツアーを決めてくれたHYDEさんには心から感謝したい。それから他のアーティスト同様に、配信ライブも積極的に取り組んでくれていることにも感謝したい。当初は配信ライブには消極的な姿勢だったものの、ミュージックステーションでHYDE無観客ライブの様子が中継されたことをきっかけに、配信という形も悪くないとコロナ禍に合わせて柔軟に考えを変えてくれたこともありがたい。配信の方が安心して楽しめるという人もいるだろうから、従来の考えに固執しなかったHYDEさんに敬意を表したい。

HYDEさんは一見、いつでも抗って、何かと戦っているように見えるけれど、Jekyll&HydeのHYDEという名前の通り、二面性があって、戦いながらも、敵であっても柔軟に受け入れる寛容な姿勢があると思う。コロナと戦いながらも、相手を怖がったり、憎んだりするのではなく、いかにコロナ禍でもアーティストとしてライブを止めることなく、パフォーマンスし続けることができるかということを常に模索してくれている。いずれ元の形で、理想通りのライブができると信じながら、今できる最善のことをコロナを恨みながらではなく、決して楽ではない現状を楽しみながら活動してくれているように見えるから、ファンとしても頼もしい。

行けなかった仙台ライブの様子をちらっとネットで検索した限りでは、震災から10年に関しても触れてくれたらしい。震災のことも忘れないでいてくれるし、いつでも様々な世情も考慮しつつ、新しい音楽を発信し続けてくれている。
HYDEさんの眼差しは鋭くて反抗的かつ、世の中のすべてを見透かしているようなやさしく温かな視線でもある。それが音楽に反映されている。

2001年にリリースされた「evergreen」という楽曲が20年の時を経て、祖父の死に寄り添ってくれたように、HYDEさんの音楽は普遍的にやさしい。今、多くの人たちが死という抗いようのない避けられないものと戦わなきゃいけない状況にあって、平時よりも死が身近な事態で、たとえ若くても死について考える機会が少なくない世の中だと思うから、そんな時こそ、この楽曲は心の支えになると思う。
悲しくつらいばかりの曲ではない。悲しみの中にもやさしさがあって、痛みの中にも安らぎがある。たとえ良くない思い出があっても、全部幸せな思い出に変えてくれる。つらくても温かい気持ちになれる。まさに薬みたいな楽曲だ。

コロナに関してはワクチンの供給もまだ十分ではないし、特効薬もまだ存在しない。だからその分、好きな音楽を特効薬にして、免疫力を高めて、生き延びる策をとっても良い気がする。祖父を亡くしたばかりの私にとって、今、免疫力を高めてくれそうな音楽は「evergreen」だ。この楽曲を聞きながら、祖父や行けなかったライブのことを考えつつ、綴っていたら、元気が出てきた気がする。

HYDEさん、今度こそ、ライブに行くので、気が早いかもしれないけれど、次回のツアーも楽しみにしています。元々、激しいロックパフォーマンスだけでなく、黑ミサ等でアコースティックライブにも慣れていたHYDEさんだからこそ、今回みたいな着席型有観客ライブもいち早く実現できたのだと思います。まるでコロナで世界が変わって、当たり前のライブができなくなることが分かっていて、予行練習していたみたいです。静かなライブも経験していたHYDEさんだから、成し得ることのできるツアーだと思います。どうか身体に気をつけて、このツアー完走してください。

コロナという肉眼では見えない物と戦っている今こそ、音楽という見えないけれど、圧倒的な存在感を放つ、HYDEさんの楽曲に救われている人も少なくないと思うのです。本来見えない音楽を、ライブパフォーマンスで可視化してくれて、楽曲の世界を表現してくれて、ありがとうございます。それを今回、私は生で体感できなかったことは本当に残念ですが、HYDEさんの楽曲を聞きながら、祖父みたいに時計の針を見つめながら、日々、黙々とできる限りのことをして生活し続けようと思います。世界が、日常が変わってしまっても、時間が止まるわけではないから、HYDEさんに会える未来に向かって、私は歩き続けます。

そしておじいさん、おじいさんは覚えていないだろうけど、2001年、「evergreen」がリリースされた頃、私が居間でこの曲を聞いていたら、おじいさんがやって来て、少しだけ一緒に聞いたことがあるんだよ。だからこの曲はおじいさんとの思い出の曲なの。「evergreen」を聞いていると、おじいさんとの思い出が鮮明によみがえるよ。この曲の中で、おじいさんが生きている気がするよ。

人見知りで口下手だけど、音楽やカラオケが好きで、甘い物やみそラーメンが好物で、孤独な作業が得意な性格はそのまま私に受け継がれているよ。私の中でもおじいさんは生きているよ。

最後に二人だけで会話したのはたしか二年前の春。「隠れて来たんだべ?」、「またいつでも来いな。」って言ってくれたのに、あまり会いに行けなくてごめんなさい。コロナ禍になる前にもっと行っておけば良かったって後悔しているよ。

おばあさんと仲が良くて、畑仕事も縄ない仕事もずっと一緒で、老人ホームでも二人で過ごしていて、離れ離れになって寂しいかもしれないけれど、おばあさんのことはもう少し我慢してね。

棺に入れたおじいさんお気に入りの服と、冬の季節の私が好きなポプラの木の色が同じことに気付いたよ。だからあのすくっと立っている老木におじいさんが宿った気がして、ますますその木が好きになったよ。

今は冬枯れのあの木も常緑樹みたいに緑色の葉っぱを茂らせる春がもうすぐやって来るよ。「evergreen」を聞きながら、ポプラの木を眺めていればおじいさんとの思い出が色褪せることはないと信じているよ。どうか安らかに眠ってください。時々見守っていてください。HYDEさんの「evergreen」という不朽の音楽が側にいてくれるから、私ならきっと大丈夫です。
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