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普遍的なものが世間というセネカの”何も興味ない”

あるバンドと私の出会いは電車に揺られている

 ある日の音楽配信サイトで私は見つけた。どこか腑に落ちる楽曲に出会ってしまった。セネカの“何も興味ない”である。正直私はこのバンドを知らなかった。配信サイトで曲を聴き、YouTubeでMVを見た。MVには歌詞が音に合わせて流れてくる。気づいた時にはその歌詞に私は食いついていた。

 歌詞自体は決して明るいとは言い難い。そこに載る3ピースの音。軽快なメロディーに載せられた歌詞は社会風刺にもとれる。メロディー自体に特段変わったところはないような気がするし、昨今のロックシーンでよく聴かれる雰囲気を感じた。しかし、私はこの曲に背中を突かれてしまったのである。

 《普遍的で居ないとさ/世間とは言われない/それを揶揄してんのにさ/今日も電車に揺られた》曲の冒頭の歌詞である。普遍的なものを揶揄しているにも関わらず今日も電車に揺られるという普遍的な行為を行っている自分をまた揶揄しているように感じた。普遍的なものを揶揄する歌詞は多い、しかし実際みんな普遍的であり私もまた電車に揺られているのだろうと気付かされたのである。

 私は大学に通い現在は春休みだ。そこらへんにいる大学生と変わった生活を送っている訳でもないのに、時々自分は特別に思えてくるような瞬間がある。でも、そう思っているけれど当たり前にSNSは見るし、大衆受けする歌を家で歌っていたりする。そう、私は電車に揺られていたのだ。それをこの短い歌詞に刺された。『なんだ私も電車に揺られてんじゃん』と肩を落とすほどに。


 曲の後半にMVでTwitterの画面が出てきた。そこでセネカのアカウントにリプライを送る指と画面。この行為は今や珍しいことではない。「電車に揺られる」ことであろう。そこで歌われる歌詞は《俺以外に興味が無い》である。なんだこの歌詞の流れは、と驚いた。他人に興味しかないだろう、と。でも、この解釈は間違っているのかもしれないと気付いた。誰もが当たり前に行っているSNSで誰もが簡単にアーティストを始め芸能人に自分のメッセージを届けることが出来る。『他人に興味があるじゃないか』と感じたのだ。しかし、これらは私が興味あるものしか見ていないしフォローもしないし、リプもしない。つまり、自分の興味のあるものしか見ていない事は、自分の欲求を満たす。自分にしか興味が無いのかもしれない。自分の選んだ道や選択にしか興味がないということなのかもしれないと私はこの約4分間に感じたのである。初めつっかえていた不思議な感覚が自然と浄化されていくような気がした。



 ここまで考えたうえでもう一度、いや気づいたときには何度もリピートした。そこで改めて普遍的なのか?と問いたくなったのだ。俺以外に興味がない俺は特別?それとも普遍的?その葛藤の中で生きているからこそ今日も電車に揺られてしまうのではないだろうか。その葛藤の中で生きているからこそ、普遍的なものを揶揄しているのかもしれない。私たち1人が特別でありたいと強く願っているのかもしれない。



 この曲の魅力はこんなところでは終わらなかった。《何を見て尊く/何を知り儚く/それが分かって終えば/俺は歌を辞めるかな》このほんの数秒に私は再び驚いた。というよりかは少し恐ろしいようにも感じた。

 きっとこの歌詞は何かのオタク、いや何かに熱中している人ならば全員に当てはまってしまうのかもしれないと思う。もし分かって終い、歌を辞めるとするならば、私が分かって終ったら音楽を聴くのを辞めるかもしれないと思った。世界が何なのか、自分という人間は?自分が考え、こうやって尊いと思っている裏側は何があるのか、何を尊いと思い、何を知って儚いと感じるのか、全て分かって終ったら、私が好きな音楽を聴くことも本を読むことも要らないような気がする。もし分かっていたら、こうやって新たな楽曲と出会うことは無かったし、新しい音楽を探す作業さえしていない。さらにはこうして音楽について文章を綴るということもしていないかもしれない。文章に起こしている今も頭の中は毛糸玉だらけで、とりとめもない感情が蠢いて、また毛糸玉が増えて絡まり合っている。


 アーティストからリスナーの一方通行であると昔は思っていた。しかし、そうではなく両方から線は伸びて繋がっているのだと今は思う。リスナーとアーティストどちらが欠けても存在しないこの絶妙なバランスは当たり前のようで当たり前ではなく、普遍的なもののようでそうではない。シーソーが真ん中で揺れ続け、その音が、歌がある限り揺れ続けているのだろう。

 主に2つの部分に焦点を当て、この“何も興味ない”について今回文章を綴ってきた。このように考える私も普遍的で世間と呼ばれるのだろう。そんな自分を揶揄いたくなる。しかし、そんな揶揄われている自分も自分で、どこか誇りに思えるかもしれない。この曲と出会いそんなように思えた。



 この曲を機に、そして文章を書くと決め、セネカの公式Twitterを見た。そこにいた彼らは既に解散が決定していた。この文章はゆっくり時間をかけて完成させたいと思っていたが、解散までに日付がない。なるべく解散までに、そうでなくても解散後数日以内に掲載されればという思いで書いた。私の考えたことや思ったことはセネカの皆さんから見ると『何見当違いなことを言っているんだ』と思われるかもしれない。そこに関してはもうどうしようもない。また、とりいそぎ書いた粗削りな文章でセネカの方々、並びに関係者、ファンの方にお詫び申し上げたい。
私はセネカに出会ったばかりで、いわゆる「にわか」だ。しかし解散の知らせの文章を見てきっとこの人たちには何かゴールがあって、ゴールテープを切ったのだと感じた。

 私もゴールテープを切りたいと思う一方で、一生このごちゃごちゃの中に身を沈めておきたいと思っているのだと感じた。普遍的な世間の中で変化を少し嫌って生きていくのかな、と少し自分が解決し毛糸玉が減る。きっと今解散目前のセネカに出会ったことは私にとって大きな意味があった。


 セネカというバンドに出会えてよかった。出会ったときには終わりが近づいていたけれど、彼らの音楽は私に繋がり生きていく。
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