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藤井 風、ただの「人間」だった。

清らかな中を儚くも力強く光り舞い踊る蛍の様な人間を見た

かじぇ~~~~~~~!!!



と私のスマホの画面の中で誰かが叫び踊り狂っていた。あれ、この人は、かの有名な「ハムの人」ではなかっただろうか。


どうやら彼の活躍は、ひとりの壮年男性を熱狂させるには十分すぎるくらい十分だったらしい。


アルバムリリース後の歩みの進め方に関しても、コロナ禍という未曽有の状況すらものともしないしなやかさがあった。また、出たら売れ売れワッショイワッショイの現世において彼のスタンスは非常に稀有なものであった。雑誌には載らない、テレビにも出ない。「浮世離れ」とはこのことである。結局この人ってこの世にいるのか?いないのか?いや夢??マボロシ??と思わず確認してしまいそうになるくらいの徹底した情報の遮断っぷりだった。そんな中、初めて彼が公衆の電波にのり各家庭所有の長方形の画面に姿を現したのは「ミュージックステーション」ではなく「報道ステーション」であったことは記憶に新しい。もはや大いなるステーション違いである。その時点で彼の周りの人間がこの存在をこの世に一体どのように生み落とし根付かせ慎重に育てていくのか構想を練りに練り、あまりにも緻密で繊細な未来予想図を描いていることは目に見えずとも分かっていたわけだけども。


生まれた命は必ず消えゆくこと、その道筋に何ひとつ同じものはないという当たり前のことなのにどうも簡単に忘れてしまうことを発熱時のポカリスエットのようにいとも自然にしみわたるメタファーで描き切ったMVどころかもはや「観る聖書」と呼ぶに相応しい"帰ろう"のMV公開、前述した「報道ステーション」でのドキュメンタリー放映、からのコロナ禍において万全の対策を練った上での有観客武道館公演とその生中継配信の完遂。公式YouTubeチャンネルのみで語られる楽曲に対する彼の言葉は「って何なんシリーズ」として積み重ねられ、お説法を生業とする寺の坊さんが泣いて逃げ出すほどどうにもこうにも有難いお言葉の連発にこちらはひたすら平身低頭するしかない。おまけに「HELP EVER HURT NEVER」という彼が常に掲げる信条のようなものは幼少期の頃から聞かされていた親の発言であるらしい。「常に助け、決して傷つけない」とは簡単に言うが、そんなことができるのならもうハッキリ言って神ではないだろうか。この頃には私の脳内では彼に対して「高尚」というイメージだけが駆け巡っていた。そんな中、これまた圧倒的な才能をぶん回しながら地に降り立った天使であるかのような新曲2曲が配信リリースされまたもや平身低頭せざるを得なかった。何歳だからどうのこうのと数字で何かを推し量るのは野暮だけども、これが弱冠23歳の若者だなんてまあそんな冗談はよし子さんと使ったこともない往年のダジャレを思わず口走ってしまう事態である。


こんなんはもう神なのよ。


彼と同じ県出身のお笑い芸人の口調でそう思ってしまうのはごく自然なことだった。選択肢は神か、仏か、天使か、ミカエルか、ザビエルかといった具合である。そう思ってしまうことに対して後ろめたさがあったことは事実だ。人間は人間でしかない。そんなことはわかっている。しかし彼が自分と同じ「人間」だと誰が信じることができようか。そう思ってしまうくらいの才能を大いにぶん回していたのも事実である。そう思わせるのが戦略なのか、はたまたそうは思わせたくなかったのかは知らないが正直言ってあまりにも高尚すぎた。すっぴんメガネにジャージで百貨店の中に踏み込めないのと同じである。彼の世界にはドレスコードすらある気がした。神よ・・・簡単に人を傷つけてしまう人間はこの世界には立ち入り不可でしょうか・・・?と思わず尋ねてしまいそうになる。「高尚さ」は「近寄り難さ」へと簡単に名前を変え、「完璧さ」は「共感し難さ」へと名前を変える。彼の周りにはどうやら彼よりも何周も何十周も年輪を重ねているファンが多いように思えた。それも大いに納得できた。ある程度時を重ねていないとこんなものは到底受け止め難いのではないだろうか。私が仮に彼と同年代だったとしたら大変申し訳ないが正直引くと思う。あまりにも高尚すぎる。あまりにも完璧すぎる。時折SNSで砕けた投稿をされてもにわかには信じ難い。これがあれで、あれがこれ。そんなことを言われても簡単に飲み込めるはずがない。才能と実像が乖離したままの日々を送っていた。


そんな私は虎視眈々と機会を狙っていた。


好きだとか憧れだとか好みだとかそういう話ではない。「で、どんなもんか1回見てみたろか」というあまりにも傲慢なただの好奇心である。こんなにも好奇心をそそってくる存在は近年稀にみる存在だ。丁重に扱わなければならない。そのために配信ライブも自らの意思をもってしてあえて蹴った。他の誰かが撮って切って貼り付けた映像ではダメなのだ。初めてこの才能に出会う瞬間は、絶対に自分の目で切り取ってやると私は私に勝手に誓っていた。


そんなドロドロでしつこく粘着質な願いが叶ったのか、緊急事態宣言下においてある意味社会的生命を懸けて辿り着いた会場で私の目の前にはイスが一つしかなかった。


開演前、手拍子が起こる。最前列ど真ん中のお姉さんは両手を組んでどこかへ祈りを捧げていた。まあそりゃそうなるわなと思いつつへらへらと手を叩いている自分の心臓も相当に高鳴っていた。心臓は嘘はつかないというのはどこかで聞いたセリフだが本当にそうだ。「で、どんなもんか1回見てみたろか」という達観と見せかけたただの傲慢なマインドでこの場にいるつもりだったがそれはただの「つもり」に過ぎなかった。この距離には耐えられなかった。ステージにここまで近づいたのは人生初かもしれない。ドラムの周りを囲んでいるアクリル板に自分が映っているのが見える。どれだけ斜に構えていたとして、この距離感に簡単に緊張してしまう私はただの人間だと悟った。


左側から出てきた彼は、白い服をはらりと翻しながらイスに座った。


驚くほどの大男だった。ちょっとした熊くらいデカかった。「デカっ」と心の中で声をあげた。それが単純に彼の図体がデカいからなのか、まとっているオーラによる付随効果なのかはわからない。デカいというより、広かった。人間を見て「広い」と思ったことはない。でもその姿から「広さ」を感じたのは事実だ。


そんな彼の手が鍵盤に触れた瞬間、目の前に映る光景もこのホールという空間もそして自分自身も何もかもがグッと縮小された気がした。縮小されたそれは一枚の景色となって私の脳内に投影される。


ピアノを弾く?歌を歌う?もはやそんなレベルではなかった。これはきっとそういう意識的なものではなく、ある種無意識に行われているのではないだろうか。私達の心臓が勝手に鼓動を打って肺が勝手に呼吸をするのと同じだ。きっと限りなく無意識に近い状態で行われるその動きは、恐ろしいほど無意識に自分の中に入り込んでくる。


鍵盤を流れる指、音程だとかキーだとかそんな概念すら消滅させるような自然な声。それはまるでそよぐカーテンを眺めながら風の音を聞いているかのようだった。指でも声でもない。全てが溶けて一体化し「藤井 風」という唯一無二の存在として成立していく過程を見たような気がした。私の席からはちょうど彼の背中越しに自然なオレンジの光が見えた。それはまるで落ちていく夕陽のようで、それを眺めながらただただこの空間に揺られていると始まったばかりなのに別の何かが静かに終わっていくような、何かが閉じられていくような不思議な感覚があった。


そして座ったままの私の両目からは自然に涙が流れていた。


はっきり言って泣くつもりは一切なかった。「で、どんなもんか1回見てみたろか」という気持ちで来たのだ。目の前にイスがひとつしかないような席が当たったのは予想外だったが、何もかもを客観的に俯瞰で眺めた上で彼の才能に触れ圧倒されるつもりだったのだ。しかし彼のその究極に自然な姿から織り成される何かはいとも簡単に心のど真ん中にスッと入り込んできた。それはまさに風のようだった。どんな障害物も関係なかった。するりするりと形を変え、衝撃をいなし、スッと吹き抜ける。


何も考えられなかった。その一秒一秒が、一瞬一瞬が、どこをどう切り取ってもあまりにも美しいワンシーンだった。映画のようだとも思ったがきっと違う。そこに作為的なものはなかった。この曲のキメとも言えるラストのフェイクがどれだけ自然で、どれだけ美しかったことか。あまりに美しく綺麗なものを言葉にすることは野暮だ。自分の汚い手垢でこれを勝手に汚してはならないと悟った。全てが無作為で、全てが自然だった。それが「藤井 風」という「存在」なのだとたった数分間で十分「わからされた」のである。


全身の力が抜け無に浸っていると「立ってもええでェ~」と自然な口調世界選手権優勝間違いないような声かけでスタンドアップが促される。そのあまりに自然な立ち振る舞いと空気感はもはや圧巻だった。やっぱりすごいぞこの人は。全てが究極に「自然」だ。人間は、自然でいることが一番難しいというのに。


スタンドマイクの前に立ちいよいよ私の目の前にやってきた彼はやはり広かった。ただただ広大だった。暗いステージの中で揺らめく彼の姿は夜の風に吹かれる大樹のようだった。そして彼は次から次へとその姿を変えていく。


静かに沈む夕陽、夜の風に揺れる大樹、朝日を浴びて輝く雑草、夕暮れの河原でぽつんと咲く一輪の花、汚れた海辺、廃れた街、溢れかえるゴミ、彼の動きはこの世で「自然」と「人間」が交差する様を体現していたように思える。


今までの人生で自分自身が見てきた景色を、目の前で自由自在に悠々自適に見せつけてくる彼を眺めながら、これはアーティストでもミュージシャンでも音楽家でもなんでもないわと気づかされた。自分の公演を「LIVE」ではなく「SHOW」だと自称していることにも大いに納得した。残念ながらこれは「音楽」ではないと思った。「音楽」でもありながら「演劇」でもあり「映画」でもあり「ダンス」でもあり「ミュージカル」でもあり「落語」でもあり「文学」でもあり「森」でもあり「海」でもあり「遊園地」でもあり「動物園」でもあると思った。この世に存在するありとあらゆるエンターテインメントをかき集め、自然も、人工的なものもすべてありのままに吸収してはひとつにして体現する紛れもない「SHOW」だった。残念ながらチャップリンのショーを生で見たことはないが、それを生で見たことがある人はこんな気持ちになったんじゃないかなと思ってしまった。ずば抜けた表現力と圧倒的な才能に加え、私はそう簡単に人に面白いとは言わない笑いに厳しい人間だが正直お世辞抜きでしゃべりまで面白かった。「次元が違う」という言葉はきっとこの人のために生まれたのだと思う。藤井 風はどこをどう切り取っても稀代の「エンターテイナー」ではないか。


その後もずっと彼の織り成す「景色」にただただ心地よく揺られていたような気がする。不思議だったのは、もはや「曲」という単位を感じなかったことだ。1曲目2曲目という単位はもはやそこにはなく、「曲のつながりが自然」だと思うこともなかった。ただそこに彼がいる。動いている。生きている。それだけで全てはひとつに繋がっていた。


時間が進むたびに、自分がまとっていた重たい鎧やがんじがらめにされていたつまらない鎖がぼろぼろと引きはがされていく気がした。一気に引っ剥がされるのではなく、あくまで自然に優しく。そして剥がれたそれは羽根のように姿を変えはらりはらりと静かにやわらかく落ちていく。自分がただただありのままのナチュラルでフラットな状態に戻されていく、そんな遡及的な感覚すらあった。


MCで突然バッキバキの英語を喋り出したと思ったらその後バッキバキの岡山弁で喋り出すそんな凄まじいアップダウンにもその頃にはそんなに驚かなくなっていた。だってこれが彼の「自然」なのだから。さすがに突然矢島美容室がおっぱじまった時はマスクの中で小さく「まじかよ」と漏らしてしまったけどもこれも彼の「自然」である。"へでもねーよ"でスーパーの床でだだをこねる3歳児のように大男が頭も背中も全部つけて床を激しくゴロゴロ転げ回りながらも完璧に歌を歌っていた時は一周回って「もしこの人が『コロコロ』だったらゴミがよくとれそうだなぁ」と思ったけどもこれも彼の「自然」なのである。もはや驚くべきことではなかった。


そして本編ラストの"青春病"では、それまでの暗くアンニュイな照明とは打って変わって、まるで生まれ変わったかのような真っ白で眩しい光が彼を包み、たった2メートルほど前にいる彼の両目はそれはもう美しく輝いていた。キラッキラだった。ハッキリ言って今まで生きてきてこんなにも輝いている目を見たことがないし今後これ以上に輝いている目を見られることはないだろうと確信したレベルだった。それは眩しい日の光が反射する美しい瀬戸内海の水面のように、ただただ美しくきらめき輝いていた。


泣いていたのだ。


歌い終わり、その大蜘蛛のような両手で顔を覆う。顔が小さすぎるのに手が大きすぎるのでその長い指は顔を覆ってもなお余りに余っていた。そして彼は顔をあげ、少し困ったように歪んだ顔とキラッキラの目を名残惜しそうに客席とステージに向け去っていった。


泣いとるやないか。


それに気づいた瞬間、ゴーーーーンと鈍器で後頭部を思いっきり殴られたような感覚に陥った。脳内に除夜の鐘が鳴り響く。あのきらめきは、涙だったのだ。そういえば、彼はいつも「手」を大切にしている気がする。鍵盤を叩き全ての感情を表現する動きとしての「手」、そして何かを信じる象徴としての「手」。彼にとって「手」は何か大きなものを司る存在なのではないだろうか。最後の最後、この曲で観客たちが天高く上げ左右に大きく揺らしていたその「手」は彼にどれだけ美しい景色として映ったのだろうか。それを知るには彼の目のきらめきだけで十分だった。


こんなんはただの「人間」なのよ。


「『HELP EVER HURT NEVER』とは言うとるけども、ワシも傷つけてしまうことはあるし、全然できとらん。それでも、やっぱりワシはより良い人間になっていきたいし、より良い人生を歩んでいきたいと思うとる。だからみんなでがんばっていきましょう。」


終盤のMCで少し照れ臭そうに目を伏せゆっくりゆっくりと彼が紡いだおおよそこのような言葉に私は完全にドカンと胸を打たれた。完全に目が覚めた。何が神だ。何が天使だ。この人は、ただの「人間」ではないか。ただ圧倒的な才能を持った天才が、何の才能も持たない凡人と同じように悩みながら生きているだけではないか。圧倒的な才能があれば、天才であれば、もがき苦しみ悩むことはないなどと誰が決めたのだろう。そんなことすら、私は彼の圧倒的な才能の前に忘れてしまっていただけだった。


圧倒的な才能を携えながら目の前のステージを自由気ままにありのままに舞い踊る彼と、見えないところにいる彼の周りの人々のことを思うと彼を「蛍」のような存在だなと思った。


蛍は美しい水がないと生きていけない。田舎に留まっていればそれだけで終わったかもしれない才能を、インターネットが掬い上げた。そして、蛍のような超自然的な彼を、田舎から離れてでも光り続けられる術はあると導く者がいた。蛍が光るために地元住民が綺麗な水辺を守っているように、彼の才能が際限なく輝き続けるために彼の居場所を守っている人々が見えないところにたくさんいることはこの日ステージを見ているだけで十二分に伝わってきた。もちろん、彼は一方的に守られているだけの存在ではない。何より、彼自身がこんなに悩みながらより良い人間になろうと、より良い人生を送ろうとがんばっているではないか。圧倒的な才能ゆえに、何があっても揺らがず淡々と飄々としているものだと勝手に思っていた。しかし実際はこんなにも感情豊かで、こんなにも揺らいでいる。才能を振りかざすだけでは決して人は集まらないだろう。周りの人々は彼を信じ、彼もまた周りの人々を信じている。私利私欲と虚栄心に溢れるこの殺伐とした時代に、なんとまあシンプルかつ純粋無垢で素晴らしく尊いことだろうかと一観客として胸を打たれた。


何もかもが吹き抜けた後、私は恐ろしいほどに空虚だった。何も残らなかった。私は彼に何も残されなかったし、彼は私に何も残していかなかった。でもそれでよかった。多分彼はきっと誰かに何かを残そうとはしていない気がした。つまらない見栄も、ありきたりな邪念も、全てが自然にゆっくりと浄化されていったような感覚があった。ただひたすらに、心が凪いでいた。


この殺伐とした時代の中でまるで聖域を築くかのように、彼は清らかなその場所で蛍のように儚くも力強く光り舞い踊っていた。何人たりともこれを汚すことは許されないだろう。


勝手に何か一つ願うのならば、清らかなこの場所と彼の"旅路"がどうか永く続きますようにと願うほかはない。
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