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『 何度でも聴こえる 』

—忌野清志郎の歌—

 わけもなく突然思い出す歌というのがある。先日の私にとってそれは忌野清志郎の「誇り高く生きよう」だった。


  「口ぐせのような ありふれたラブ・ソング
   今夜も君に歌うよ 本当の気持ちだから
   風に消されそうな ちっぽけなラブ・ソング
   君が受け止めてくれる 強く抱きしめておくれ」


 この曲は、生前最後のアルバムとなった『夢助』の冒頭に収録されている。使い古された言葉で紡がれた「ありふれたラブ・ソング」でも、聴くものの心をとらえる何かがあるのは、もちろん彼が不世出のシンガーだからだといえるけれど、それよりもまず、忌野清志郎という人は稀有な作詞家でもあるからだ。
 彼は、「誰もが感じること」を「誰もがわかる言葉」で歌いながら、「誰もが忘れがちなこと」を思い出させ、「誰も気づいていなかったこと」に気づかせる。しかも、何度でも。


  「誇り高く生きよう 君のために
   誇り高く生きよう 君のために」


 久しぶりに聴いたこの曲のエンディングで繰り返し歌われるフレーズが、それまでとはまったく違って聴こえた。特に「君のために」という一言が。

 「生きよう」という意向形の動詞は、自分の意志表明として使うことができる。ここでは歌全体の「ラブソング」として文脈から、私はこれまでこの曲は「僕は君のために誇り高く生きていく」という決意を歌っているのだと、特に気にすることもなく聴いていた。

 けれど、意向形というのはたとえば「うちに帰ったら手を洗いましょう」というように、相手に対する呼びかけとしての役割も持つ。そのことにふと気づいたとき、「誇り高く生きよう 君のために」というフレーズが、私のなかでこれまでと違う輝きを放つようになったのだ。
 それは、「君自身のために誇り高く生きるべきだ」という、気高く力強い励ましだ。そして、その励ましが今ことさら意味を持って響いたのは、私たちが生きる2021年の社会の様相と決して無関係ではないだろう。

 気づけば一年以上、私たちは平常ではない日常をやり過ごしている。そうした毎日を、国からの要請や社会情勢を鑑みながら行動していると、私たちが取り組んでいることというのはともすれば、ただ「社会のため」であると錯覚してしまいがちだ。
 たしかに、社会や他者を守るために行動することは非常時でなくとも必要だし、道徳的にも正しい。しかし、「他者のため」にとった行動から人はとかく見返りを求めがちだ。そして、実際のところ期待どおりの見返りを常に得ることは難しく、徒労に終わることも多い。すると、見返りの期待できない他者のために行動しようと思うものは少なくなっていき、やがて「持たざるもの」は見捨てられるようになる。また、「他者」というものが不特定多数になるほど、「誰かにやらされている」という感覚や、「ほかの誰かがやってくれる」という心理の芽生えにも容易につながる。
 美徳だと思われている「他者のため」という考え方は、ねじ曲がりやすく、物事をかえって煩雑にする性質も持っているのだ。

 だから、私たちが今取り組んでいることというのは、他者や社会のためでもあると同時に、まず何よりも「自ら選んだ」行動であるとあらためて認識することが必要なのではないか。「無償の優しさ」などという高みは望まずとも、少しでも自分に「誇り」を持ち、「主体性」を実感することこそが、より良く生きることにつながっていくのではないだろうか。
 とはいえ、誰もが大それたことができるわけはないから、何でもないような小さいことを積み重ねていくしかない。それはたとえば、「外食するかわりに同じ店からテイクアウトした」でも、「家族に会えないかわりに電話した」でもいい。「何もしないで家にいた」ということだって、まわりまわって誰かを助けるかもしれない。
 そんなふうに、無力を嘆くのではなく、自分のなかにある些細な良心をできるだけ認めることで、小さくとも確かな「誇り」を持つチャンスを今、私たちはみな持っているのではないか。
 無力感に苛まれることがあれば、ときには自分を甘やかしてもいい。それでも誰の「要請」でもなく、「自らの意志」で行動しているという認識は、少しずつ私たちを強くするはずだ。


 思えば、忌野清志郎は「自らの意志」で行動することで、「誇り高く生きる」ということを常に実践し示してきた人だ。そして、そのためであれば敢然と何かに立ち向かうこともいとわなかった。はっきりと自分の思うところを歌った。ときに激しすぎるほどに、そして常にユーモアを交えて。
 だからなのか、2011年の原発事故以来、何か大きな社会問題が起こるたびに「清志郎だったら今何を歌うだろうか」という論調になりがちで、たしかに彼が歌うべきことは今でも山ほどあるように見受けられはする。しかし、私たちは優れたミュージシャンの不在を、安易にジャーナリズムに投影してはいけない。そうでなくとも、彼はさまざまなことを、実は時代や時流に関係ない目線で常に歌ってきたはずだからだ。

 それはたとえばRCサクセションの『COVERS』だってそうだ。あの作品は、たしかにテーマとして原発をはじめとする社会問題・時事問題を取り上げてはいるし、「その時々のタイムリーな話題を歌にする」という点においては、その後の忌野作品の布石になったともいえる。だが、この作品に込められているのは社会に対しての「扇動」や「告発」などではなく、彼の個人的な「考察」だ。
 事実、彼は徒党を組んだり、政治活動を行ったりすることは決してなかった。いつも「自発的」であること、自分一人で行動することに信念を持っていた節がある(それは「シュー」などに顕著なように、初期のRCから一貫している)。そして、すべてステージの上で完結していた。つまり、音楽活動の中で政治について歌ったけれど、「政治活動としての音楽」をやったことはないということだ。

 「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」だけを聴いたことがあって、この作品を「反原発のアルバム」だと認識しているのならば、今一度今作を聴きとおしてみてほしいと思う。この作品で特筆されるべきなのは、彼の「観察力」の鋭さにほかならない。たとえばジョン・レノンの「イマジン」の意訳詞の中で清志郎はこう歌う。


   「誰かを憎んでも 派閥を作っても
    頭の上には ただ空があるだけ」


 一聴すると社会批判のように聴こえるこのフレーズのあとで、


   「みんながそう思うさ
    簡単なこと言う」


 と歌う。「だから憎むのはやめよう」と続けることもできるし、「簡単なことだけど実現は難しい」あるいは「現実はそんなに簡単ではない」と続けることもできる。いずれにせよ、彼は「理想」を歌っていながら「理想論」で終わらせようとはしていないことがわかる。
 前段が「空」からの「傍観者」の目線であるとするなら、後段は「当事者」の目線で、この「当事者意識」こそが彼が常に持っていた視点だ。したがって、「夢」も見たけれど、それ以上に「現実」を見ていた。だから、一聴すると「怒り」の作品のようにも聴こえる今作において、彼は自分がどういうことについて歌っているのか、実は非常に冷静に見極められていたのだ。

 『COVERS』で彼が歌っているのは、こうした世の中に対する「観察」の必要性と、それを表明できる「自由」の尊さだ。もちろん、その根源にあるのはいつもと変わらぬ「愛」である。
 そして、こうした「観察し/自由に表明し/愛を伝える」ことの重要性というのはつまるところ、置かれた時代が原発事故であってもコロナ禍であっても変わらない。彼の歌に何十年経っても冷めない熱があるのはそのためで、その熱こそすなわち「普遍性」と呼ばれるものだ。

 したがって、普遍性を持つものは時代が変わったとき、あるいは個人の考え方が変わったとき、自動的にアップデートされる。だから、2021年の忌野清志郎の新曲を聴くことはできなくても、ずっと昔に彼が歌った歌が今、真新しい感動を連れてくるということが起こりうるのだ。
 そういった意味では、時が経ち彼が歌っていた時代が遠くなるにつれ、つまりその「時事性」の効力が薄らいでいくにつれ、逆に彼の歌のもつ普遍性というのは今後さらに顕在化していくだろうということもできる。
 以前、ロッキング・オンのインタビューで、「昔は、本当にいいものは生きてるうちには認められないと思ってた」という彼の発言を読んだことがあるが、忌野清志郎の音楽においてそれは半分間違いで半分本当だ。間違いなのは、彼の音楽の魅力というものが生きているうちに認められたからで、正しいのは、彼の音楽は彼がいなくなってからもなお、人々に愛されているからだ。それはつまり、彼の作品には、一人の人間の肉体的時間を超越する力があるということの証明でもある。

 先述の「イマジン」には、彼がそれすらも見通していたのではないかという示唆もある。エンディングの有名な一節だ。


   「夢かもしれない
    でも その夢を見てるのは
    きみ一人じゃない
    夢かもしれない
    でも一人じゃない
    夢かもしれない
    かもしれない」


 「僕らは薄着で笑っちゃう」(「窓の外は雪」のセルフオマージュ)というバックコーラスとオーバーラップしながら、さながら混沌のなかでもがくように、自問自答を繰り返しながら清志郎は歌う。『COVERS』という作品のいちばん最後に「夢かもしれない でも一人じゃない」と歌ったのはつまり、彼は自分一人の力で何かを変えられる、あるいは自分の生きているうちに理想の世界が実現できるなどと過信も楽観もしていなかったということではないか。
 そして、「それでも歌う」という強い決意こそが『COVERS』最大の魅力だし、それは今作以降の作品にも漲っているものだ。彼は、ひとりの音楽家として、また市民すなわちひとりの「当事者」として、自分に出来うることをやることでその決意を実践したのだ。
 だからこそ、最後のアルバム『夢助』における「誇り高く生きよう 君のために」という短いフレーズが示唆するものはとてつもなく大きい。


 「誇り高く生きる」ことは容易なことではない。しかし何度挫折しようとも、誰にも相手にされずとも、それを実践し続けた忌野清志郎という人のことを私たちは知っている。誰も清志郎のように歌うことはできないけれど、誰もが彼と同じ気概を持って生きていくことはできるはずだ。だから、私はこれ以上彼の不在を嘆くのではなく、自分のやり方で誇り高く生きたいと思う。

 この先何十年経っても、世界あるいは個人が「激しい雨」に立ち向かうとき、忌野清志郎の歌声は聴こえてくる。そして、「何度でも 夢を見せてやる」と歌った彼の歌が持つ新しい意味を、私たちは何度でも知ることになるだろう。
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