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男と女とジェンダーレス

宮本浩次が歌うこの世界

 カバーアルバム『ROMANCE』が注目されるようになってから、ひときわ、宮本浩次について「女性性」「中性性」とか、「ジェンダーレス」という表現を目にするようになった。だが、どうにもモヤモヤとした違和感があり、考えてみた。とても解明できるものではないのだが、少しずつ紐解いてみたいと思う。

 男らしさ、男っぽさとは何だろう。「男っぽい曲ができた」とか「男らしいMVになっていて」というような言いまわしを宮本はよく使う。歌詞にも、精悍な言葉遣いと共にこれでもかというくらい〈男〉が出てくる。歌われている〈男〉は、自己と対峙し、理想と敗北のあいだで葛藤し、苛立ちと焦燥感にはさまれて逡巡し、自分の生き方を見出そうと悩みもがきながら咆哮する。それは彼の中に目指すべきかっこいい男の生き方が確固としてあり、その境地へ到達する道をひたすらに模索している姿そのもののように見える。
 彼の中の《何か》が、男らしさとか男たるものに対して強い憧れを抱いていて、追い続ける情熱と満たされないもどかしさを歌の世界で昇華させようとしている。現実に男であるにもかかわらず、人間としての生き方への希求を歌の中の男に代弁させ、これほどまでにこだわらせている《何か》。

 昨年春の緊急事態宣言。表現者たちの多くは、外出できない自粛生活の中で初期衝動が呼び覚まされ、自分自身と向き合ううちに原点に回帰することとなったようだ。
 今現在の素の自分で、大好きな歌を歌ってみたい。それが愛してやまない歌謡曲だったのは自然な成り行きだろう。少年時代への郷愁。お母さんが歌っていた女性歌手の歌。
 好きな歌を歌うことに深い意味はなく、性別は関係ない。私も、鼻歌でもカラオケでも男性歌手の曲を歌う。だが、純情にまかせて感情移入し、衒いも恥ずかし気もなく異性の歌を歌えるのは、歌への純粋な愛情とリスペクトによるものだけだろうか。誰もいないひとりきりの作業場で、閉塞感を打ち破るかのように思い切り歌うことによって、歌の世界に没入する。おんな唄に描かれるヒロインに惹かれ、号泣するほど共鳴する《何か》があるのではないだろうか。

 正体のわからない《何か》が奥底に存在する。それが女性性と名付けられているものの一端を形成しているような気がするのだ。だが、おいそれと解き明かせるものではないし、解き明かしたいとも思わない。いつか時が来ればわかることかもしれないし、わからないままでもかまわない。

 女性性とされているものの核は、実は女性性ではなく〈受容性〉なのではないかと私は考えている。
 今まで、エレファントカシマシのフロントマンとして自分で作って自分で歌って、言いたいことや思いの丈を噴出させてきた。その歌には、男たるものの生き様とか、ロックとは反骨精神を歌うものだ、といったこうありたい、こうあるべきという理念と気概が籠められていた。
 それに対してソロ活動。これほど華やかに展開するつもりはなく、自分から働きかけたわけでもなく、次々と到来したコラボやタイアップの企画をこなしていった結果がかたちになったものだという。そして人が作った曲を歌ったり、テレビ番組の主題歌を依頼されてテーマをもらったり、カバーを歌ったり、という経験の中でこれまで歌ったことのない世界観と出会った。プロデュースしてもらうことで、歌に専念できて、一歌手として歌と向かい合い、新境地が拓かれた。
 それぞれの内容を顧みると、自作自演を世に問うてきたバンド活動では、男の生き方を謂わばおとこ唄として歌い上げていて、ソロ活動では、そのひとつとして世間の耳目を集めたカバーアルバムが、女性歌手の歌に特化した作品となった。このおんな唄を歌ったことと、女性とは受身の性であるというジェンダーバイアスとが繋がって、[宮本浩次の受容性]=〈女性性〉と受け取られているのではないか、と思うのである。

 満たされないまま 引きずりまわして歩け
 おいオレ、オマエ一体何処行くの?
 オレか?オレは燃え上がる日を待っている
  俺の道を         (“俺の道”)

 「待っちゃってるでしょう」と宮本はソロアルバム『宮本、独歩。』が出来上がった頃のインタビューで、2003年の曲“俺の道”を引き合いに出して語っている。おとこ唄を歌い続けたアグレッシブな活動の底に〈受容性〉が潜んでいたのかもしれない。現在地は、待っていて受容する態勢が整ったから受け入れることができた、バンドが30周年を経て達成感をかみしめ、祝祭感のうちにソロ活動を決意し、緊急事態宣言の自粛生活の中で原点回帰したタイミングの、機が熟した結果としての現在なのだ。

 そして、浮き彫りになったのが〈ジェンダーレス〉だ。
 カバーされた楽曲は女性歌手の歌ばかりだが、作詞は男性によるものもある。男性が思う理想や願望の女性像が描かれているとも言える。だからそれらは想像の産物で、現実にはそんな女性はいないし、“ロマンス”では「‘もしもとべるなら とんでついて行く たとえ嵐でも たとえ遠くでも’って、飛んで来られても困っちゃう」し、“二人でお酒を”でも「‘うらみっこなしで 別れましょうね’って言っておいて‘それでもたまに 淋しくなったら 二人でお酒を 飲みましょうね’ってなんだそれ?」(いずれもNHK『The Covers』での宮本の発言)と現実的に考えると疑問符がついてしまうような内容。それでも、理屈の及ばないところで感情が揺さぶられる。たとえ論理が破綻していても成立するのが、歌の世界なのだ。
 これほどの愛憎の情念は、今までの男たるものを追い求めてきたおとこ唄にはなかった世界観だ。ソロ活動は、バンドではやらなかったこと、できなかったことを実現するステージ。ソロ楽曲にある直接的な言葉を用いた歌詞もそうだし、虚構の世界の女性の気持ちをまるで乙女を演じるかのように歌うのも、その発現のひとつなのだろう。

 なぜ共感するのか。女性の純愛や失恋の歌を、なぜ男性である作詞家が書けるのか。それは、松本隆が言うように、そこで描かれる感情に性別は関係ないからだ。そもそも性別とは、便宜的なもの。片思いに悩み、相思相愛に幸せをかみしめ、失恋に心が傷つき、期待と不安、孤独、後悔、欲望、葛藤、焦りと苛立ち、喜び、悲しみ、感謝、いくらでも挙げられるが、これらには性別の枠なんて存在しない。
 エレファントカシマシのおとこ唄は、あれほど男、男と叫んでいるのに、女性にも自分のことのように心に響いて刺さってくる。カバーされたおんな唄は、可憐な純情や一途な健気さが男性の心をも震わせる。これは男性が女性の気持ちを、女性が男性の気持ちを理解できる、という単純な二極化構造ではない。普遍的な感情を歌という虚構の世界で描くには、〈男〉と〈女〉という器に仮託するのがわかりやすいからだ。そしてそれが誰もが持っているそれぞれの《何か》に届いて、共感を呼び覚ます。ただ、感じ方や受けとめ方が、生きてきた環境や経験値によって異なるだけのことだ。
 もっと言えば、暑い時に風が吹いてきたら気持ちがいいとか、寒いけれど空気が綺麗だから空を仰ぎたくなるとか、太陽という光が毎日必ず昇り来る絶対的な存在であるから自らの浮き沈みを預けられるとか、生きとし生けるもの共通の感覚。宮本浩次という表現者は、そういう感覚に対する感受性がとりわけ鋭敏かつ素直であるがゆえに、それを言葉として、また歌として、自身の感動の熱量そのままに届けることができる稀有な作り手であり、歌い手なのだ。ソロ活動に踏み出すことによって、自分自身の原点に立ち返り、自分自身で縛っていた求道から解き放たれた。その結果、立ち現れたのは、既成概念や先入観をしなやかに超越してみせる歌の世界だったのだ。

 ファンの間で言われる表現として〈妖精〉というワードがある。“夜明けのうた”のミュージックヴィデオの、薄明の中をランタンを手に階段を上る姿は、まさに妖精のようだ。そして、開けた屋上で〈曙光〉を全身に浴びながらワルツのリズムで風のように舞う姿は、私には〈星の王子さま〉に見えた。王子さまは、星から星へと渡り歩き、学者や街灯の点灯夫などのさまざまな人物や〈赤い薔薇〉と遭遇して、世界のありようを知っていく。彼が作る楽曲の振り幅を思うと、風土の異なる星から星へと次々に旅をして、そこで出会った風景から新しい曲が生み出されてきた道程を見るようだ。その世界では、このところ口にする人生の残り時間に対する焦燥感とは裏腹に、ゆるやかに時が流れていく。ジェンダーレスに加えてエイジレスなのは、そのあたりに鍵があるのだろうか。
 次の旅先に選ぶのはどんな星だろう。楽しみが尽きない。
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