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あの日、三十度以上

GRAPEVINEがくれる至高の気怠さ

この記事を書き終えるころ、私は40歳になっている。成人してから20年が過ぎることになる。あのころの倍の年令に達することになる。

いまでもハッキリと思い出せる十代の夏がある。その一方で、どういうわけか、これといった記憶の蘇らない二十代の夏もあるのだ。不思議なものだ、いまに近ければ近いほど、その時の思い出が鮮明であるとは限らないわけである。そういうことを知れただけでも、40年を生きた意味はあったのかもしれないと、ぼんやりと思ったりする。

懸命に生きていれば、その瞬間が記憶に焼き付くかというと、一概にそうとは言えない気がする。逆もまた然りである、ゆったりと一時期を過ごしても、それはそれで貴重な時節として、クッキリと心に刻まれていたりする。「頑張る」というのは尊いことなのだろうけど、どういった姿勢が「思い出を作る」ことに繋がるかは、分からないものだ。

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いま私は、20歳の夏のことを思い返そうとしているのだけど、どうにもうまくいかない。青春の真っ只中と称していいはずの「その夏」、どのように自分が過ごしていたのか、どのような心的状況にあったのか、なかなか思い出すことができない。

たしか梅雨に自動車教習所に通いはじめ、秋に免許証を取得したはずだから、あるいは私の「その夏」は、必死に運転技術を覚える日々だったのかもしれない。それにしても「それだけ」では有り得ないような気がする。大学2年生の夏休みというのは(少なくとも当時は)呑気なものであり、課題や就職活動に追われることはなく、学費を稼ぐためのアルバイトくらいしか、私の「やらなくてはならないこと」は、なかったはずである。

きっと私は、その夏の多くの時間を、ぼんやりと、ただ、ぼんやりと過ごしてしまったのだろう。もし私が30歳だったら、それを悔やんでいたかもしれない、若者は予定を詰め込んでこそ「青春謳歌」だろうと、そう決めつけていたかもしれない。

でも、今の私は、その「ひと夏の空白」を、決して虚しいものだとは感じない。人生に必要なのは「抑揚」だと考える。ずっとバスドラを蹴りつづけるだけがロックンロールではないように、晴天だけがつづくのが夏ではないように、のっぺりとした「間奏」のような日々も、遠い未来(つまり今)、何かの役に立っているものだと思う。

何の役に立っているかは、うまく説明できないし、ずっと分からないかもしれないけど。

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20歳の夏について、思い出せることが、ひとつある。

GRAPEVINE(グレイプバイン)の「その日、三十度以上」を、よく聴いていたのだ。学生時代はどこに出かけるにも、MDウォークマンを持ち歩いていたから、きっと何十回、何百回と、その曲を聴いたはずである。どこに向かう時に、誰との待ち合わせの時に「その日、三十度以上」を聴いていたかは、ほとんど覚えていない。BGMだけが胸に焼き付いていて、肝心の「ストーリー」を忘れてしまっているわけだ。自分史という映画の、サウンド・トラックしか残されていない、フィルムはどこかへ消えてしまった。

いま、あらためて本曲を聴いてみているのだけど、ありありと胸に蘇るようなシーンはない。ああ、何となくこの曲が好きだったな、きっと当時の(若かった)自分は、こういう曲調を求めていたのだろな、そんなことだけを思う。「懐かしい」のとは少し違う、ただ「かつて自分は若かったのだな」と思っているわけだ。

<<流れてしまうのです 波の音枕にして>>

私は海の見える町に暮らしていたわけではないのだけど、ぼんやりと「潮騒」を聴くかのように、二度と巡らない夏を過ごしたことになる。その「潮騒」は、多くのものによって作り上げられていたはずだけど、その「主旋律」をGRAPEVINEが担ってくれていたことになる。

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21歳の夏のことは、ハッキリと覚えている。夢見がちだった若き日の自分に、いよいよ「現実」というものが染み込んできた、その感覚が傷のように、未だにハートに残っている。そこから先は速かった、現実に侵されたあとの人生は、進むのがとても速かった。

いや、それは少し違うな、大学を出たあとも、時として永遠にさえ感じられる刹那を味わいもしたのだから、青春期以降の人生が早回しで進むなどと、言い切ることは望ましくないだろう。

それでもハッキリとしているのは、夏という季節が恐ろしい速さで過ぎること、真夏というのが一瞬で終わるということを、気付けば思い知らされていたということだ。いつ知ったのかは定かではないけど、いまの私は、それを知っている。夏に「気怠さ」を感じられるのは、それを感じていることを意識さえしないでいられることは、言うなれば「若者の特権」だと、私は経験的に思う。

<<想像は雲の上 ぼくらは空の下>>

いつか「想像」は足もとに降りてきて、かつては高く思えた「空」に、時として手が届きそうに思えてしまう。「年を重ねる」という感覚を比喩的に表すのなら、私にとっては、そういうことになる。

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あの夏、思い出せない20歳の夏、私は何を信じ、何を疑い、何に焦がれ、何を忌避していたのだろう。私をして楽曲「その日、三十度以上」を愛させたのは、どのような想いだったのだろう。それはもう知りえないことだけど、いま聴いても心に突き刺さってくるリリックはある。

<<そよぐ風でいたいよ めいっぱいの>>
<<泳ぐガキでいたいよ 精一杯の>>

かつては漠然と「広い」としか感じられなかった大地を、私は年相応に歩き回ったと思う。人生という「海原」を、時として溺れかけながらも泳いできたと思う。そうやって知ってしまった、ある程度は知ってしまった、この世界の成り立ちを、生きることの意味のようなものを、もう一度、忘れることはできないだろうか。若返ることを望みはしない。「精一杯に泳げるガキ」の心意気を、今からでも獲得できないだろうか。

恐らくは加速度的に、これから私の迎える夏は儚くなっていくのだろう。もし何ごともなく、あと数年、あるいはそれ以上、生きることができるのだとしても、体感的な「夏の長さ」は、刻々と短くなっていくだろう。そして、そこから「現実の気配」を完全に追い出すことは、もう果たしえないかもしれない。20歳の時に過ごすことのできた、いつしか思い出すことさえできなくなってしまうような夏を、もう私は、たぶん過ごせないだろう。

それでも楽曲「その日、三十度以上」を聴く今、そのアンニュイな前半部分から、青春の薫りを感じとることは、辛うじて、できていると思う。ノイジーなバンド・アンサンブルが披露される後半部分から、未知なる場所へと泳ぎ出そうというような、蒼くも力強い志を感じとることも、どうにか、できているようには思う。

<<そういつまでも 想い尽きぬよう>>
<<通り過ぎてゆく今日が>>
<<思い出になると言えど>>

本文をつづっている今さえ、明日の私にとっては、きっと「思い出」になっているはずである。いま終わろうとしている三十代、その感触を焼き付けようとする試みは、虚しく不毛なものなのかもしれない。

それでも私は、ぼんやりとしか思い出せない二十歳の夏に、GRAPEVINEの楽曲が流れていてくれたことを、まだ忘れていないし、これからも忘れずにいたいとは思っている。そして気力のある限り、加齢に抵抗するように、夏の儚さに立ち向かい、一瞬でも「凪」を感じられたなら、つまり、現実の気配を忘れかけることができたなら、その瞬間を慈しみたいと心に期してはいる。

<<想い尽きぬよう>>、生きていけたら。

いま、二十歳の時に願ったのかもしれないことを、あらためて願ってみる。叶わないかもしれない、それを分かる今だからこそ、願うことに意味があるのだと信じて。時計に目をやると、ひとりの男の40代が始まっている。

※<<>>内はGRAPEVINE「その日、三十度以上」の歌詞より引用
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